2025年5月11日「わたしは復活であり、命である」
2025年5月11日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編136編1-9節、コリントの信徒への手紙一12章3-13節、ヨハネによる福音書11章17-27節
新教皇レオ14世が誕生
フランシスコ前教皇の逝去(ご帰天)に伴い、5月7日から行われたコンクラーベの結果、ロバート・フランシス・プレボスト枢機卿が選出されました。新しい教皇名は、レオ14世。労働者の権利を擁護し、貧しい人々に寄り添う姿勢を示したレオ13世(1878~1903年在位)と同じ名前「レオ」が教皇名に選ばれました。レオ14世はアメリカ出身で、アメリカ出身者として初のローマ教皇となりました。同時に、レオ14世は南米ペルーで長く過ごし、ペルーの国籍を取得している方でもあります。
教皇に選出後、サンピエトロ大聖堂のバルコニーから行われたはじめてのスピーチの第一声は、「あなたがたに平和があるように」。この言葉は、復活したイエス・キリストが弟子たちの前に現れた時の最初の挨拶(ヨハネによる福音書20章19節)です。教皇のスピーチの冒頭を引用いたします。
《あなたがたに平和があるように。
親愛なる兄弟姉妹の皆さん、この言葉は、復活されたキリストの最初の挨拶です。キリストは、善き羊飼いとして、神の羊の群れにいのちを捧げました。
わたしもまた、この平和の挨拶が皆さんの心に入り、皆さんの家庭や、あらゆる人に、あらゆる場所の、すべての民、すべての地に届くことを願います。皆さんに平和がありますように。
これは復活されたキリストの平和です。それは武装しない平和、静かで、謙遜な、忍耐強い平和です。それは神から来るものです。神はわたしたち皆を無条件に愛されます》(バチカン・ニュース2025年5月8日、『レオ14世、新教皇選出後、最初のメッセージと祝福』より、https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2025-05/papa-leone-xiv-primo-messaggio-benedizione.html)。
復活のキリストの平和は、《武装しない平和》である。この言葉は、ウクライナ戦争、ガザ戦争、各地で起っている戦争・紛争を踏まえてのものであることは明白です。私たちは現在、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。復活のキリストの最初の挨拶は平和の挨拶であり、その平和は《武装しない平和》である。このことを、スピーチの冒頭で明言し、全世界へ発信されたところに、教皇レオ14世の平和への意志、決意表明を感じます。フランシスコ前教皇の平和への意志を受け継ぐことの表明でもあるでしょう。
また、次の言葉も印象的でした。《人類は、神と神の愛に到達するための橋として、キリストを必要としています。皆さんもどうか手を貸してください。対話をもって、出会いを通して、互いに橋を架けましょう。皆が一致して、いつも平和な、ただ一つの民となりましょう》。
「対話と出会いを通して橋を架けよう」、この言葉も「壁ではなく橋を築こう」というフランシスコ前教皇の言葉を踏まえた言葉であるでしょう。フランシスコ前教皇のこの言葉は、第1次トランプ政権の移民政策などを背景に語られたものでした。この度の、「対話をもって、出会いを通して、互いに橋を架けよう」というレオ14世の言葉も、現在の第2次トランプ政権の政策を念頭に置いて語られているのは間違いのないことでしょう。
対話を互いに拒否しあう状況、対話をすること自体が難しい状況が私たちの近くに遠くに見られます。また、異なる考えや立場の人と新しく出会う機会が減少し、より良い在り方へ互いに変わってゆくことが難しいという状況があります。私たちの世界はますます、分断と対立へと向かっています。それは、キリスト教会においても同様です。いや、私たちキリスト教こそ、信仰が関わるゆえ、異なる立場の者同士が対話をすることが難しい状況があります。そのような困難な状況の中にあって、「対話を通じて橋を架けよう」というメッセージが、私たちキリスト教の中から、率先して発されてゆくことを願います。
スピーチの締めくくりの部分では、教皇レオ14世はこのように語られました。《ローマとイタリア、全世界の兄弟姉妹の皆さん、わたしたちはシノドス的な教会、歩む教会、平和を常に求める教会、特に苦しむ人々にいつも寄り添う教会でありたいと思っています》。
《平和を常に求める教会》《特に苦しむ人々にいつも寄り添う教会》、この言葉に、教皇の願いが集約されているように感じました。またそれは、これから、どのような教会を目指してゆきたいかの表明でもあるでしょう。カトリック、プロテスタントという教派の違いはありつつ、平和を求め、苦しむ人々に寄り添う教会であることは、私たち共通の願いです。新しく教皇に選ばれたレオ14世のお働きを祈りに覚えつつ、私たちも共に、《平和を常に求める教会》《苦しむ人々にいつも寄り添う教会》であるために、祈りを合わせてゆきたいと思います。
《わたしは復活であり、命である》
先ほども述べましたように、私たちは現在、復活節の中を歩んでいます。イエス・キリストのご復活を心に留め、それを希望として歩む期間です。本日は復活節第4主日礼拝をおささげしています。
本日の聖書箇所ヨハネによる福音書11章17-27節の中に記されたイエス・キリストの言葉《わたしは復活であり、命である》(25節)は、復活節の中で読まれる代表的な言葉の一つであると言えるでしょう。ここでの《わたし》とは、イエスさまご自身のことです。イエスさまはここで、ご自身の復活について述べ、ご自身の内に永遠の命があることを語っておられます。《イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。/生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」》(25、26節)
この言葉は、福音書の中ではどのような文脈で語られた言葉だったでしょうか。改めて、本日の物語を振り返ってみたいと思います。
イエスさまが普段から親しくされていた、きょうだいがいました。ベタニア出身のマルタ、マリア、ラザロのきょうだいです。ある時、ラザロが重い病気にかかってしまいました。マルタとマリアはイエスさまのもとに人を送り、《主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです》(11章3節)と言わせました。
イエスさまがベタニアに到着したのはラザロが亡くなり、墓に葬られて4日後のことでした。マルタとマリアのもとには、多くの人がラザロのことで慰めに来ていました。マルタはイエスさまが来られたと聞いて迎えに行きましたが、マリアは立ち上がることが出来ずに家の中に座り込んだままでした。
マルタはイエスさまに、《主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。/しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています》(21、22節)と言いました。イエスさまが《あなたの兄弟は復活する》(23節)と言われると、マルタは、《終わりの日の復活の時に復活することは存じております》(24節)と答えました。当時、ユダヤ教の一部の人々は終わりの日に死者たちが復活すると信じており、マルタは「そのことは存じております」を述べたのです。
このマルタの言葉に対してイエスさまがおっしゃったのが、先ほどの言葉です。《わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。/生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか》(25、26節)。イエスさまはご自身の復活について述べ、ご自身の内にこそ永遠の命があることをお語りになりました。
マルタはこのイエスさまの宣言を受け、《はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております》(27節)と自身の信仰を告白しました。
《わたしを信じる者は、死んでも生きる》
ここまでが本日の聖書箇所ですが、物語は次のように続きます。座り込んでいたマリアは、マルタから《先生がいらして、あなたをお呼びです》(28節)と聞くと、すぐに立ち上がり、イエスさまのもとに行きました。イエスさまはマリアが泣き、一緒に来た人々も泣いているのを見て、共に涙を流されました(35節)。
ラザロが葬られたお墓の前に来たイエスさまは、天を仰いで祈りをささげ、そして大声で叫ばれました。《ラザロ出て来なさい》(43節)。すると、墓の中から、ラザロが体を布で巻かれたの姿で出てきました。《わたしを信じる者は、死んでも生きる》というイエスさまの言葉の通り、ラザロは死からよみがえったのです。
《今やその時である》
死者の復活を描く本日の物語は、いまを生きる私たちにとって、どのように受け止めれば良いか難しいものであるかもしれません。イエス・キリストは十字架の死より三日目に、墓の中からよみがえられた。このイエスさまの復活の命に結ばれた私たちもまた、終わりの日に復活する――これが伝統的なキリスト教の信仰です。マルタの《終わりの日の復活の時に復活することは存じております》という言葉とも通じる信仰です。けれども本日の物語においては、ラザロはすでに、イエスさまによってよみがえらされています。ここには、どのようなメッセージが込められているのでしょうか。
ヨハネによる福音書の5章には、次のイエス・キリストの言葉が記されています。《はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる》(5章25節)。
死んだ者が神の子イエス・キリストの声を聞く時が来るであろう。イエスさまが墓の前で《ラザロ出て来なさい》と大声で叫んだのを聞いたのと同じように。その声を聞いた者は生きるであろう。では、その時は、いつか。《今やその時である》、ここに、ヨハネ福音書固有のメッセージがあります。
私たちが神の子の声を聞くのは、いつかの未来ではなく、今である。私たちがよみがえりの命の言葉を聞くのは、他でもない、今である。「その時は、今」――ここに、ヨハネ福音書が私たちに伝える、かけがえのないメッセージがあります。
《わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる》。福音書に記されたこの言葉を聞くあなたは、今、復活のキリストご自身と出会っている。だから、《生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない》。あなたは今、《このことを信じるか》。ヨハネ福音書はそのように私たちに問いかけています。
《わたしは復活であり、命である》 ~イエスさまは今、共に涙を流しながら
私たちは生きてゆく中で、愛する人の死を経験します。またそして、生涯の最期に、自身の死を経験します。ラザロのように、死者がよみがえるという経験をすることはありません。けれども、死よりよみがえられたイエス・キリストは今、《わたしは復活であり、命である》と語りかけてくださっていることを、ご一緒に心に刻みたいと思います。イエスさまは今、私たち一人ひとりを、永遠の命と固く結びつけてくださっています。
もう一つ、ご一緒に心に刻みたいのは、愛するラザロの死を受けて、涙を流してくださったイエスさまのお姿です。イエスさまはラザロが病気で亡くなり、マリアや大勢の人が涙を流す中で、共に涙を流してくださいました。イエスさまは今、共に涙を流しながら、《わたしは復活であり、命である》と語りかけてくださっています。天にいる者も、地にいる者もこの復活の命の光の中で、今、共に生き、共に生かされているのだと私は信じています。
復活のキリストの平和が、皆さんと共にありますようにお祈りいたします。