2020年11月8日「約束の物語」

2020118日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:創世記13118

約束の物語

    

 

2020年「障害者」週間

 

日本のプロテスタント教会の加盟教団・団体によって構成されているNCC(日本キリスト教協議会)という組織があります。このNCCの「障害者」と教会問題委員会は毎年11月の第2週を「障害者」週間としています。《それぞれの教会で「障害者」の偏見と差別をなくし、お互いに支え合っていけるよう》祈りをあわす期間です2020年「障害者」週間案内より)2020年「障害者」週間は本日118日(日)から14日(土)まで続きます。

 

今年のテーマは「支え合う『いのち』――新型コロナ禍の中で」です。案内には《未曽有の危機の中で支え合いの心を広げていこう》との一文も記されています。

主題聖句は《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい(ローマの信徒への手紙1215節)。この御言葉は2018年度の花巻教会の年間主題聖句でもありました。新型コロナウイルス感染拡大に伴う困難が私たちを襲う中、それぞれの痛みを受け止めあい、喜びも悲しみも分かち合いながら、互いに支え合ってゆく姿勢を改めて思い起こしたいと思います。

 

 

 

互いに理解し合おうとする姿勢を

 

私たちはそれぞれ、自分固有の困難さや生きづらさを持っています。自分の固有の大変さというのはなかなか人に分かってもらうのは難しい。同じ病いや障がいを持っている方同士でも、その大変さについてはそれぞれ、違いがあることでしょう。以心伝心で相手の大変さが分かればよいですが、私たちにはなかなか難しいものです。言ってもらわないと分からないことも私たちにあります。いまどこが大変なのか、どのような点が困っているのかを、お互いに聞き合ってゆく姿勢が大切なのでありましょう。

先ほど《未曽有の危機の中で支え合いの心を広げていこう》との一文をご紹介しましたが、支え合いの心を広げてゆくためにも、互いに理解し合おうとする姿勢――特に相手の痛みや苦しみを理解し合おうとする姿勢――をもつことが求められているように思います。

 

 

 

見方・感じ方がそれぞれ違う私たち

 

 私たちはそれぞれ、自分固有の世界の見方、感じ方を持っています。それは一人ひとり違います。私たちのこの心、体、そして魂は世界でただ一つです。私たちは一人ひとり、内に自分だけの世界を携えながら生きているのだと言えるでしょう。ですので、自分以外の人々の世界の見方や感じ方が分からないのはある意味、当然のことでもあると思います。他者のことが理解できないのは、悪いことではない。みな、固有の世界を生きているからです。大切なのは、さきほど述べましたように、その固有の世界を互いに理解し合い、受け止め合おうとする姿勢でありましょう。

 

 

 

自分の見方を「当たり前」にしてしまう私たち

 

またもう一つ注意したいのは、私たちは生きてゆく中で、次第に自分のものの見方、感じ方を絶対化していってしまうことです。自分の見方、感じ方が「当たり前」なものであり、「正しい」ものとしてしまう。気が付くと、自分中心に世界を見てしまっているわけですね。

もちろん、私たちはこの心と体と魂をもって世界と対峙しているわけですから、自分を基点にして世界を見てしまうことからは免れることはできません。どの人もそうなのであり、それは悪いことでもなく、責められるべきことでもありません。

 

気を付けたいのは、自分の見えている世界を絶対化してしまうことです。そのとき、私たちの内には他者に対する傲慢さや不寛容、排他性が生じていってしまう危険性があります。自分は絶対に「正しい」、自分とは異なる相手は「間違っている」とみなしてしまうのですね。この課題は、差別や偏見の問題ともつながっています。

他の人からすると、ものごとはまた違って見えている可能性があることを忘れないでいたいものです。わたしにとっての「当たり前」は、必ずしもあなたにとっての「当たり前」ではないのですね。

 

 

 

「旧約聖書」「新約聖書」という呼称

 

 いま述べましたことは、個人のレベルにおいてだけではなく、私たちが属する集団・組織のレベルにおいても当てはまることであると思います。私たちが属している集団にとっての「当たり前」が、他の集団にとっての「当たり前」となるとは限りません。

このことは、キリスト教においても同様です。これまで礼拝説教で述べてきましたように、キリスト教にはキリスト教固有の世界の見方や考え方があります。他の宗教とはずいぶんと違いがある部分が多々あります。キリスト教においては「当たり前」である事柄も、他の宗教を信じる人々にとってはそうではないことはたくさんあることでしょう。

 

例として一つ上げますと、たとえば「旧約聖書」「新約聖書」という呼称自体が、キリスト教固有のものです。皆さんもご存じのように、旧約・新約の「約」は契約・約束の「約」です。旧約聖書は「旧(ふる)い約束の書」、新約聖書は「新しい約束の書」を意味しています。新しい約束とは、救い主イエス・キリストを通して与えられた新しい約束のことを指していますね。私たちは普段、「旧約聖書」「新約聖書」というタイトルを当たり前のように使用していますが、これはユダヤ教徒の人々からすると必ずしも当たり前のことではありません。ユダヤ教徒の人々にとっては私たちが旧約聖書と呼んでいる書のみが正典であるからです。ユダヤ教においては聖書は旧約聖書のことを指します。ですので、旧いも新しいもないわけですね。

 

このことを配慮し、近年は旧約聖書を――ヘブライ語で書かれているので――ヘブライ語聖書と言い換えることがあります。新約聖書はギリシア語で書かれているのでギリシア語聖書と言い換えることができますね。花巻教会では便宜上、「旧約聖書」「新約聖書」との表現を使っていますが、それらはあくまでキリスト教固有のものの見方・考え方に基づいた表現であることを、ご一緒に心に留めておきたいと思います。

 

 

 

アブラハム物語 ~ユダヤ教-キリスト教のものの見方の基点

 

 はじめに、創世記13118節をお読みしました。神さまがアブラハムに約束を与える場面ですね。この箇所はユダヤ教-キリスト教に共通する固有のものの見方・考え方の土台の一つとなっている、非常に重要な箇所です。アブラハムはイスラエル民族の父祖となった人です。このアブラハムと妻のサラから、イスラエル民族の歴史は始まってゆきます。

 

神がアブラハムに約束したのは、「子孫の繁栄」と「カナンの土地(現在のパレスチナ地方)への定住」でした1217節も参照)

1417節《さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。/見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。/あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。/さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから》。アブラハムたちはこの神さまの約束を信じ、旅に出ることになります。

 

この約束への信仰・信頼は、子孫から子孫へと受け継がれてゆきました。そうして紡がれていったのが、旧約聖書(ヘブライ語聖書)です。旧約聖書は神とイスラエル民族との、壮大な約束の物語の書であるのですね。新約聖書も基本的にこのものの見方・考え方を受け継いでいます。イエス・キリストを通して約束が新しくされたと受け止めると同時に、その神の約束が父祖アブラハムに端を発しているとの考え方は大切に受け継いでいるのです。まさに、ユダヤ教-キリスト教の両宗教のものの見方の基点となっているのがこのアブラハム物語だと言えるでしょう。

 

 

 

「約束の実現」か「侵略」か

 

 アブラハムが亡くなって後、子孫たちは神の約束を信じ、荒れ野での40年の旅の末(出エジプト記~ヨシュア記)、カナンの土地への定住を果たします。旧約聖書においては、遂に神がアブラハムに与えた約束が成就したこととなります。

 一方で、イスラエル民族が定住を果たしたカナンは無人の地ではなく、すでに先住民族たちが生活していた土地でした。そこには大勢の先住民族が住んでおり、たくさんの町が形成されていました。カナンの地に入ってゆくということは先住民族と戦争をすることを意味していました。

 イスラエル民族は先住民族との戦争に勝利することによって、カナンの地への入植を果たしてゆきます

 

 長らく、ユダヤ教-キリスト教においてはこれらの記述は特に疑問もなく「当たり前」のものとして受け止められてきました。神さまの約束の成就として、信仰をもって受け止めてきたのです。ただし、これらの記述に決定的に抜け落ちていることがあります。それは、もともとそこに住んでいた、先住民族の人々の視点です。

 

 カナンへの入植はイスラエル民族の人々の視点からすると「神さまの約束の実現」ですが、先住民族の人々の視点からすると「侵略」となるのではないでしょうか。それぞれの立場に立つことによって、これらの聖書の記述は見え方がまったく変わってきます(村山盛忠『パレスチナ問題とキリスト教』参照、ぷねうま舎、2012年)

20世紀後半頃になってからようやく、イスラエル民族の視点だけではなくもう一つの視点――たとえばカナンの先住民族の視点から聖書の記述を読み直す、という試みもなされるようになってきました。キリスト教はこれまでの歴史において時に、傲慢なキリスト教中心主義、不寛容・排他的なキリスト教絶対主義に陥っていたのではないか。その反省に立った上での試みです。伝統的なものの見方、その基点を一度離れて、自分たちのこれまでの在り方を見つめ直すことは、これからますます重要な作業になってくると思います。

 

 

 

共生と平和への道を ~神さまの愛と恵みを基点として

 

 聖書は神と人間との約束の書である――。そう私たちは受け止め続けてきました。いまも大切に受け止め続けています。ただしその約束とは、私たちが考えているよりも、もっと大きく、広く、深いものなのではないでしょうか。私たちの固有の世界の見え方・感じ方だけでは把握しきれないもの、それほどまでに深いものが、神さまの約束であり、愛と恵みです。神さまの目から見て、一人ひとりがかけがえのない、大切の存在である(イザヤ書434節)。これが聖書の根本のメッセージであると私は受け止めています。

 

自分自身を基点とするのではなく、この神さまの愛と恵みを基点とするとき、私たちはまた世界と他者が新しく、違って見えてくるのではないでしょうか。 

 この神さまの愛と恵みを基点とする中で、私たちが改めて問われてゆくこと。それが、神の目に尊い一人ひとりが、いかにしたら共に生きてゆくことができるか、支え合いながら生きてゆくことができるのか、との課題です。

 

 

メッセージの冒頭で、2020年「障害者」週間の主題をご紹介しました。「支え合う『いのち』――新型コロナ禍の中で」、《未曽有の危機の中で支え合いの心を広げていこう》。一人ひとり違う、固有の世界をもつ私たち。互いに異なる私たちが、いかにしたら互いに支え合ってゆくことができるのか。排除し合うのではなく、敵対し合うのでもなく、共生をしてゆくことができるのか。神さまの愛と恵みにいま立ち還り、その平和への道をご一緒に祈り求めてゆきたいと願います。