2025年4月20日「復活の喜び」
2025年4月20日 花巻教会 イースター礼拝説教
聖書箇所:創世記1章1-5節、26-31節、ローマの信徒への手紙6章3-11節、マタイによる福音書28章1-10節
イースター礼拝
イースターおめでとうございます。本日はご一緒にイエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝をおささげしています。昨年のイースターは3月31日でしたが、今年は少し遅めの4月20日。ちょうどいま花巻は桜が満開です。本格的な春の訪れと共に、私たちは今朝、喜びの日を迎えました。
イースターは近年、テーマパークやデパートでも取り上げられ、だんだん日本でも浸透してきていますね。イースターのシンボルとして登場するのは、ウサギとタマゴ。タマゴはイースター・エッグ、ウサギはイースター・バニーとも呼ばれます。教会では伝統的に、イースターの日に、飾り付けをしたゆでタマゴを礼拝に来てくれた人々に配る風習があります。昨日、教会の有志の皆さんがイースター・エッグ作りをしてくれました。礼拝の後、皆さんにプレゼントします。ゆで卵になっていて食べられますので、どうぞ召し上がってください。
タマゴには、「新しい命」というイメージがあります。殻をやぶって、新しい命が生まれる。そのイメージと、イエス・キリストが墓の中からよみがえられたイメージとが結び合わされ、伝統的にタマゴがイースターのシンボルとして用いられるようになったようです。
では、ウサギはどうでしょうか。ウサギは、春先にたくさん子どもを産みます。日本ではあまりそのようなイメージはありませんが、ヨーロッパではウサギもやはり、「新しい命」をイメージさせる存在であるようです。タマゴと共に、ウサギもイースターのシンボルとして描かれるようになりました。
十字架の死を経た上での復活
3月5日から昨日の4月19日まで、私たちは教会の暦で受難節の中を歩んできました。受難節とは、イエスさまのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期のことをいいます。受難節の最後の1週間は、受難週と呼ばれます。受難週である先週、私たちは木曜日に洗足木曜日礼拝をおささげし、金曜日に受難日祈祷会を行いました。
イースターは「イエス・キリストが復活したことを記念する日」ですが、より詳しく言いますと、「イエス・キリストが十字架におかかりになって亡くなられ、その三日目に復活されたことを記念する日」です。イエスさまのご復活は、十字架の死を経た上での復活であることをご一緒に心に留めたいと思います。
岩手はちょうどいま、桜の季節です。イースターをお祝いする時期が春であるのも、大切な意味があるように思います。長い冬が終わり春が来る――この嬉しさは、岩手をはじめ、寒さの厳しい地域においては、ひとしおです。雪がとけ、草花が一斉に芽吹き始める、その嬉しさ。長い冬を経験するからこそ、春が来たことの喜びを深く実感することができます。そのように、イエスさまのご復活は、ご受難と十字架の死を経たものであるので、私たちの心の最も深きところに響く出来事となっています。
復活の日の朝
先ほどご一緒に、本日の聖書箇所であるマタイによる福音書28章1-10節をお読みしました。イエスさまがよみがえられた日曜日の朝の出来事を描いている場面です。登場するのは、マグダラのマリアともう一人のマリア。この女性たちは、イエスさまのご受難と十字架の死を最後まで見守っていた人々でした。
明け方、まだあたりが薄暗い中、マリアたちはイエスさまが葬られたお墓に向かっていました。心の中は言葉にできない深い悲しみでいっぱいであったことでしょう。愛するイエスさまが十字架の上で苦しんで亡くなられた、その痛ましいお姿が目に焼き付いて離れなかったことでしょう。イエスさまが亡くなってしまった、ということに加え、苦しんで最期を遂げられたという事実が、マリアたちの心に耐え難い痛みを与えていたのではないかと思います。
マリアたちがお墓につくと、大きな地震が起こり、天使が現れます。そうして、マリアたちに語りかけます。5-8節《恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、/あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。/それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました》。
天使たちは、かつてイエスさまご本人が約束してくださったとおり、イエスさまが復活されたことを告げます。マリアたちが恐々お墓をのぞいてみると、天使の言った通り、中は空でした。
マリアたちは恐れながらも大いに喜び、走り出しました。このことを、弟子たちに伝えるためです。朝の光が、マリアたちを照らし始めます。
すると、行く手に復活されたイエスさまが立っていました。朝の光の中に、あの愛するイエスさまが立って、待っていてくださったのです。この瞬間、マタイによる福音書はクライマックスを迎えます。9-10節《すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。/イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」》。
「おはよう」
よみがえられたイエスさまのその第一声は「おはよう」でした。当たり前と言えば当たり前の言葉であり、あまりドラマチックなものではありません。イエスさまは何か特別なことを言ったのではなく、普段通りの挨拶をなされました。けれども、イエスさまの第一声が「おはよう」という当たり前の挨拶であったところに、大切な意味があるように思います。
この朝の「おはよう」という挨拶。その挨拶を、マリアたちは生前のイエスさまと毎日交わしていたのだろうと思います。一緒に宣教の旅をしている間、毎朝、微笑むイエスさまの「おはよう」という挨拶を聞いていたことでしょう。その毎朝の挨拶が、十字架の死という悲惨な出来事によって、聴こえてなくなってしまいました。たとえ太陽が昇っても、マリアたちの心は夜のように、ずっと真っ暗なままであったことでしょう。しかしいま、イエスさまは再びマリアたちのこころに「おはよう」と語りかけてくださった。この朝の挨拶とともに、マリアたちの心に再び朝が訪れました。
この当たり前の挨拶によって、悲しみのあまり思い出せなくなっていたイエスさまとの大切な記憶の数々がマリアたちの胸によみがえったのではないかと想像します。イエスさまと過ごした、かけがえのない一瞬一瞬が、胸いっぱいによみがえった。イエスさまの「おはよう」という挨拶によって、凍りついたようになってしまっていたマリアたちの心に、再び生命が取り戻されていったのではないでしょうか。マリアたちの心に、イエスさまとのあたたかな愛のつながりが取り戻されていったのではないでしょうか。冬が終わり、雪が解け、大地に草花が一斉に芽吹き始めるように。
いま目の前に、イエスさまが生きておられる。しかも、十字架の上で苦しそうにしておられたイエスさまではなく、いつものようにやさしく微笑んでいるイエスさまがいま、ここにおられる。その事実が、何よりもマリアたちの心に喜びをもたらしたことと思います。
復活の喜び
「おはよう」という挨拶は、「喜びなさい」という意味ももっています。この言葉のとおり、マリアたちの心には喜びがもたらされました。その喜びは束の間の喜びではなく、もはや取り去られることのない喜びでした。
マリアたちはイエスさまに近寄り、イエスさまの足を抱きしめました。幽霊には足がありません。足があるということはその人が「生きている」ことの証拠です。マリアたちはイエスさまの足を抱きしめ、イエスさまが「いま生きておられる」という事実を全身で確かめました。
イエスさまが「いま生きておられる」ことを確信したマリアたちは、新しい生き方を歩み出し始めました。それは、よみがえられたイエスさまと「共に生きる」という新しい生き方でした。夜は過ぎ去り、まばゆい朝の光がマリアたちの体を照らしてゆきます。この光は復活の朝の光、永遠の命の光です。
これが、イースターの始まりの出来事です。マリアたちからの喜びの知らせは弟子たちに伝えられ、人から人へ伝えられて世界中に広がってゆき、いま私たちに伝えられています。
復活の命の中を共に
イエスさまの復活の出来事を通して、私たちには、「死は終わりではない」ということが知らされています。私たちはいま、復活のキリストの命の中を生きています。私たちの目には見えなくなった大切な人々も、その命の光の中を、共に生きています。私たちは決して、独りではありません。たとえ目には見えなくても、イエスさまはいま、生きておられます。天にいる私たちの愛する人々も、その永遠の命の中を共に生きています。どんなときも、私たちは独りきりで生きているのではありません。
以前、本日の聖書箇所を思い浮かべながら詩を書いたことがありました。最後に、そちらの詩を読んでみたいと思います。
「イースターの朝」という詩です。
「おはよう」
雪がとけて
芽吹きはじめる世界
悲しみがほどけて
動きはじめる 時間
「おはよう」
朝の気配の中で
あなたが佇んでいる
過去が流れてきて
そっと現在(いま)にぶつかる
これまでの日々
いとおしい日々
あなたがともにいた日々
「おはよう」
雪がとけて
色づきはじめた世界
悲しみがほどけて
つながりはじめた 記憶
「おはよう」
朝の光の中で
あなたが微笑んでいる
過去が流れてきて
そっと現在(いま)にぶつかる
これまでの日々
あたたかな日々
あなたがともにいる日々
「おはよう」
土の中から
芽吹きはじめるわたし
わたしの中で
生きはじめる あなた
イースターの朝を想う――
喜びはまだ遠いけれど
悲しみはもう近くはない
イースターの朝の光がここに集った皆さんと共にありますようお祈りいたします。