2025年6月1日「イエス・キリストの昇天」

202561日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編9315節、エフェソの信徒への手紙416節、ルカによる福音書244453

イエス・キリストの昇天

 

 

 

イエス・キリストの昇天

 

 来週68日(日)、私たちはペンテコステ礼拝をおささげします。ペンテコステは聖霊降臨日とも呼ばれ、弟子たちのもとに聖霊(神の霊)が降ったことを記念する日です。ペンテコステはクリスマスやイースターに比べると日本では知られていませんが、キリスト教においてはクリスマス、イースターと並んで重要な祭日です。

 

 このペンテコステの10日前に、教会の暦で「昇天日」というものがあります。今年は先週の529日(木)が昇天日でした。昇天とは、復活されたイエス・キリストが天に昇られた出来事のことを言います。イエスさまは十字架の死より3日目に復活し、弟子たちと再会を果たした後、神さまのいる天へと挙げられたと聖書は記します(特にルカによる福音書が記述)。私たちが礼拝の中で読んでいる使徒信条では、《天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり》と告白している部分がそれに該当します。

 

同じ読み方の言葉として「召天」がありますが、教会では、人が亡くなって天に召されることを召天、イエス・キリストが天に上げられたことを昇天と表記して区別をしています。

 

先ほどお読みしたルカによる福音書244453節の中に、イエス・キリストの昇天を記している箇所がありましたので、改めて読んでみましょう。ルカによる福音書を締めくくりにあたる部分です。

5053節《イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。/そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、/絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた》。

 

 復活されたイエスさまは、弟子たちをベタニアの辺りまで連れてゆき、両手を挙げて彼らを祝福されました。そして、イエスさまが弟子たちを祝福していると、驚くべきことが起こりました。イエスさまが弟子たちから離れ、天に上げられていったのです(=昇天の出来事)。弟子たちは天に昇られるイエスさまを礼拝し、大きな喜びをもってエルサレムに帰りました。そして弟子たちはいつも神殿にいて、神をほめたたえました。その昇天の出来事を記して、ルカによる福音書は(いったん)筆を置きます。

 

 

 

ルカによる福音書 ~イエス・キリストの昇天に信仰の重点を置いている書

 

新約聖書の福音書はマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つがありますが、このようにはっきりと昇天の出来事を記しているのは、ルカによる福音書だけです。たとえば、マタイによる福音書は、よみがえられたイエスさまの《わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる》との言葉で締めくくられますね(マタイによる福音書2820節)。マタイ福音書では昇天の出来事は描かれず、復活したイエスさまがいつまでも私たちと共にいてくださるという約束の言葉が記されて終わります。

 

これは、ある福音書の記述が正しく、ある福音書の記述が間違っているということではありません。それぞれの福音書がイエス・キリストのどの側面に重点を置いているかの違いです。ルカによる福音書は特に、イエス・キリストの昇天に信仰の重点を置いている書なのですね。ルカ福音書の物語はイエスさまの昇天の出来事を記して、クライマックスを迎えます。

 

 

 

昇天からペンテコステへ

 

 イエスさまが昇天して、目には見えなくなって、地上に残された弟子たちはどうなったでしょうか。ルカ福音書では、不思議と弟子たちの心は喜びで溢れています。イエスさまが遠くへ行ってしまわれて悲しい、心細いという状態にはなっていません。むしろ、天に昇られたイエスさまの栄光こそが、弟子たちの喜びの源となっています。

 

もう一つ、弟子たちの心が喜びで満たされていることの理由がありました。それは、イエスさまの約束の言葉です。イエスさまは天に昇られるにあたって、次の約束の言葉を弟子たちに残してくださいました。《わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい49節)。ここで《約束されたもの》と言われているのが、聖霊です。この約束の通り、天から弟子たちのもとに聖霊が降った出来事がペンテコステです。

 

 天に昇り神さまの右に座しておられるイエスさまとの交わりは、以後、天から降る聖霊を通して実現されてゆくこととなります。聖霊によって力を得た弟子たちは、新しい共同体――キリストの教会を形成してゆくこととなります。その続きの物語を記しているのが、ルカ福音書の続編である使徒言行録です。

 

 

 

天上で執り成しの祈りをささげてくださっているイエスさま

 

 昇天日とペンテコステについてお話をしました。天に昇り、神さまの右に座しておられるイエス・キリストのイメージは、特にルカ福音書から生じていることもお話ししました。では、高く上げられたイエスさまはいま、何をしていらっしゃるのでしょうか。教会は伝統的に、昇天し神の右に座しておられるイエスさまはいまも私たちのために祈り続けてくださっているのだと受け止めてきました。イエスさまはいまも、天上で執り成しの祈りをささげてくださっているのだ、と。

 

執り成しの祈りとは、自分以外の誰かのための祈りのことを言います。その人に代わって、神さまに祈ることです。イエスさまはこの地上に生きておられたとき、私たちのために祈りをささげてくださいました。天に昇られた後も、私たちのために神さまに祈り続けてくださっているのだ、と教会は受け止めてきました。少し難しい言葉では、「仲介者(仲保者)」として、イエスさまはいまも天上で私たちのために執り成し続けてくださっているのだという信仰です。

 

メッセージの後に歌う、昇天を主題とした讃美歌338番「勝利の喜び」の2番は、この仲介者キリストへの信仰を謳っています。《この世においては 人の姿で/み神のもとでは 仲保者として/主イェスは変わらず 今もとりなす》(詞:jaroslav J.Vajda、曲:Henry V.Gerike

 

 

 

「一つとなるため」の祈り

 

 イエス・キリストの祈りということでは、先週のメッセージでは主の祈りを取り上げました。特に、《御国が来ますように(マタイによる福音書610節)との祈りを取り上げ、イエスさまはいまも私たちと共に、私たちより先に、祈り続けてくださっていることをお話ししました。

 

 イエスさまの執り成しの祈りということで、いつも私が思い起こす言葉があります。ヨハネによる福音書に記されているイエスさまのお祈りです。《父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります(ヨハネによる福音書1721節)

 

これは、十字架におかかりになる前、イエスさまが私たちのためにささげてくださった最後の祈り(ヨハネ17章。伝統的に『大祭司の祈り』と呼ばれます)の中に含まれている言葉です。十字架の死を前にして、弟子たちのために、地上に生きるすべての者のために、執り成しの祈りをささげてくださったイエスさまは、このところで、《すべての人を一つにしてください》と祈ってくださっています。残された者たちが、これから生まれ出ることになるキリスト教会が、私たちすべての者が、「一つとなるため」の祈りをイエスさまはささげてくださったのです。《御国が来ますように》という祈りとも不可分に結びついている祈りだと言えるでしょう。

 

イエスさまは、この先、教会の内外で様々な対立や分裂が生じるであろうことをご存知でいらっしゃったでしょう。だからこそ、ここで私たちのすべての者のために祈ってくださっているのではないでしょうか。神さまとイエスさまが一つであるように、私たち人類もいつか、一つとなることができるようにと――。イエスさまはいまも、天上で、このことを祈り続けてくださっていることを、ご一緒に心に留めたいと思います。

 

 

 

「違いがありつつ、一つ」である在り方

 

 礼拝の中で読んでいただいたエフェソの信徒への手紙416節の中に、次の言葉があらました。《平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。/体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです34節)。この手紙でも《一つ》という言葉が繰り返し使われています。

 ここでの《一つ》とは、違いをなくしてみんなが「同じになる」という意味での一つではありません。違いはかけがえのないものとしてありつつ、互いに一つに結び合わされているという意味での一つです。私なりの表現を使えば、「違いがありつつ、一つ」である在り方です。

 

 エフェソの信徒への手紙は続く箇所で、それを体のイメージで表現しています。体の各部分がそれぞれに異なった働きをしつつ、一つに結び合わされているように、私たちも互いに違いがありつつ、一つに結び合わされている。手紙の著者はそれを《キリストの体》12節)と呼んでいます。私たちは《キリストの体》として、それぞれがかけがえのない役割を果たすことで、互いに補い合っている。しっかりと一つに結び合わされている。私たちはそのようにして共に《キリストの体》を造り上げているのだ、と。

エフェソの信徒への手紙41516節《愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。/キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです》。

 

 ここで前提とされているのが、天に昇り神の右におられる、昇天のキリストのお姿です。私たちは天におられるイエス・キリストに向かって、共に成長している――そのようなイメージで語られているのですね。

天におられるイエス・キリストに向かって、私たち《キリストの体》は、それぞれが自分固有の役割を果たしながら、成長してゆく。赤ん坊がだんだんと成長し大人になってゆくように、私たちも天におられるキリストに向かって成長してゆくのだと語られています。壮大で、心に残る表現ですね。キリスト教というものは固定化されたものではく、日々新陳代謝を繰り返し、新たにされ、より良い在り方へと成長・前進を続けてゆくものであることが分かります。私たちキリスト教会はいまも、その成長の途上にあります。

 

 

 

アジア・エキュメニカル週間

 

 本日61日(日)から7日(土)までは、「アジア・エキュメニカル週間」です。アジアの諸教会、諸教派を覚えて祈る期間です。この時期に定められたのは、アジア・キリスト教協議会(CCA)の前身の東アジア・キリスト協議会(EACC)がペンテコステ1週間前の日曜日に誕生した19595月)ことに由来しています。

 

「エキュメニカル」という言葉を初めて聞いた方もいらっしゃるかもしれません。エキュメニカルは教会の一致を意味する言葉です。エキュメニズムとも呼ばれます。エキュメニズムとは「教会間に再び一致を取り戻そうとする理念・運動」のことで、教会は本来、お一人なるイエス・キリストを頭とする一つの体であるとする信仰を土台としています。まさに、先ほどのエフェソの信徒への手紙4章で語られていたことですね。

 

 エキュメニカル運動の前提となっているのは、教会の「多数性」です。各個教会、諸教派の間には違いがあり、その違いを尊重しつつ、一致を目指してゆくことがエキュメニカル運動において欠かせない要素です。スローガン的に用いられている言葉を使えば、「多様性における一致(unity in diversity)」と言われます。私なりに表現すれば、「違いがありつつ、ひとつ」なる在り方です。

 

自分とは異なる相手に対して、「あなたも自分と同じになれ」と同調を強いるやり方では、私たちはまことに《一つ》になることはできません。神さまが私たち一人ひとりに与えてくださっている違いが損なわれてしまうからです。また、自分たちとは異なる相手に対して、「あなたはいらない」と排除することでも、私たちは当然ながら、《一つ》になることはできません。神さまの目に価高い一人ひとりが軽んじられてしまっているからです。

 

 

 私たち花巻教会が、私たちの属する日本基督教団が、日本の諸教会が、そしてアジアの諸教会、世界の諸教会が、互いの違いを尊重しつつ、一つの《キリスト体》として共に成長してゆくことができますように、祈りを合わせたいと思います。そしてその私たち教会の営みを通して、キリストの愛と恵みがこの地上に満ち溢れてゆくようになることを願っています。