2025年7月27日「実によって木を知る」
2025年7月27日 主日礼拝説教
聖書箇所:エレミヤ書7章1-7節、マタイによる福音書7章15-29節、使徒言行録19章13-20節
山上の説教
全国的に厳しい暑さが続いています。岩手でも連日、猛暑日となっています。県内各地で、観測史上、最高気温を記録しています。皆さんもどうぞくれぐれもお体大切になさってください。礼拝中も、必要に応じて水分を取っていただいて大丈夫ですので、どうぞご無理はなさらず、各自体調管理を宜しくお願いいたします。
先ほど新約聖書のマタイによる福音書7章15-29節を読んでいただきました。山上の説教の締めくくりにあたる部分です。山上の説教とは、マタイによる福音書5~7章に記された、イエス・キリストが山の上で弟子たちと群衆に語った教えのことを言います。この山上の説教には、良く知られた言葉がたくさん記されています。
たとえば、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(5章39節)、「敵を愛しなさい」(同44節)という教え。これらの教えはクリスチャン以外の方々にもよく知られているものですね。花巻教会の最近のメッセージでも、「地の塩、世の光」(5章13-16節。2025年6月29日メッセージ)、「空の鳥、野の花を見よ」(6章25-34節。7月13日メッセージ)、「人を裁いてはならない」「求めよ、そうすれば与えられる」(7章1-12節。7月20日メッセージ)など、やはりよく知られた山上の説教の言葉を取り上げてきました。皆さんはどの言葉が心に残っているでしょうか。
「羊の皮を被った(着た)狼」
本日の聖書箇所であるマタイによる福音書7章15-29節は、次の言葉で始まっていました。《偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である》(15節)。
こちらも良く知られた言葉、「羊の皮を被った(着た)狼」という慣用句にもなっている言葉ですね。表面上はいかにも「いい人」を装っているが、その内に悪意を隠し持っている人のことを表す言葉です。
悪しき意図をもった人は「悪人」の顔をして近寄ってこない。確かにその通り、と思わされます。悪意をもった人は、一見「いい人」の顔をして私たちに近寄ってくるものです。立派な言葉や美しい言葉を並べて、人々の関心を引こうとすることもあるでしょう。そのような人々によく気を付けなさい、と注意を促す言葉です。まさにいまの時代にぴったりの言葉ですね。
「実によって木を知る」
では、相手の意図を見極めるにあたって、私たちはどのような点に注意したらよいのでしょうか。イエスさまは、相手の本当の動機や内実を見分けるにあたって、「実によって木を知る」ようにアドバイスしておられます。《あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。/すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。/良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。/良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。/このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける》(16-20節)。
茨からぶどうが実ることはなく、あざみからいちじくが採れることがないように、良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。実を見れば、その木が何の木であるか分かるというのも、確かにその通りのことですね。ここでの《実》とは、その人の実際の行動を指していると受け止めることができるでしょう。行動の果実に、その人の内実があらわれている。実を見れば、その木が何の木であるか分かるように、その人の「していること」を見れば、その人がどんな人であるか分かる。そのようにして相手の心の中にあるものを適切に見分けるようにと、イエスさまは教えてくださっています。こちらも、いまの時代にぴったりの言葉なのではないでしょうか。
《言っていることではなく/やっていることが/その人の正体》
私がよく思い起こす標語があります。《言っていることではなく/やっていることが/その人の正体》。もともとは、東京の妙円寺というお寺の掲示板に掲げられていた言葉で、ノンフィクション作家の久田恵さんの言葉の引用であるそうです。SNSで偶然この標語を見かけてから、心に残り続けています(@renkouzan 、2018年10月7日投稿)。「実によって木を知る」という教えと共通することを述べていますね。
「言っていること」ではなく、その人が「やっていること」に、その人の内実が現れている。このことは、私たちも実感できることですね。皆さんの頭にもいま、テレビの中のある人の顔(!?)や、色々な人の顔が頭に浮かんでいるかもしれません。
と同時に、自分自身を顧みて、ドキッとさせられる言葉でもあります。言葉だけになってしまって、実際の行動が伴っていないことは、私たちにはよくあることだからです。あるいは、「言っている」ことと「やっている」ことが矛盾してしまっていることも、私たちにはよくあることではないでしょうか。
どれだけ立派で「正しい」ことを言っていても、普段の行動に、私たちの内実が現れている。たとえどれほど愛と平和の大切さを説いていたとしても、もしその人が身近なところや隠れたところで誰かを軽んじ、その尊厳を傷つけているとしたら、その「やっていること」にこそ、その人の内実が示されていると言えます。
「御言葉を聞いて、行うこと」の大切さ
マタイによる福音書の山上の説教で一貫して語られているのは、日頃の実際の行動や生き方の大切さです。言葉ももちろん大切ですが、時に、私たちの言葉は言葉だけのものになってしまいます。あるいは、時に、私たちの言葉は他者や自身を欺くために使われてしまいます。その点、私たちの実際の行動や生き方は嘘をつかない。いや、嘘をつけない。そこにそのまま、私たちの内実があらわれています。
そのように山上の説教でイエスさまは「行い」の大切さを述べていらっしゃる訳ですが、イエスさまが私たちに伝えてくださっているのは、「御言葉を聞いて、行うこと」の大切さです。イエスさまの教えを聞いて終わるのではなく、その教えを聞いて、実際に行うこと。日々の生活で実行することの大切さを伝えてくださっているのですね。そしてそのためには、まず「聞く(聴く)」ことが重要であることが分かります。やみくもに行動するのではなく、まずイエスさまの言葉に聞く、御言葉に聞く姿勢が求められています。
神さまの愛の言葉を聞く(聴く)こと
私たちにとって大切なことは、まず、イエスさまの言葉を聞くこと。私たちに向けて語られている、神さまの言葉を聞くと。聖書には様々な御言葉が記されていますが、その根底にあるのは、神さまの愛の言葉です。
「私の目にあなたは価高く、貴い。私はあなたを愛している」(イザヤ43章4節)。このイザヤ書の言葉をはじめ、神さまはイエスさまを通して、この愛の言葉を語り続けて下さっています。
あなたの存在がいかに貴いものか。神さまの目に、かけがえなく、大切なものであるか。一人ひとりの存在が、神さまの目に、いかに大切なものであるか――。この神さまの愛を言葉を聴き続け、いつも心に留めようとする中で、私たちは少しずつ、その愛の教えを他者に対して実践することができるよう、導かれてゆくのではないでしょうか。イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、互いを大切にすることができるように導かれてゆくのではないでしょうか。
「家と土台」のたとえ
山上の説教は、「家と土台」のたとえで締めくくられています。イエスさまは山上の説教の締めくくりとして、「家と土台」のたとえを用いて、「御言葉を聞いて行う」ことの大切さを伝えてくださっています。
《そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。/雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。/わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。/雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった》(7章24‐27節)。
イエスさまはご自分の教えを「聞いて行う」人のことを、固い岩の上に家を建てた人にたとえておられます。たとえ川があふれ風が吹いても、その家は倒れることはない。確固とした土台があるからです。
対して、イエスさまの言葉を聞くだけで行わない人は、砂の上に家を建てた人に似ている。雨が降り川があふれ、風が吹いてその家に襲い掛かると、ひどい倒れ方をしてしまう、とイエスさまはお語りになります。確固とした土台がなかったからです。
御言葉を「聞いて行う」姿勢を土台とすることは、生きることの土台を得ることでもあります。「聞く」だけでなかなか実行することができないのが私たちの率直な姿でありますが、少しずつでも、御言葉を「聞いて行う」ことができますよう、その姿勢を私たちの日々の生活の土台に据えることができますよう願うものです。
イエスさまはおっしゃいました、《求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。/だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる》(7章7、8節)。
私たちが「このような生き方がしたい」と祈り求めるとき、神さまは必ず応えてくださいます。私たちがより良い生き方を求めて、それを神さまに願い求める時、神さまは必ずそれに応え、手助けしてくださいます。
どうぞ私たちが御言葉を聞いて、行ってゆくことができますように、イエスさまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にして生きてゆくことができますように。神を愛し、隣人を愛し、そして自分自身を愛する生き方をしてゆけますように。そのような生き方をすることができますように、神さまに祈り求めたいと思います。