2020年12月20日「光は暗闇の中で輝いている」

20201220日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:ヨハネによる福音書1114

光は暗闇の中で輝いている

 

 クリスマスおめでとうございます! 本日はご一緒にクリスマス礼拝をおささげしています。

 

まことの光

 

講壇の前に飾っているリースは、アドベント・クランツといいます。教会ではアドベントの時期になると、このクランツのろうそくに毎週1本ずつ火をともしてゆく風習があります。クリスマス礼拝をおささげする今日は、4本すべてのろうそくに火がともっています。

 

このろうそくの光は、キリストの光を指し示しています。聖書はイエス・キリストを「まことの光」と呼んでいます。先ほどご一緒にお読みした聖書箇所には次の一節がありました。《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである(ヨハネによる福音書19節)。クリスマスはこの「まことの光」なるイエス・キリストが私たちの世界に到来(誕生)した、喜びの日です。

 

 

 

先が見えない不安の中で

 

今日は喜びの日、クリスマス――。と同時に、様々な事情によって今朝、クリスマス礼拝に行くことができない方々がいることも心に留めたいと思います。特に今年は新型コロナウイルスの影響により、クリスマス礼拝やイブ礼拝に行くことができない方が多くいらっしゃることと思います。国内外で現在、また感染が拡大している――国内では第三波のただ中の――状況にあります。いま療養中の方々の上に主よりの癒しがありますように、医療に従事している方々の上に主の支えがありますように、またいま生活に困難を覚えている方々に必要な支援が行きわたりますように、ご一緒に祈りをあわせてゆきたいと思います。

 

今年は新型コロナウイルスの影響により、本当に大変な年になりました。感染の不安・健康の不安はもちろんのことですが、この先、問題がどう収束してゆくのか先が見えない、そのことへの不安を感じ続けた一年でもありました。

私たちにとってとても辛いことの一つは、先が見えないことです。まるで暗闇が自分の目の前を覆っているかのような感覚になった方もたくさんいらっしゃることでしょう。そしてそれはまだ現在進行形で続いています。一年がもうすぐ終わろうとしている現在、「さて、来年はどうなるのだろう」「一体どうなってゆくのだろう」と、先が見えない不安を抱えつつ過ごしているのが、いまの私たちの状況ではないでしょうか。

 

 

 

それでも、「絶望はしない」

 

 先ほど、聖書はイエス・キリストを「まことの光」と呼んでいると述べました。「まことの光」なるキリストは、どのようにして私たちを照らしてくださっているのでしょうか……?

 

何かその光によって、新型コロナウイルスが消え去ってくれるわけではありません。私たちの目の前にある様々な問題がすぐに解決されるわけでもありません。この大変な状況の中で、いまキリストを礼拝することの意味は何なのだろうか……と戸惑いを覚えてしまうこともあるかもしれません。

 

わたしが神学生の時に出席していた教会の牧師からお聞きした、印象深いエピソードがあります。その先生が青年時代に洗礼を受けたときのこと、そのときはまだクリスチャンではなかったご両親が、洗礼を授けてくれた教会の牧師に「クリスチャンになると何かよいことがあるのですか」と尋ねられたそうです。するとその先生は、「そうですね……絶望しなくなるでしょうね」とおっしゃったそうです。

「絶望しなくなる」――この表現が、心にとても印象深く残りました。「希望をもつ」とはまたニュアンスが異なる表現であるように思うからです。「希望をもつ」ことと「絶望はしない」こと。言わんとしていることは共通していても、そこから受ける印象は異なります。

 

 大変な状況のただ中にいるとき、私たちは「希望」という言葉を口にすることはなかなか難しいと感じてしまうことがあるかもしれません。「希望がある」とはまだはっきりと言えないとしても、それでも、「絶望はしない」と言うことは可能であるのではないでしょうか。イエス・キリストの光は、まず第一に、絶望しないための力を私たちに与えて下さるものだと私は受け止めています。

 

 

 

共にいてくださる主 ~「どんなときも、あなたは独りではない」

 

では、なぜ、私たちはイエス・キリストを通して、絶望しないための力が与えられるのか。それは、イエス・キリストを通して、「どんなときも、自分は独りではないこと」を知らされるからです。

 

マタイによる福音書では、主イエスのもう一つの名前は「インマヌエル」であると記されています。《見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。/その名はインマヌエルと呼ばれる(マタイによる福音書123節)。インマヌエルは「神は私たちと共におられる」という意味です。

主イエスはいつも私たちと共にいるために、この世界に来て下さいました。いつも私たちのそばにいるようになるために。私たちに、「どんなときも、あなたは独りではない」ことを知らせるために。

 

自分が独りぼっちで誰からも支援が得られず、孤立無援の状況にいると感じるとき、私たちは絶望するのではないでしょうか。先が見えない不安よりも、誰もそばにいない孤立感こそが、私たちを絶望へと追いやってゆきます。

言い換えると、たとえ先が見えなくても、誰かが傍にいてくれたら、私たちは絶望はしないのではないでしょうか。この苦しみ、この辛さをそばで共有してくれる誰かがいたら。寄り添って歩んでくれる人がいたら――たとえまだ希望は見つかっていないのだとしても、私たちは完全に絶望することはないのではないかと思います。それでも今日という日を生きてみよう、そう思うことができるのではないかと思います。

 

 

 

光は暗闇の中で輝いている ~たとえいまはまだ先が見えなくても

 

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた(ヨハネによる福音書114節)

 

 あなたが「自分が独りではない」ことを知るために、イエス・キリストはあなたのもとに来て下さいました。あなたを決して孤立させることのないために、人となり、この世界に来て下さいました。あなたのそばにいるために、あなたの苦しみも喜びもすべて共にし、その旅路の一歩一歩を照らし出すために、あなたの人生に光と熱を与えるために――。

 

 イエス・キリストを通して、自分は独りではないことを知らされるとき、私たちは絶望しないための力が与えられます。たとえいまはまだ先が見えなくても、確かな希望は持てなくても。明るい未来は描けていなくても。私たちはもはや、絶望をすることはありません。「まことの光」なるキリストが私たちと共にいて、この暗闇のただ中で、一人ひとりを照らしていて下さるからです。

光は暗闇の中で輝いている(ヨハネによる福音書15節)、《その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである19節)

 

どうぞいま、この礼拝に集ったお一人おひとりの心に、またここに集うことの叶わなかったお一人おひとりの心に、キリストの光がともされますように。またそして私たちも、いま孤立感を覚え苦しんでいる方々のために、自分にできることを行ってゆくことができますように。キリストの光を胸に、寄り添い支え合いながら、この旅路を共に一歩一歩、歩んでゆくことができますようにと願います。