2020年11月1日「わたしは初めであり、終わりである」

2020111日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:イザヤ書44617

わたしは初めであり、終わりである

 

 

アイドルの二つの意味

 

皆さんは好きなアイドル・好きだったアイドルはいるでしょうか。それぞれの時代において、輝きを放っていたアイドルはたくさんいますよね。私はあまりアイドルに夢中になることはありませんでしたが、私の世代で言うと、たとえば中高生の頃はモーニング娘。が大人気でした。皆さんにもきっと、思い出のアイドルがいらっしゃることでしょう。

本日は普段私たちが使っている「多くのファンをもつ、あこがれの存在」としてのアイドルとは違う意味の、アイドルのお話をしたいと思います。

 

アイドル(idol)は元々は「偶像」という意味の言葉であることは、ご存じの方も多いことと思います。「偶像」を意味するアイドルが、色々な経緯を経て、現在は「多くのファンをもつ、あこがれの存在」を意味する言葉として用いられています。本日お話したいのは元来の意味でのアイドルについて――「偶像」についてです。

偶像は、石や木、金属などを使って作った神像(神や神々の像)のことを指す言葉です。一般的な名称であったこの言葉が、次第に否定的なニュアンスを帯びる言葉として使われるようになりました。否定的な意味合いを帯びるようになったのは、旧約聖書の影響が大きいでしょう。旧約聖書においては、偶像を用いた礼拝が禁止されているからです。

 

 

 

 

《あなたはいかなる像も造ってはならない》

 

 偶像を用いた礼拝を禁止する代表的な言葉を見てみましょう。神がモーセを通してイスラエルの人々に与えた神の掟――十戒の中の一つです。

十戒第二戒あなたはいかなる像も造ってはならない(出エジプト記204節)。この第二戒で前提とされているのは、礼拝です。「あらゆる像」を造ってはならないということではなく、特に「礼拝のための像」を制作することが禁止されている掟であると解釈することができます。

 

では、なぜそもそも、第二戒では礼拝のための像を作ることが禁止されているのでしょうか? これは、当時の感覚からすると、驚くような掟であったと思います。当時の古代オリエント世界においては、神々の像を造って礼拝の対象とすることが当たり前のことであったからです。

 旧約聖書において一貫して強調されているのは、神と人間とは「異なる」存在であることです。旧約約聖では、神と人間との間にはっきりとした一線が引かれています。神は神、人間は人間。両者の間には区別があり、絶対的な距離があると捉えられているのです。これは、神々と人間とが混然一体となった当時の古代オリエントの世界観とは異なるものです。

たとえば、出エジプト記の中にはこのような神の言葉も記されています。《あなたはわたしの顔を見ることができない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである(出エジプト記3320節)。主なる神が人間とは次元の異なる御方であることが確認されています。

 このように、神さまを絶対的・超越的な存在であると考えるゆえに、人間の手で作った偶像を用いて礼拝をすること自体を禁止としたのかもしれません。

 

旧約聖書を正典とするユダヤ教は現在もこの第二戒の教えを忠実に守っており、礼拝において像を用いることはありません。この点をさらに徹底しているのはイスラム教です。イスラム教のモスクには絵画や像は一切無く、あるのは幾何学模様とコーランの文字のみです。

 

 

 

目で見て、手で触れることができる方になってくださった主

 

一方で、キリスト教では、教派によっては会堂内にキリスト像がかかげられています。カトリックでは会堂内に十字架のキリスト像がかかげられていることが多いですし、プロテスタント教会でも正面に十字架などのシンボルが配置されている教会がたくさんあります。花巻教会でも正面の壁に十字架がかかげられていますね。正教会では、会堂内にたくさんのイコンが並べられています。これらは十戒の第二戒に反することにはならないのだろうか、と気になる方もいらっしゃるかもしれません。実際、これまでのキリスト教の歴史において、礼拝で用いる祭具や装飾に関し、どこまでが偶像を用いた礼拝に当たるかについての議論が繰り返されてきました。いまだ「これが正解」という共通の認識はなく、教派によっても捉え方は異なっていますが、キリスト教において「視覚的な要素」が重視されているのには理由があるように思います。それは、イエス・キリストの存在です。

 

新約聖書およびキリスト教は、神が肉体となって人となって下さった、その方がイエス・キリストであると受け止めています。すなわち、神さまが人間となって、「目で見て、手で触れる」ことができる存在になったと捉えているのです。《私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。――(ヨハネの手紙一11節)

そのように受け止めるゆえ、ユダヤ教やイスラム教とは「目に見える」ものに対する考え方に違いが生じているのだということができるのではないでしょうか。

 

キリスト教においては、「目に見える」ものを通して神さまへの信仰を表すことは、必ずしも否定されることではない。むしろ、「神が人となられた」ことに対する私たちの信仰の証しとなり得るのです。もちろん、像そのものに人間を超えた力があるとすること(またその力を利用しようとすること)は聖書の御言葉に反するものですが、「目で見て、手で触れるもの」を通して神さまからの恵みと愛につながることも、私たちにとって大切な経験なのではないかと思います。

 

 

 

偶像礼拝への厳しい言葉

 

本日の聖書箇所イザヤ書44617節も偶像がテーマとなっている箇所です。《偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。彼ら自身が証人だ。見ることも、知ることもなく、恥を受ける。/無力な神を造り/役に立たない偶像を鋳る者はすべて/その仲間と共に恥を受ける。職人も皆、人間にすぎず/皆集まって立ち、恐れ、恥を受ける。……911節)。かなり辛らつな言葉で、偶像を制作することが批判・揶揄されています。

 

このイザヤ書44章が書かれた紀元前6世紀頃(イザヤ書40章~55章は『第二イザヤ』と呼ばれます)、イスラエルの人々は強大なバビロニアの支配下にありました。国家の滅亡の経験――いわゆる「バビロン捕囚」という民族的な悲劇を経験した時代です。いまお読みした聖書箇所は特に、バビロニアで行われている偶像礼拝を批判している内容となっています。

パッと読むと、何か上から目線で偶像を用いた礼拝をしている人々を揶揄しているようにも読めますが、実際に置かれていた状況はその真逆、イスラエルの人々が周辺諸国から虐げられ、揶揄されている状況の中にあったのですね。周辺諸国から「お前の神はどこにいる」と嘲笑される状況にある中、しかし第二イザヤは自分たちが信じる主なる神こそ、全てを支配するまことの、唯一の神であるとの信仰を告白しています。

イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない。/だれか、わたしに並ぶ者がいるなら/声をあげ、発言し、わたしと競ってみよ。わたしがとこしえの民としるしを定めた日から/来るべきことにいたるまでを告げてみよ。/恐れるな、おびえるな。既にわたしはあなたに聞かせ/告げてきたではないか。あなたたちはわたしの証人ではないか。わたしをおいて神があろうか、岩があろうか。わたしはそれを知らない68節)

 

 この苦難の時代に、「主なる神は唯一である」との唯一神信仰がユダヤ教において確立されたと言われています。生まれ出ようとしている信仰理解を守るため、第二イザヤは決然たる姿勢で他宗教に対峙しているのだと受け止めることができるでしょう。偶像礼拝を否定する言葉は、「生れ出ようとしているものを守るための厳しさ」から来るものでもあるのです。以上のような時代状況を踏まえた上で、本日の聖書箇所は読むのがよいのではないかと思います。

 

 

 

内なる偶像

 

 本日は聖書の偶像の捉え方についてお話をしてきました。聖書の中には、先ほどのイザヤ書のように偶像礼拝を厳しく批判する言葉もありました。ただし、そこには当時の特殊な時代状況が関わっていることも述べました。現代を生きる私たちはもはや必ずしもイザヤ書のような激しい言葉をもって、他宗教の人々に対して対峙する必要はありません。

 

心に留めたいことは、「偶像」および「偶像礼拝」という言葉を、他の宗教を批判・揶揄するために用いるべきではないことです。たとえば日本に住んでいますと、神社に行けば神像があり、お寺にいけば仏像があります。また多くのご家庭において神棚や仏壇があります。それらを「偶像」「偶像礼拝」と呼ぶべきではないと思います。自分の愛する人々が大切にしていることを共に大切にすること、互いに尊重することもまた、他者を愛する姿勢の一つです。むしろ、どこか上からの目線で他の宗教を信じる人々を見下すとき、その私たちの内にある種の「偶像」が生じていると注意をする必要があるでしょう。

 

いまを生きる私たちにとって、「偶像」とはどこにあるのでしょうか。それは他ならぬ、私たち自分自身の心の中です。高慢さや貪欲さなどを材料にして心の中に偶像を作り出し、それを主人にしてしまっているとき。私たちは神ではなく、偶像を崇拝していることになります(エフェソの信徒への手紙55節)。気が付かぬうちに自身の想いを絶対化し、神さまの位置に置いてしまっているのです。

 

 

 

《わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない》

 

内なる偶像崇拝の深刻さは、自分ではそれになかなか気が付けないことです。私たちはいつの間にか、自分の心の中に偶像を作り出してしまっているものです。気が付かぬうちに自己を絶対化し、神のごとき位置に自分を置き、立場や考えが異なる他者を裁いてしまっているものです。だからこそ、私たちは繰り返し聖書の言葉に立ち還り、神さまの言葉によってその内なる「偶像」を打ち砕いていただく必要があるのでしょう。

 

 最後に改めて、イザヤ書446節の言葉にご一緒に耳を傾けたいと思います。《イスラエルの王である主/イスラエルを贖う万軍の主は、こう言われる。わたしは初めであり、終わりである。わたしをおいて神はない》。