2025年9月28日「隣人を愛する」
2025年9月28日 花巻教会 主日礼拝説教
隣人愛
「隣人愛」という言葉があります。「身近な人々への愛」、あるいは、より広い意味で「他者への愛」を意味する言葉です。キリスト教では、後者の「他者への愛」を意味する言葉としてこの語を用いています。
隣人愛は、旧約聖書(ヘブライ語聖書)の《隣人を自分のように愛しなさい》という教えに由来する言葉です(レビ記19章18節)。イエス・キリストも最も重要な掟として、「神を愛する」教えと共に、この「隣人を愛する」教えを取り上げられました。
《隣人を自分のように愛しなさい》 ~二つの訳し方
《隣人を自分のように愛しなさい》の「自分のように」は、ヘブライ語の原文では「自分のように」とも、「自分として」とも訳すことのできる言葉です。英語でいうと、「like(~のように)」と「as(~として)」ですね。前者で訳すと、「隣人を自分のように愛しなさい」となります。後者で訳すと、「隣人を自分として愛しなさい」となります。私たちが礼拝で用いている新共同訳聖書は、前者の「自分のように」の訳を採用しています。どちらでも訳すことが可能です。
「隣人を自分のように愛しなさい」、「隣人を自分として愛しなさい」。それぞれの翻訳から、私たちは大切なメッセージを受け取ることができるでしょう。どちらか一方の訳だけが正しいということではありません。本日はこの二つの訳し方から、それぞれ、どのようなメッセージを受け取ることができるかをお話してみたいと思います。
「隣人を自分のように愛しなさい」と訳した場合
はじめに、「隣人を自分のように愛しなさい」と訳した場合のことを考えてみましょう。この場合、「自分のように」は、「自分を愛するように」の意味になります。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」の意味ですね。実際、新共同訳の前の口語訳聖書では、《自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ》と訳されていました。皆さんの中にもこの訳で親しんできた方もいらっしゃるのではないでしょうか。
この翻訳の素晴らしいところは、「自分を愛する」ことが含まれている点です。神を愛し、他者を愛すると共に、自分自身を愛することの大切さをこの訳は伝えてくれています。私たちは自分を愛することの大切さを、時に忘れてしまうのではないでしょうか。他者への愛はもちろん大切。神への愛ももちろん大切。しかし私たちは自分への愛も忘れてはならない。自分自身を大切にすることも、忘れてはならないのです。
太宰治について
「自分を愛するように隣人を愛しなさい」、この訳で私がいつも思い起こす人物がいます。作家の太宰治です。『走れメロス』『斜陽』『人間失格』などが代表作で、今も多くの人に読まれ続けている作家ですね。
高校生の頃、私は太宰治の小説や随筆を熱心に読んでいました。太宰さんはある随筆の中で、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」の聖書の戒めをモットー(人生の指針)としていると記していました(随筆「返事」より。『もの思う葦』所収、新潮文庫。太宰自身の文言は《汝等おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ》)。太宰さんは洗礼を受けることはありませんでしたが、聖書を熱心に読んだ人でした。普段もつねに手の届くところに聖書を置いていたそうです。私が太宰治に共感したのは、彼が「隣人を愛する」という戒めについて生涯、考え続けた人であることを知ったからでした。
しかし、太宰さんは、「隣人を愛する」生き方をしようと歩み出す際に、いつもひとつの壁にぶち当たっていました。その壁とは、「自分を愛するように隣人を愛しなさい」の教えの中の、「自分を愛するように」の一節であったようです。この短い言葉が、太宰さんにおいては生涯、大きな壁であり、謎であり続けたのです(参照「わが半生を語る」、同所収)。太宰治さんは、「自分を愛する」ということが、どういうことか分からなかったとのことでした。
太宰治さんが残したよく知られた言葉に、《生まれてすみません》という言葉があります。太宰治さんの内には、自分が生まれてきたこと自体が「よし」とされていない、という意識があったようです。自分がいまこうして生きていること自体が「悪い」ことである、という罪悪感があったのです。この罪悪感が根底にあるので、太宰さんは「自分を愛すること(自分を大切にすること)」がどのようなことであるのか、分からなかったのだと思います。神を愛し、隣人を愛する生き方をしたいと願いながら、この罪悪感が彼の足にからみつき、前へ進むことを阻んでいました。
太宰さんは聖書を読みながら、自分自身をイエス・キリストを裏切ったユダに重ね合わせていました。イエスを裏切り、自ら命を絶ったユダこそが、自分自身であると感じていたのです(中編『駆け込み訴え』など)。太宰さんは生涯、この罪悪感に苦しみ続けたようです。太宰治の作品に多くの人がひかれるのは、自分の内の苦しみ、痛みを率直に表現しているからかもしれません。太宰治さんの作品を読んで、多くの人が、まるで自分自身のことが書かれているように思ったとの感想を述べています。高校生の頃の私も、太宰治の作品の内に、何らかの自分自身の痛みを見出していたのではないかと思います。
「神が自分を愛してくださるように、隣人を愛しなさい」
高校生の頃はどういう意味か分からなかったけれど、今強く心に響いてくる聖書の言葉があります。新約聖書の手紙の中の言葉です。《わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります》(ヨハネの手紙一4章10節)。
この御言葉は、私たちが「愛する」のではなく、まず、神さまが私たちを「愛してくださった」のだと語っています。イエス・キリストが十字架においてご自分の命を差し出してくださったこと、ここに、愛があるのだ、と語っています。
御自分の命を差し出すほど、イエスさまは、私たちを愛してくださった。そしてその愛は、すべての人に及んでいます。三度イエスさまを「知らない」と言ったペトロにも、そして、イエスさまを裏切ったユダにも(ヨハネによる福音書13章を参照)――。
高校生の頃の私が思い至らなかったこと、それは、イエスさまを裏切ったユダも、イエスさまに「愛されている」弟子の一人であるということでした。イエスさまは、御自分を裏切ったユダの罪を、はじめからすべて、ゆるしていました。なぜなら、ユダを愛していたからです。
「自分を愛するように隣人を愛しなさい」。私たちはこのみ言葉を、イエスさまを通して、このように言い換えることができます。「神が自分を愛してくださるように、隣人を愛しなさい」。
先ほど述べましたように、太宰治は「自分を愛する」ことがどういうことか分かりませんでした。それは、「自分は愛されている」ということが分からなかったということであったのかもしれません。他ならぬこの「私」が、「神に愛されている」存在であること。そのことをご一緒に心に留めたいと思います。その愛を知った私たちは、少しずつ、神を愛し隣人を愛し、そして自分を愛する生き方ができるようになってゆくのだと信じています。
「隣人を自分として愛しなさい」と訳した場合
「隣人を自分のように愛しなさい」と訳した場合に受け取ることができるメッセージについてお話しました。次に、「隣人を自分として愛しなさい」と訳した場合、どのようなメッセージを受け取ることが出来るかについて、私なりの考えをお話したいと思います。
この場合、「自分として」は、「自分と同じ人間として」の意味になるのではないでしょうか。すなわち、「自分と同じ人間として、隣人を愛しなさい」という意味です。このように訳している聖書はなく、ある意味、私独自の翻訳ではありますが、このように受け止めることも可能であると思います。
私なりに訳すと、こうなります。「自分と同じ人間として、隣人を大切にしなさい」。「愛しなさい」を「大切にしなさい」と言い直していることには理由があります。この聖書の教えにおいては、「好き」「嫌い」という心の中の感情ではなく、相手を大切にするという具体的な姿勢が問われていると考えるからです。私たちは心の中にある感情自体は、無理に変えることはできません。「嫌い」な人を無理に「好き」になることはできません。でも、その相手を同じ一人の人間として尊重してゆくことはできるのではないかと思います。
自分の好き嫌い、立場や考え方の違いを超えて、相手を自分と同じ一人の人間として尊重すること。思いやりを持って接すること。少なくとも、相手を不平等に扱ったり、相手の人格を攻撃したり、尊厳を傷つけるような行為をしないこと。なぜなら、相手も同じ一人の人間であるからです。
相手を「自分と同じ人間として」見ることができない問題
相手が自分と同じ人間であるということは、相手も自分と同じように人格をもち、自分と同じように日々悩み喜びながら、懸命に生きているということです。自分と同じように、感情をもっているということです。誰かから軽んじられたら悲しいし、攻撃されたら苦しい、辛いことがあったら、心が痛む。これは人として、当然のことですよね。でも現在、私たちの社会においてこの当たり前の感覚が見失われ、隣人愛の精神が見失われつつある現状があるように思います。たとえば、SNS上における誹謗中傷の問題、あるいは、ハラスメントの問題。これらの問題も、相手を「自分と同じ人間として」見ることができないことから生じているのではないでしょうか。
私たち自身、日々の生活の中で隣人愛の精神を実行できていないことが多々あるでしょう。目の前にいる人を同じ人間としてまことに尊重することは難しい。自分の身内だけ、自分と意見や気の合う人にだけ親切にしてしまうこともあるでしょう。気が付くと人を分け隔てしてしまっている私たちです。
礼拝の中でお読みしたヤコブの手紙の中にも、そのような私たちに対する厳しい言葉が記されていました。《もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。/しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます》(ヤコブの手紙2章8-9節)。
「隣人を愛する」と口では言っていても、実際の振舞いがその言葉と相容れないものであるのなら意味がないと手紙の著者は率直に指摘をしています。
この手紙が書かれた当時、教会の中には、「隣人を愛する」と言いながら、実際には人を分け隔てしている人々がいたようです。具体的な例として、教会の会堂に立派な身なりの人が入ってきたら尊重するけれども、貧しい身なりの人が入ってきたら、軽んじる(1-4節)振る舞いをする人々が教会の中にいたことが挙げられています。確かに、「隣人を愛する」と言いながら、自分にとって都合が良さそうな人だけを重んじ、そうではない人々を軽んじているなら、隣人愛を実践していることにはならないでしょう。
「自分と同じ神に愛された人間として、隣人を大切にしなさい」
聖書が私たちに伝えてくれている真理、それは、神さまの目から見て、わたしたち一人ひとりがかけがえのない、大切な存在であるということです。神さまは、私たちを分け隔てなさらない(ローマの信徒への手紙2章11節)方です。先ほど、ヨハネの手紙の言葉を引用し、イエスさまは御自分の命を差し出すほど、この「私」を愛してくださったことを述べました。その大いなる愛はこの私に、そして私の周りにいるすべての人にも注がれています。
「自分と同じ人間として、隣人を大切にしなさい」という教えは、「自分と同じ神に愛された人間として、隣人を大切にしなさい」と表現し直すことができるでしょう。自分も、目の前にいる相手も、同じ神に「愛されている」存在であること、そのこともご一緒に心に留めたいと思います。
本日は隣人愛の教えについて、二つの訳し方から、それぞれに汲み取ることができるメッセージについてお話しました。どちらも、私たちにとって、大切なメッセージでした。どうぞ私たちが「自分を愛するように、隣人を愛する」ことができますように、また、「自分と同じ人間として、隣人を大切にする」ことができますように。少しずつでも、そのような生き方をしてゆくことができますように、ご一緒に神さまにお祈りをおささげいたしましょう。