2025年5月25日「イエス・キリストの祈り」

2025525日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編95111節、ヘブライ人への手紙72628節、マタイによる福音書6115

イエス・キリストの祈り

 

 

 

主の祈り 

 

いまご一緒に本日の聖書箇所であるマタイによる福音書6115節をお読みしました。その中で、「主の祈り」が記されている箇所がありました。主の祈りはイエス・キリストが教えてくださった祈りで、この2000年間、キリスト教において最も大切にされてきた祈りの一つです。主の祈りの「主」とは、イエス・キリストのことなのですね。私たちも毎週、礼拝の中で主の祈りをお祈りしています。

 

9節から、改めてお読みいたします。《だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。/わたしたちに必要な糧を今日与えてください。/わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。/わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』913節)

 

 私たちが普段礼拝の中で用いている主の祈りと、少し表現が違う部分がありますね。たとえば《国と力と栄えとは 限りなくなんじのものなればなり》という最後の祈りも記されていません。でも内容としては、私たちが礼拝の中でお祈りしている主の祈りと同じです。このマタイによる福音書6913節と、同じく主の祈りが記されているルカによる福音書1124節を元に、文言を整えて出来上がったのが、私たちがお祈りしている主の祈りです。

 

 

 

《御国が来ますように》

 

 イエスさまご自身が教えてくださった祈り、「主の祈り」。これらの祈り一つひとつに、汲みつくすことの出来ない、豊かなメッセージが込められています。ある方は、主の祈りを《世界を包む祈り》と形容しています(ティーリケ『主の祈り 世界を包む祈り』、大崎節郎訳、新教出版社、1962年)。本来でしたら、一つひとつの祈りをじっくり取り上げたいところですが、本日は第2番目の祈り、《御国が来ますように10節)という祈りを取り上げたいと思います。普段私たちがお祈りしている主の祈りでは、《み国を来たらせたまえ》と訳されている部分です。

 

「御国(みくに)」とは、神の国のことです。「神の国が来ますように」という祈り、これが、第2番目の祈りです。神の国は、原語のギリシア語では「神のご支配」「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神の力、神の権威、神の願い、またそして、神の愛が満ち満ちている場が、神の国です。

 

 心に残るのは、神の国に私たちが「行く」のではなく、神の国が「来る」と表現されているところです。私たちの生きるこの世界に神の国が「来る」、そのように捉えているのが聖書の特徴です。

 

 

 

《時は満ち、神の国は近づいた》

 

 マルコによる福音書には、イエスさまがガリラヤにて公の活動を始められた時のはじまりの言葉が記されています。それは、《時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい115節)という言葉でした。

 ここで、《時は満ち、神の国は近づいた》と語られていますね。神の国がこの地上に近づいて来ている、いままさに到来しようとしている、とイエスさまは宣言され、神の福音を宣ベ伝える活動を始められました。

 

 先ほど、私たちの生きるこの世界に神の国が「来る」と捉えるのが聖書の特徴であると述べました。もう一つ、重要なことがあります。それは、「イエス・キリストと共に神の国が来る」ということです。イエスさまと共に神の国が来る、あるいは、イエスさまのおられるところにすでに神の国が到来している、そのようにキリスト教は受け止めてきました。

 

時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい》――天にある神の国が、イエスさまと共にいまこの地上に到来しようとしていることを福音書は語っています。

 

 

 

神の国 ~十全なる世界の在り方

 

 改めて、「神の国」はどのようなところなのでしょうか。イエスさまはどのような世界の在り方を、神の国と呼んでおられたのでしょうか。

 当然ながら、私たちはイエスさまが見ておられた世界を、同じように理解することはできません。神の国の奥義を、私たちは理解し尽くすことはできません。神の国の光を、私たちはある瞬間、垣間見ることがゆるされているだけです。垣間見たその光を、私たちは様々な言葉で表現することができるでしょう。

 

 私自身は最近、神の国を「十全なる世界の在り方」と表現しています。ここでの十全には、「一つの欠けもないこと」と「多様性がありつつ、一つであること」の意味を込めています。

 

 旧約聖書(ヘブライ語聖書)の創世記は、神さまが天地万物を創造されたこと、私たち一人ひとりの存在を創造されたことを語っています。神さまが造られた一つひとつの存在が、そのものとして、一つも欠けることなく――過去、現在、未来を含め――共に存在している世界。神さまが与えてくださった存在の固有性がはっきりと保たれつつ、違いがありつつ、一つに結び合わされている世界。それが極めて「良い」(創世記131節)ものとして祝福されている世界。このような世界の在り方を、私は「十全なる世界の在り方」と形容し、イエスさまが宣べ伝えた神の国についての、私なりの説明としています。

 

イエスさまは、この十全なる世界(=神の国)がすでに天にあるように、地上にも到来することを宣べ伝えてくださったのだと私は受け止めています。

 

神の国は、固有性をもったすべての存在を、そのものとして内に含んでいます。私たち一人ひとりの存在が確保され、かけがえのないもの(代替不可能なもの)として尊重されるとき、そこに神の国は出現します。イエスさまと共に到来する神の国は、そのように、すべてをそのものとして包摂する世界です。

 

 この十全なる世界においては、神さまによって造られた一人ひとりの存在が決して「なかったこと」にされないことが、重要な命題となります。別の言い方をしますと、存在を「なかったこと」にしようとする力に対しては徹底して抗うことを意味しています。

 

 私が十全なる世界から聴き取ったと受け止めている言葉があります。十数年前、それは詩のようなかたちで、私のもとに届けられました。この言葉はともし火のように、現在も私の内で燃え続けています。

 

 存在したものが、

あたかも存在しなかったかのようにされてしまうことが、

ないように。

 

すべての存在が、

「そのもの」として存在し、

かつ、これからも存在し続けるように。

 

存在が、

あたかもはじめから存在しなかったかのようにされることが、

決して、ないように。

 

 

 

パレスチナの現状 ~非人道的行為の極み

 

 私たちがいま生きているこの地上では、神の国の福音とは正反対の力が猛威をふるっています。それは、存在を「ない」ことにする力です。存在しているものを、あたかも「ない」ことにしようとする悪しき力が、私たちの近くに遠くに、働いているように思います。私たち一人ひとりの存在の「かけがえのなさ(尊厳)」を奪おうとする力を、イエスさまは「悪霊」や「サタン」の名で呼びました。

 

ここで思い起こさざるを得ないのは、パレスチナの現状です。2023107日以降、パレスチナ自治区のガザ地区でイスラエル軍とハマスの間で戦闘が激化し、多くの市民の生活が破壊され、その命が奪われ続けています。ガザで行われ続けているのは、イスラエルによるパレスチナ人へのジェノサイドです。イスラエルが一刻も早く、パレスチナの人々への虐殺を止めるよう強く求めます。

 

イスラエル軍はハマスとの2か月の停戦後、3月中旬にはガザへの攻撃を再開、今月の18日からは大規模な地上作戦を開始しています。イスラエルのネタニヤフ首相は「ガザ全域の制圧」という強硬な姿勢を打ち出しています。202310月の戦闘以降、ガザのパレスチナ人の死者数は53千人以上、うち子どもが16千人以上であると報じられています。

519日からガザへの物資搬入が限定的に再開されたものの、必要な数には遠く及ばず、依然としてガザは深刻な人道危機に瀕しています。もし必要な食料搬入がなされない場合、今後、非常に多くの乳幼児が飢え死にするとも言われています。事実、ここ数日で29人の子どもと高齢者が飢餓に関連して死亡したとパレスチナ自治政府の保健相が明らかにしています(『ガザ200万人死に直面』、朝日新聞2025524日、朝刊、2面)

 

いまガザで行われていることは、決して許されない、非人道的行為の極みです。国際社会が一致して、一刻も早くイスラエルに軍事作戦を止めさせ、必要な物資の搬入を許すよう働きかけることを切に願います。

 

 

 

存在を「ない」ことにする悪しき力に抗い

 

かつてゴルダ・メイア・イスラエル首相は「パレスチナ人などという民族は存在しない」と語りました。この言葉に端的に表されているように、イスラエルの一部の指導者たちは「パレスチナ人ははじめから存在しない」とし、その考えに基づいた政策を行ってきました。イスラエルの一部の指導者たちの言説の根底には、パレスチナ人の存在そのものを「ない」ことにしようとする力が働いていると私は受け止めています。

 

 この存在を「ない」ことにする悪しき力に対して、私たちははっきりと「否」を突き付けてゆかねばなりません。この悪しき力に抗い、取り込まれることなく、はっきりと目を覚ましていなければなりません。私たちは自分でも気づかないうちに、これらの力に流され、その構造の中に組み入れられている危険性があります。

 

存在を「ない」ことにする力は、私たちの近くに遠くに、猛威を振るっています。私たちはまどろみから目を覚まし、これらの根本的な不正義に対して、はっきりと「否」を言い続けねばなりません。私たちにその力を与えてくれる源が、神の国の光、イエス・キリストの光です。

 

神の国の力とは、「存在していないかのようにされているものを、確かに存在しているものとする力」です。先ほど述べた「存在しているものを、存在していないかのようにする力」とは、正反対のものです。

 

イエスさまは生前、神の国の福音を宣べ伝える中で、社会からあたかも存在していないかのようにされている人々を訪ね求め、その存在を見出し、その人々に光を当ててくださいました。社会から見えなくされていた人々を見えるようにし、その人々に神さまからの尊厳を取り戻すために働いてくださいました。十字架の死よりよみがえられたイエスさまは、いまも、私たちと共に働き続けてくださっています。

 

 

 

イエス・キリストの祈り

 

 改めて、本日の聖書箇所の主の祈りをお読みいたします。《だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。/御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。/わたしたちに必要な糧を今日与えてください。/わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。/わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』》。

 

 主の祈りは、イエスさまご自身が教えてくださった祈りです。またそして、イエスさまご自身が、私たちのために祈ってくださっている祈りでもあります。私たちが祈るより先に、イエスさまが祈っていてくださるのです。私たちは主の祈りを祈る度に、イエスさまの祈りに加わらせていただいているのだとも言えるでしょう。

 

み国が来ますように》――この地上に神の国が来ますように、この地に平和(ルカによる福音書214節)が実現しますように。イエスさまはかつてそのように祈ってくださいました。いまも私たちと共に、私たちより先に、祈り続けてくださっています。このイエスさまの祈りはいまもこの世界に、私たちの間に、私たちの内に燃え続けています。

 

世界を包むイエス・キリストの祈りに、私たちの祈りを共に合わせてゆきたいと願います。