2025年5月18日「わたしは道であり、真理であり、命である」
2025年5月18日 花巻教会 主日礼拝説教
聖書箇所:詩編98編1-9節、ヨハネの手紙一2章1-11節、ヨハネによる福音書14章1-11節
《わたしは道であり、真理であり、命である》
いまお読みしました新約聖書のヨハネによる福音書14章6節に次のイエス・キリストの言葉がありました。《わたしは道であり、真理であり、命である》。よく知られているイエス・キリストの言葉の一つですね。文語訳聖書では《われは道なり、眞理(まこと)なり、生命(いのち)なり》と訳されていました。私の名前「道也」は、この《われは道なり》からとられています。私自身、最も思い入れのある聖書の言葉の一つです。
先ほどご一緒に歌った讃美歌『主イェス・キリストはわれらの道』(讃美歌21・192番)もこのヨハネ14章6節をもとに作られたものでした。4番はこのような歌詞でした。《主こそは道なり、主こそ真理、/主こそいのちなり、わが喜び》(詞:George W.Doane、曲:Raphael Courteville)。メッセージの後に歌う讃美歌も、本日の聖書の言葉にちなんだ讃美歌を選んでいます。498番『道、真理、命』という讃美歌です(詞:George Herbert、曲:Ralph Vaughan Williams)。
このように、広く親しまれている本日の聖書の言葉ですが、まず、この言葉がどのような文脈で語られているものなのか、改めてご一緒に振り返ってみたいと思います。
十字架の死を前にして
本日の言葉は、イエス・キリストが十字架におかかりになる前、最後の晩餐の席において弟子たちに語った言葉(告別説教)の中に含まれている言葉です。十字架の死を前にして語られた言葉であるのですね。
目前に迫る十字架の死を見据えながら、イエスさまは《わたしが行く所にあなたたちはくることができない》とおっしゃいました。《子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく》(13章33節)。
しかし、弟子たちはその言葉の意味を理解することができませんでした。と同時に、イエスさまがどこか遠くへ行ってしまうのではないかという強い不安や恐れは感じたことでしょう。イエスさまが自分たちを置いて、どこか遠くへ行ってしまうのではないかという恐れです。
本日の聖書箇所の直前には、弟子のリーダーであったペトロとの問答が記されています(13章36-38節)。ペトロは《主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます》(37節)と訴えました。すると、イエスさまのよく知られた言葉が続きます。《わたしのために命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう》(38節)。
イエスさまがおっしゃったその通りのことがこの後起こることを、私たち読者は知っています。しかし、物語においては、この時点では、ペトロはもちろん、周囲の弟子たちも「そんなことが起こるはずはない」「そんなことはあってはならない」と思ったことでしょう。イエスさまの言葉に、大変なショックを受けたことでしょう。
《心を騒がせるな》
動揺する弟子たちを前に語られたのが、本日の聖書箇所14章1-11節です。イエスさまは弟子たちに、「心を騒がせてはいけない」と語りかけられます。
1-4節《心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。/わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。/行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。/わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている》。
これからイエスさまは《父の家》に行かれることが語られています。《父の家》へ行くとは、神さまのもとへ行くということです。それは具体的には、十字架の上で救いを成し遂げ、三日目によみがえり、神さまのもとへ行くということでした。そしてそれは、あなたがたのために場所を用意するためである。天の神さまのもとで、あなたがたの永遠の住まいを用意したら、また戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいつまでもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。だから、安心しなさい、とイエスさまは語ってくださったのです。
深い慰めに満ちた言葉ですね。ご葬儀で読まれることも多い言葉です。ここでイエスさまは、私たち一人ひとりを復活の命に結び合わせてくださることの約束をお語りになっています。イエスさまを通して、私たち一人ひとりが、復活の命に与ることができるのだ、と。
「わたしが道であり、真理であり、命である」
この言葉を受けて、弟子の一人のトマスが言いました。《主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか》(5節)。この時点ではトマスも弟子たちも、イエスさまがこれから十字架と復活の道を歩まれることを理解していませんでした。十字架上の死を遂げた後、復活し、私たちを復活の命と結び合わせてくださることをいまだ理解していませんでした。
「イエスさまがこれから歩まれる道がどこか、私たちには分かりません。どうしたらその道が分かるでしょう」、このトマスの切なる問いかけに対してイエスさまが語られたのが、《わたしは道であり、真理であり、命である》という言葉です。
《イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。/あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」》(6、7節)。
トマスの問いに対して、イエスさまは、「わたしが道であり、真理であり、命である」と答えてくださいました。イエスさまご自身が道であること、そしてその道は十字架と復活の道であることを、弟子たちはその後理解してゆくこととなります。
イエスさまの道を介して、私たちは神さまご自身のもとに行くことができる。イエスさまを知っているのなら、私たちは神さまのことを知るようになる。いや、イエスさまを通して、いま、私たちは神さまご自身を知り、神さまご自身を見ている――これが、ヨハネ福音書が伝える私たちへのメッセージでもあります。
イエス・キリストを「信じる」 ~イエス・キリストへの信仰を持つこと、愛の道を共に歩むこと
《わたしは道であり、真理であり、命である》というイエスさまの言葉がどのような文脈で語られた言葉であるのかを確認しました。《わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない》。皆さんは今朝、この言葉を改めて聴いて、どのようにお感じになったでしょうか。様々な解釈ができる言葉であると思います。
イエス・キリストへの「信仰を持つ」ことがいかに大切なことであるか、という意味でこの言葉を受け止めることもできるでしょう。伝統的にはこれまで、そのような意味で語られることも多かったことと思います。「イエス・キリストへの信仰を持つ、すなわち、洗礼を受けてキリスト教徒にならなければ、真理を知ることはできないし、神さまのもとへ行くことも、復活の命に与ることもできない」という受け止め方です。
このような受け止め方はキリスト教の歴史において大切なものであると同時に、イエス・キリストへの信仰を持つことが唯一・絶対の真理の道であることを強調し過ぎると、他宗教を軽んじたり、自分たちの信仰を絶対化する状態に陥ってしまう危険性もあります。
いまを生きる私たちは、より広い意味でこの言葉を受け止めることも出来るでしょう。イエス・キリストへの信仰を持つことは、キリスト教会にとってかけがえなく大切なことです。と同時に、イエス・キリストを「信じる」ことには、イエス・キリストへの「信仰を持つ」ことだけではなく、イエスさまを信頼しイエスさまが歩まれた「愛の道を共に歩む」ことも含まれています。
新しい掟 ~《互いに愛し合いなさい》
先ほど、本日の聖書箇所の前の章、ヨハネによる福音書13章を参照しました。目前に迫る十字架の死を見据えながら、イエスさまは《わたしが行く所にあなたたちはくることができない》とおっしゃいました。《子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく》(13章33節)。
この言葉に続いて、イエスさまは《あなたがたに新しい掟を与える》とおっしゃいました。《互いに愛し合いなさい》という愛の教えです。《互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。/互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる》(13章34、35節)。
互いに愛し合うこと――言い換えますと、互いに重んじあい、大切にし合うこと。それが、私たちが遵守すべき《新しい掟》であると語られています。
イエスさまが私たちを大切にしてくださったように、私たちも互いに大切にし合うこと。そのことによって、私たちがキリストの弟子であることを周囲の人々が知るようになるのだとお語りになっています。
イエスさまが道であるということは、イエスさまの愛の道を共に歩むということでもあります。日々の生活の中で、「互いに愛し合う」掟を実行してゆく、この愛の道を歩むところに「真理」があること、この愛の道を歩む先に「復活の命」があることを、イエスさまは伝えてくださっているのだと、本日はご一緒に受け止めてみたいと思います。
私たちはそれぞれ、このキリストの道を歩んでゆくように神さまから招かれています。イエス・キリストへの信仰のあるなしに関わらず、キリスト教徒であるかどうかに関わらず、互いに愛し合う掟を実行している人は皆、共にキリストの道を歩んでいるのです。一方、イエス・キリストへの信仰は持っていても、もしも愛の掟を軽んじている場合は、その人はいまはキリストの道を歩んでいない状態にあると言えるのではないでしょうか。
愛と真理と命の道を共に歩むことができますように
《わたしは道であり、真理であり、命である》――。キリストの愛の道を歩むところに真理があり、命がある。では、「真理」とは何でしょうか。最後に、改めて真理についてお話したいと思います。
イエスさまが私たちに伝えてくださっている真理の一つ、それは、神さまの目から見て、私たち一人ひとりが価高く、貴い存在(イザヤ書43章4節)であるということです。私たち一人ひとりには、等しく、神さまからの尊厳が与えられています。
尊厳とは、「かけがえのなさ」ということです。私たち一人ひとりは、かけがえのない存在として神さまに創られました。だからこそ、決して失われてはならない存在なのです。
かけがえのなさの反対語は、「替わりがきく」でありしょう。私たちの間から神さまの《真理》が見失われてしまったとき、人は替わりがきく存在とされてしまいます。尊厳が軽んじられ、替わりがきく存在にされてしまうのです。
イエスさまは、かけがえのないあなたのために、そのすべてをささげてくださった方であることを聖書は証しています。「互いに愛し合う」とは、イエスさまが私たちをかけがえのない存在として重んじてくださったように、私たちも互いをかけがえのない、尊厳ある存在として重んじ合おうとすることです。
どうか私たちが、この愛と真理と命の道を共に歩んでゆくことができますよう願います。