2018年4月15日「イエスは良い羊飼い」

2018415日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書10718

「イエスは良い羊飼い」

 

 

ヨハネによる福音書10718節《イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。/わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。/わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。/盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。/わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。/羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――/彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。/わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。/それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。/わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。/わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。/だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

 

 

 

照子さんと病床で歌った『君は愛されるため生まれた』

 

本日の礼拝後、三田照子さんの召天1周年の記念会を行います。三田照子さんは昨年の417日、イースターの翌日に天に召されました。99歳のご生涯でした。

 

私も改めて一年前のことを思い起こしていました。緊急入院した中部病院の病室にて、照子さんと共に聖書を読み、お好きだった『君は愛されるため生まれた』を歌うことができたことが強く心に残っています。呼吸器をつけて言葉を発することはできませんでしたが、妻とこの曲を歌っているうちに、体を動かして力強く反応をしてくださいました。

 

 

『君は愛されるため生まれた』は韓国で作られた比較的新しい賛美歌で(作詞・作曲:イ・ミンソプ)、花巻教会では毎月の第一週に、お誕生日の方にこの歌をプレゼントしています(日本語と韓国語で歌うバージョンです)。照子さんも生前この曲を大変気に入ってくださっており、ご自身の葬儀で歌ってほしいとおっしゃっていたほどでした。

 

 皆さんもよくご存じの曲ですが、改めて歌詞を読んでみたいと思います。

《君は 愛されるため生まれた/君の生涯は 愛で満ちている/君は 愛されるため生まれた/君の生涯は 愛で満ちている/

永遠の神の愛は/我らの出会いの中で 実を結ぶ/君の存在が 私たちには/どれほど大きな 喜びでしょう

君は 愛されるため生まれた/今もその愛 受けている/君は 愛されるため生まれた/今もその愛 受けている》。

 

この曲は聴いている一人ひとりに「君」と呼びかけているのが特徴です。賛美歌というと、神さまに向かって賛美をするものが多いですが、中には、この曲のように「君」「あなた」と聴いている人に向かって呼びかける曲もあります。「あなた」という存在がいかに神の目に大切な存在であるかを、歌声を通して、神さまと一緒になって届ける賛美歌であると言えるでしょう。「君は愛されるため生まれた」と、神さまからの愛を、神さまと共に、聴く人に伝えようとする歌です。照子さんとの出会いを通して、触れ合いを通して、私も愛を教えていただきました。記念会の後の茶話会の時に、『君は愛されるため生まれた』をぜひ皆さんで歌いたいと思っています。

 

 

 

「あなたは大切」という気持ちを具体的な言動をもって表すこと

 

キリスト教が日本に渡ってきたとき、宣教師たちは「愛」という言葉を「ご大切」と訳したそうです。愛とは、相手を「大切に思う気持ち」であるということができます。そして愛するとは、「あなたは大切」というその気持ちを具体的な言動で表すことであると言えるでしょう。

 

愛は、すべての人の内に宿されています。愛をもっていない人は、いないと私は信じています。私たちにはそれぞれ、大切な人がおり、その人を大切に思う気持ちが宿されています。そしてその気持ちは、神さまの愛につながっています。

 

しかし同時に、普段の生活において、なかなかその愛を、互いにうまく伝えあうことができていない、ということがあります。それは家族などの近しい間柄であっても、いや家族だからこそその気持ちを素直に表現できないということがあるかもしれせん。照れくささからか、もしくは日々の慌ただしさによる余裕のなさからか。もしくは、はっきりと言葉や行動にしなくてもきっと伝わっていると信頼しているから、ということもあるかもしれません。

 

一方で、はっきりと言葉にして伝えあう、行動で表して伝えあうからこそ、伝わる、ということがあるでしょう。「あなたは大切」という気持ちをはっきりと具体的な言動で表すからこそ、相手にしっかりと伝わるということがあるのですね。『君は愛されるため生まれた』という曲が私たちの心を打つのは、「あなたは大切」という気持ちをとてもストレートに、言葉とメロディで表現しているからではないでしょうか。これほどはっきりとそう語りかけられる経験というのは、普段の生活ではなかなかないことであると思います。日本の風土においては、人によっては照れくささを感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし照れつつも、心の奥底では嬉しく感じていらっしゃるのではないかと思います。

 

 

 

聖書が伝える神の愛 

 

私たちは一人ひとり、自分の内に確かな「愛」をもっています。けれども、「愛する」ということは、なかなかできていない。心の中に秘めている「愛」を、「愛する」という行動へとつなげてゆくことの大切さを思わされます。

 

聖書は、神さまから私たちへの愛を伝えている書です。神さまが私たち一人ひとりを「大切に思ってくださっている」ことを伝えている書です。神は愛である》という聖書の言葉(ヨハネの手紙一416節)を三田照子さんはご自身の最も好きな聖書の言葉の一つに挙げておられました。

 

神さまはその愛を、イエス・キリストを遣わすという具体的な行動をもって、私たちに伝えてくださった、と聖書は語っています。他ならぬ神さまが、具体的な行動をもって、「あなたは大切」というメッセージを伝えてくださったことを。

 

ヨハネによる福音書にはよく知られた次の言葉があります。316節《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》。私たちへの愛ゆえに、その具体的な行動として、神さまは御子イエス・キリストをこの世界にお与えになった、と新約聖書は語ります。

 

 

 

《良い羊飼いは羊のために命を捨てる》

 

 神さまの愛を体現する存在として、この世界にお生まれになったイエス・キリスト。そのイエス・キリストもやはり、私たちへの愛を、具体的な言動をもって示してくださいました。

 

弟子たちと共に、宣教の旅をし、人々にメッセージをすることを通して。また、病いの中にある人、生活の苦しみの中にある人、差別を受け弱い立場に追いやられている人、それら人々を自ら訪ね、共に痛みを負ってくださることを通して。またそして、ご生涯の最期に十字架におかかりになることを通して。「あなたは大切」という神さまの愛を伝えてくださいました。

 

 本日の聖書箇所には《良い羊飼いは羊のために命を捨てる》という主イエスの言葉があります(ヨハネによる福音書1011節)。良い羊飼いとは、主イエスご自身のことです。「わたしはあなたのために命を捨てる」。これ以上の激しい愛の言葉はないのではないでしょうか。主イエスは「あなたは大切」というその愛を、「わたしはあなたのために命を捨てる」という、燃えるような言葉で表現されました。そして実際に、その愛を行動に移されました。私たちのために、十字架におかかりなることによって――。

 

この燃える愛がいま、ここにいる私たち一人ひとりに注がれています。他ならぬ、この「わたし」に注がれています。十字架を通して、私たちは「あなたは大切」という神さまの、燃えるような激しい愛の言葉を聴きます。

 

 

 

《永遠の神の愛は/我らの出会いの中で 実を結ぶ》

 

この愛に出会う中で、包まれる中で、私たちは自分が大切な、かけがえのない存在であることを少しずつ気づいてゆきます。自分自身を愛することができるようになってゆきます。自分自身のまことの大切さに気付いたとき、私たちは目の前にいる人も、自分と同じように大切にすることができるようになってゆくのだと思います。私たちまたそれぞれ、「あなたは大切」というメッセージを誰かに伝える、大切な役割を神さまから託されているのです。

 

『君は愛されるため生まれた』の中に《永遠の神の愛は/我らの出会いの中で 実を結ぶ》という一節がありました。

 

 神さまの愛は、私たちの出会いの中で、触れ合いの中で、実を結ぶ。私たちの関係性を通して、神さまの愛が実現されてゆくと語られています。神の愛とは多くの場合、人を通して、伝えられるもの、私たちを通して、実を結んでゆくものです。

 

私たち一人ひとりが、誰かへの「あなたは大事」という伝言を携えて生きています。私たちがそれをはっきりと言葉にし、具体的な行動に移してゆくことを通して、神さまの愛はこの世界にはっきりと目に見えるようになってゆくでしょう。平和が少しずつ、この世界に実現されてゆくことでしょう。

 

 

 

神さまの愛の声に立ち帰り、それを携えて

 

 本日の聖書箇所には次のような主イエスの言葉もありました。《わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける(ヨハネによる福音書1016節)

 

《この囲いに入っていないほかの羊》とは、神さまの愛の囲いの中に入っていないすべての人のことを指しています。愛を見失い、自分が大切な存在であると思えないすべての人。私たちの社会には、あたたかな愛のある触れ合いに飢え渇き、苦しんでいる人がたくさんいます。私たち自身も、時に愛を見失い、道を見失った羊のようになることがあるでしょう。

 

私たちの社会には、さまざまな声が飛び交っています。その中には、心無い声、私たちから生きる力を失わせるような、否定的な声もたくさんあります。そのような言葉の渦の中にあって、私たちは《良い羊飼い》の声は、はっきりとわかります。その声は、「あなたは大切」とはっきりとこの私に語りかけてくださっている声であるからです。この声こそが私たちを導き、私たちを生かし、新しい命を与えてくださるものです。

 

いまご一緒に「あなたは大切」という神さまの愛の声に立ち帰り、この声を携え、それぞれの生活の場に遣わされてゆきたいと願います。