2025年6月22日「神の道に立ち帰る」

2025622日 主日礼拝説教

聖書箇所:エゼキエル書182532節、マタイによる福音書316節、使徒言行録17

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神の道に立ち帰る

 

 

 

戦時下のホーリネス教会弾圧事件

 

 本日6月の第4週の日曜日を、ホーリネスの伝統を持つ教会は「ホーリネス弾圧を覚える礼拝(弾圧記念礼拝)」の日としています。

ホーリネス教会弾圧とは、1942626日以降、ホーリネス系の教会(日本基督教団 旧6部・9部)の牧師が一斉に検挙された出来事のことを言います。

弾圧のさ中、日本基督(キリスト)教団はホーリネス系の教会・教会員・牧師を守ることをせず、むしろホーリネス系の牧師たちに辞任を強要し、事実上教師籍をはく奪しました。私たちが属している日本基督教団はその時、ホーリネスの教会・教会員・牧師を見捨てるという過ちを犯しました。日本基督教団の歴史において忘れてはならない出来事です。

私たち花巻教会はホーリネスではなくバプテストの伝統を持つ教会ですが、同じ岩手地区では、大船渡教会、舘坂橋教会、土沢教会が「日本基督教団 ホーリネスの群」に属する教会です。戦時中、弾圧を受け教会が閉鎖に追いやられていた間、土沢教会の方々は花巻教会の礼拝に出席されていたと伺っています。

 

全国のホーリネス教会で弾圧を覚える礼拝がささげられている今日、私たちも共に、ホーリネス弾圧事件を思い起こし、祈りを合わせたいと思います。

 

 

 

沖縄慰霊の日

 

 明日623日は、沖縄慰霊の日です。沖縄戦で亡くなった方々を追悼する日、平和への祈りをあわせる日です。

皆さんもご存じの通り、沖縄戦は19453月末に始まり、激烈な地上戦の末、623日にその組織的戦闘が終結しました。沖縄の人口の4人に1人にあたる約12万人もの方々が亡くなったと言われています。日本とアメリカの軍人を合わせると、亡くなった方の数は20万人以上に上ります。

《命(ぬち)どぅ宝》という言葉があります。沖縄で「命こそ宝」という意味の言葉です。沖縄の戦争の記憶を受け継ぐとともに、「命こそ宝」であることを共に心に刻みたいと思います。

また、敗戦から80年を経た現在も、沖縄に米軍基地の約70パーセントが集中している状況があります。私たち自身の問題として、米軍基地問題についてご一緒に考えたいと思います。

 

 

 

日本基督(キリスト)教団創立記念日

 

 沖縄慰霊の日の翌日の624日は、私たち花巻教会が属する日本基督(キリスト)教団の創立記念日です。今から84年前の1941年の624日~25日、東京の富士見町教会で教団創立の総会が行われました。1941年と言えば、太平洋戦争が勃発した年です。その年の12月には日本はアメリカとの太平洋戦争に突入してゆくことになります。

 

 日本基督教団は34のプロテスタント諸教派が合同することによって成立しました。先ほど述べましたように、私たち花巻教会はバプテストの伝統を持っています。バプテスト、ホーリネスなど、様々な伝統をもつグループが一緒に合わさって出来たのが日本基督教団であるのですね。

合同の直接の契機となったのは、19394月に成立・公布された「宗教団体法」という法律でした。宗教団体法は諸宗教を合同させ、国家の管理下に置くことを目的とした法律です。対象はキリスト教だけではなく、神道系宗教(ただし神社は除く)や仏教その他の諸宗教すべてに及んでいました(宗教団体法は戦後に廃止され、替わりに宗教法人法が公布されました)。

 

ある人は、宗教団体法は戦時中の不敬罪や治安維持法と並ぶ統制法(弾圧法)であったと述べています。つまり宗教団体法とは《ファシズム期の国家による宗教統制であった》のです(原誠『国家を超えられなかった教会 15年戦争下の日本プロテスタント教会』、日本キリスト教団出版局、2005年)。以降、戦時中の日本基督教団は戦争協力の道を突き進んでいってしまうこととなります。日本の教会は当時、国家権力に抗うことができず、国に言われるがままに管理・統制されていってしまったのです。このことから、日本キリスト教団はその成立の時点から、戦争責任の問題と切り離すことができない歴史をもっているということが分かります。教団創立を記念する共に、私たちは過去の歴史を批判的に学び続けてゆかなければならないでしょう。

教団創立の翌年の1942年に起こったのが、先ほどお話したホーリネス弾圧事件です。

 

 

 

お前たちは立ち帰って、生きよ

 

先ほど礼拝の中で旧約聖書(ヘブライ語聖書)のエゼキエル書182532節を読んでいただきました。エゼキエル書は預言書の一つで、神が預言者エゼキエルを通して語った言葉を集めて編纂したものです。

冒頭にこのような言葉がありました。《それなのにお前たちは、『主の道は正しくない』と言う。聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか25節)

ここでの《お前たち》とはイスラエル民族のことです。預言者エゼキエルはイスラエルが神の道を歩まず、「正しくない」道を歩んでいると厳しく批判しています。

 

後半部では次の言葉が続きます。《それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。/お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。/わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる3032節)

イスラエルはいま自ら、滅びに至る道を歩んでいる。悔い改めて、神の道に立ち帰ることをエゼキエルは呼びかけています。神さまは誰の死をも喜ばない。《お前たちは立ち帰って、生きよ》、そう神さまはおっしゃっている、とエゼキエルは懸命に呼びかけます。厳しくも、深い愛に基づいた呼びかけです。

 

 

 

神の真理と正義の道

 

 では、立ち帰るべき神の道とは、どのような道であるのでしょうか。本日はこの道を、「神さまの真理と正義の道」としてご一緒に受け止めたいと思います。

 

真理とは何でしょうか。聖書が伝えている真理の一つ、それは、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く貴い存在である」(イザヤ書434節)ということです。私たち一人ひとりには、等しく、神さまからの尊厳が与えられています。

尊厳とは、言い換えますと、「かけがえのなさ」ということです。神さまは私たち一人ひとりをかけがえのない存在として作ってくださった。だからこそ大切な存在なのであり、決して失われてはならないのです。先ほどのエゼキエル書の言葉にもあった通りです。《「…どうしてお前たちは死んでよいだろうか。/わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる》。

 

神さまの正義とは、「尊厳がないがしろにされることを、神さまは決しておゆるしにならない」ということです。もしも人々の生命と尊厳とが軽んじられ、傷つけられている現実があるのなら、神はその現実を、決して見過ごしにはなさらない。

イエス・キリストはそのご生涯をかけて、その命を懸けて、この世界に真理と正義の道を示してくださいました。いまも示し続けて下さっています。

私たちはこの神さまの真理と正義に立ち帰り、この道をイエスさまと共に歩むよう招かれています。

 

 

 

パレスチナの現状

 

現在、私たちの近くに遠くに、生命と尊厳がないがしろにされている現状があります。特に思い起こさざるを得ないのは、パレスチナの現状です。2023年の107日以降、パレスチナ自治区のガザ地区で、多くの市民の生活が破壊され、その命が奪われ続けています。ガザで行われ続けているのは、イスラエルによるパレスチナ人へのジェノサイドであり、非人道的行為の極みです。イスラエルが一刻も早く、パレスチナの人々への虐殺を止めるよう強く求めます。

 

先ほどエゼキエル書の、イスラエルが神の道を歩まず、「正しくない」道を歩んでいるという言葉を引用しました。いままさに、国家としてイスラエルは、「正しくない」道――自他を滅びへと至らせる悪しき道を突き進んでいます。イランとの攻撃の応酬によっても、多くの人の命が失われています。イスラエルの為政者たちがいまこそ神の言葉に耳を傾け、真に悔い改め、神の道に立ち帰ることを切に願うものです。

 

 

 

神の道に立ち帰る

 

本日はメッセージの前半では、ホーリネス教会弾圧記念日、沖縄慰霊の日、日本基督教団創立記念日の三つの記念日についてお話しました。後半ではエゼキエル書の預言と、私たちが歩むべき神の真理と正義の道についてお話し、パレスチナの現状について触れました。

過去に起こった、忘れてはならない出来事。いまも現在進行形起こっている、忘れてはならない出来事。これらの悲惨な出来事はいずれも、私たちが神さまの真理と正義の道から外れることによって起こっているのではないでしょうか。

 

 

真理とは、「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く貴い存在である」ということ。正義とは、「尊厳がないがしろにされることを、神さまは決しておゆるしにならない」ということ――。どうぞいま、ご一緒に心の向きを変え、イエスさまが指し示してくださっている神の真理と正義の道に立ち帰りたいと思います。そして、一人ひとりがまことに大切にされる社会を求めて、自分にできることを果たしてゆきたいと願います。