2016年11月20日「黄金律」

20161120日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書7712

「黄金律」

 

 

収穫感謝日、謝恩日

 

本日は、日本キリスト教団の暦では「収穫感謝日」にあたります。神さまから与えられた収穫の恵みを感謝するための日です。教会によっては、秋の作物を会堂の前に並べて礼拝をささげるところもあります。神さまが創造された自然の恵みによって、私たちの命が日々支えられていることの感謝の想いを、ご一緒に新たにしたいと思います。

また本日は、日本キリスト教団の暦で「謝恩日」にもあたります。謝恩日は牧師を隠退された先生方のお働きを感謝する日のことを言います。私たち日本キリスト教団ではその感謝の思いを具体的に「謝恩日献金」というかたちで表し、隠退された先生方とご家族の生活をお支えするということをしています。謝恩日献金は現職の牧師の隠退後の生活を支えるためにも用いられます。お祈りに覚えて、おささげいただければ幸いです。

 

 

 

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」

 

 私たち花巻教会はこの1年、礼拝の中で新約聖書のマタイによる福音書を読み進めてきました。マタイによる福音書の中に、「山上の説教」と呼ばれる部分があります。山の上に登ったイエス・キリストが、集まった人々にさまざまな教えを述べる部分です。それら教えには、たとえば、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」539節)や「敵を愛しなさい」544節)など、よく知られた言葉も含まれています。キリスト教にあまり関心がない方でも、どこかで聞いたことがある言葉なのではないでしょうか。

 

 さきほどお読みしましたマタイによる福音書712節は、山上の説教の「まとめ」にあたる言葉であると言われています。イエス・キリストが述べられたたくさんある教えを、一言でまとめると、次の言葉になるというのですね。12節《だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である》。

 

 最後のところに《律法と預言者》という言葉が出て来ました。これは、言い換えると、「旧約聖書全体」という意味です。旧約聖書はすごく分厚くて、いろいろなことが書いてありますよね。とても覚えきれないほどのたくさんの教えが記されているわけですが、その分厚い旧約聖書の教えも、しかし、一言に要約できる。それは、《人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい》ということである、というのです。

 

 

 

黄金律(the golden rule

 

 この12節の言葉は、伝統的に、「黄金律」と呼ばれてきました。英語で言うと、「the golden rule」です。黄金律とは、時代を超え国境を超えて、万人に通用するルールのことを言います。 

 

 自分が人にしてもらってうれしいことを、積極的に、人にもすること――確かに、このルールは、時代を超え、国境を超え、すべての人に通用する事柄のように思えますね。

 

この言葉自体は、必ずしもイエス・キリストが初めて言った言葉というわけではないようです。同様の格言は、昔のユダヤ教や古代のギリシャにもあります。ただし、古代の格言においては、表現の仕方が少し異なります。「人にしてもらいたくないと思うことは、あなたがたも人にしてはならない」。

 

本日のイエス・キリストの言葉では「人にしてもらいたいことを、人にする」という肯定的な表現の仕方です。対して、ユダヤ教や古代ギリシャの格言では「人にしてもらいたくないことを、人にしない」という否定形で表現されています。二つを比べてみて、皆さんはどうお感じになるでしょうか。表現の仕方は異なるけれど、同じことを言っている、というふうに感じられるでしょうか。それとも、両者においては強調点が少し異なってくるという風に感じられるでしょうか。

 

古代の格言に比べて、本日のマタイの御言葉はより「行動に移す」ことの大切さを伝えているとも受け取れます。いずれにせよ、どちらも、私たちにとって大切な姿勢を示していることに変わりはありません。

 

 

 

人にされて嬉しいこと、嫌なこと

 

 改めて、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしなさい」という教えについて想いを巡らしてみたいと思います。

 

 皆さんが、「人にしてもらいたいこと」は、どのようなことでしょうか。「人にしてもらって嬉しいこと」は、どのようなことでしょうか。

たとえば、困っているときに、親切にしてもらったこと。助けてもらったこと。これは嬉しいですよね。他にも、辛いとき、自分の話をじっと聞いてくれたこと、共感してくれたこと。これも嬉しいことです。また、不安な時、ずっと隣にいてくれたこと。無理に何かをしてくれなくても、何も言わなくても、ただそばにいてくれること、それが何よりの心の支えになる、ということも私たちにはあります。自分がしてもらってうれしいそのことを、人にもしてあげるというのは、本当に大切なことですね。

 

「人にしてもらって嬉しいこと」というのは、他にも無数にあることでしょう。たくさんありますが、これらのことには共通点があるように思います。それは、自分という存在が人から大切にされたとき、私たちは心の深いところから喜びを感じる、という点です。相手が自分のことを大切にしてくれている、そう感じることができたとき、私たちは心から嬉しく思います。

 

 次に、「人にしてもらいたくないと思うことは、人にしてはならない」という教えについて想いを巡らしてみたいと思います。「人にしてもらいたい」こととは反対に、「人にしてもらいたくない」ことは何でしょう。皆さんが、「人にされて嫌なこと」とはどのようなことでしょうか。

 

たとえば、自分の存在が軽んじられる、というのはすべての人によって嫌なことです。馬鹿にされたり、意地悪されたり、侮辱されたりして快く思うということは、私たちにはないでしょう。また、自分の存在が無視されたり、相手にしてもらえない、というのも、大変辛いことです。このような、「人にされて嫌なこと」は決して人にしてはならない、ということも、本当に大切なことですね。

 

「人にされて嫌なこと」は挙げてゆけばきりがないほどたくさんあることでしょうし、人によって、特にどのようなことが嫌に思うは多少違いもあることでしょう。けれどもやはり、「人にされて嫌なこと」には、共通点があるように思います。それは、自分という存在が人から大切にされない、ということです。自分という存在が大切にされず、ないがしろにされていると感じるとき、私たちは心に深い悲しみを感じます。

 

「人にしてもらいたいと思うことを、人にする」こと。「人にしてもらいたくないと思うことは、人にしない」こと。どちらも、私たちが生きてゆくうえで欠かせない、非常に重要な姿勢です。そしてそのどちらにも、「人を大切にする」ということが共通のテーマとなっていることが分かります。

 

 

 

「人にされて嫌だったことを、人にもしてやりたい」(!)という衝動

 

 一方で、なかなかこの二つのことを実行することができないのが、私たちの実際の姿でもあります。むしろ、この二つの教えが「ねじれてしまっている」という現状があるのではないかと思います。つまり、「人にしてもらいたいと思うことを、人にしない」(!)。「人にしてもらいたくないと思うことは、人にする」(!)。

まことに不自然な教えですが、立ち止まって考えてみると、この逆立ちした教えが自分自身の日々の生活のルールになってしまっている時はないでしょうか。また、私たちの生きる社会のルールになってしまってはいないでしょうか。

特に後者の、「人にしてもらいたくないことを、人にする」ということが、いま私たちの社会で数多く見受けられるように思います。「人にされて嫌だったことを、人にもしてやりたい」という想いが、私たちの社会に渦巻いているように思います。

 

人から意地悪をされ、自分は深く傷ついた。自分がされたのと同じことを、誰かに味わわせてやりたい。人から無視をされ、自分は深く傷ついた。自分がされたのと同じ痛みを、誰かに味わわせてやりたい。このような「ねじれた」想いが、私たち自身の内に、また周りの人々の内にあふれているように思います。

 

「人にされて嫌だったことを、人にもしてやりたい」「仕返しをしてやりたい」という衝動は、誰しもが多かれ少なかれ感じるものです。このような感情が自分の中にあること自体を、否定する必要はないと思います。むしろ、自分の中にこのような否定的な感情があることを率直に受け入れること。その上で、自分がどのようにこれから行動してゆくのかを見つめ直すことが求められています。「仕返ししたい」という衝動に突き動かされるままに行動してしまうのか。それとも、その衝動が自分を支配するのを、勇気をもって拒もうとするのか――。

 

 

 

「復讐してはならない」 ~仕返しの連鎖を断ち切る

 

 イエス・キリストは、山上の説教の中で、「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」539節)、すなわち「復讐してはならない」ということをおっしゃいました。「仕返ししたい」という衝動に支配されるのではなく、「仕返しはしない」という決意をすることの大切さを私たちに伝えてくださっています。

 

「人にされて嫌だったことを、人にもしてやりたい」、確かに、私たちはそう感じてしまいます。そうして実際に、それを行動に移してしまっています。自分に意地悪をした当人に仕返しをする、もしくは、まったく関係のない人に、仕返しをしてしまう。むしろ多くの場合、まったく無関係の人にそれをしてしまっている場合も多いのではないでしょうか。であるとすると、自分は非常にひどいことを人にしてしまっているということになります。

 

 人にされて嫌だったことを人にしても、自分の傷は癒されることはありません。むしろ、新たな傷が生じ、そこからさらなる仕返しの連鎖が生まれてゆくことになるでしょう。私たちは、この仕返しの連鎖、復讐の連鎖を断ち切ってゆかねばなりません。そのためにはまず、自らの内の「ねじれ」を解消する必要があります。「人にしてもらいたくないと思うことを、人にしてしまう」という不自然なルールを、「人にしてもらいたくないと思うことは、人にしない」本来のルールに戻してゆくのです。そして、「人にしてもらいたいと思うことを、人にする」というルールをこそ、私たち共通の願いにしてゆくのです。

 

 

 

互いを大切にすること ~神さまのご自身の願いとして 

 

 私たちの心の内にある「ねじれ」を解消してゆくため、主イエスは私たちに次のことを伝えてくださいました。それは、神さまが私たち一人ひとりをかけがえのない存在として、大切にしてくださっている、ということです。神さまは一人ひとりの存在を、「かけがえのない=替わりがきかない」存在として大切にしてくださっている。聖書はこの真実を、「福音」――喜ばしい知らせという言葉で呼んでいます。

 

この福音を受け入れたとき、私たちの心の深いところから、喜びが湧いてきます。喜びの中で、私たちの心の内に傷は癒され、「ねじれ」が少しずつ解消されてゆきます。ねじれて心がほどかれてゆきます。そうして少しずつ、あるべき本来の位置に戻ってゆきます。

 

私たちが人からされて嬉しいこと、それは、自分という存在が大切にされることでした。他ならぬ神さまが、私という存在を、大切にしてくださっている。かけがえのない存在として、愛してくださっている。いつも隣にいて、支えてくださっている。「神さまが私たちを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にする」というのが神さまの願いであり、聖書全体が私たちに伝えている最も大切なメッセージです。

 

《人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい》――どうぞ今朝、この神さまご自身の願いを、ご一緒に私たちの心に刻みたいと思います。