2020年1月26日「カナでの最初のしるし」

2020126日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書2111

カナでの最初のしるし

 

 

絵画『カナの婚礼』

 

パリのルーヴル美術館において最も有名な作品と言えば、多くの人がレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を挙げることでしょう。歴史上もっとも有名な絵画作品、というお題においても、『モナ・リザ』が一番になるかもしれません。ルーヴル美術館の中でも、特に多くの人々の関心が集中しているのがこの『モナ・リザ』です。

 

そのようにあまりに有名な『モナ・リザ』ですが、実物をご覧になったことがある方は、「意外と小さいな」という印象を受けたかもしれません。私も一度ルーヴル美術館で実物を観たことがありますが、想像していたよりもサイズが小さな印象を受けました77センチ×53センチ)。もちろんサイズは小さくても、ダ・ヴィンチの作品から発されている力にはすごいものがあります。

 

この『モナ・リザ』と同じ展示室(国家の間)に、ルーヴル美術館の中で最も大きな絵画作品があります。ヴェロネーゼという画家が描いた『カナの婚礼1663年)です(スクリーンの画像を参照)。

 

いまお読みしましたヨハネによる福音書2111節をモチーフとした作品です。その大きさは縦6.66m、横9.9m。もともとは修道院の食堂の壁面に飾る絵として制作されたそうです。展示室に入ってきた人の目をまず惹くのがこの『カナの婚礼』です。私の友人は『モナ・リザ』よりもこの『カナの婚礼』が印象に残った、圧倒された、と言っていました。

 

この巨大な『カナの婚礼』の絵を参照しながら、改めてご一緒に物語を振り返ってみたいと思います。

 

 

 

カナでの最初のしるし

 

 舞台となっているのはガリラヤのカナ。この町がどこにあったかは諸説ありますが、イエス・キリストがお育ちになったナザレより十数キロほど北にあったと推定されます。

 

 その日、このガリラヤのカナにて、結婚式が行われていました。当時のパレスチナの結婚式は、長い時間をかけて盛大に行われるものでした。歌あり、踊りあり。たくさんのご馳走やお酒もふるまわれます。親族や地域の人々が大勢集い、場合によっては何日もかけて、新郎新婦の結婚を祝ったそうです。絵をご覧になっていただくと、大勢の人が描かれていますよね。

 

祝宴には主イエスと母マリア、弟子たちも招かれていました(ちなみにヨハネによる福音書においてはマリアという名前は記されておらず、イエスの母と表記されています)。主イエスと母マリアがどこに描かれているか、お分かりになるでしょうか。絵の中央に描かれていますね。主イエスが羽織っている衣の鮮やかな青が印象的です。

 

祝宴の主役の花嫁と花婿はといえば、絵の左端に描かれています。もちろん、実際の祝宴においてはこのようなことはあり得ず、絵画ならではの表現です。この「カナの婚礼」の物語において、まことの主役はイエス・キリストであるというメッセージが込められているのでしょう。

 

祝宴で欠かせないのが、ぶどう酒。そのぶどう酒が足りなくなってしまう、というところから本日の物語は始まります。

 

ぶどう酒が足りなくなったことを受けて、母マリアは主イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と知らせます。すると主イエスは母に答えました。4節《婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません》。

 

母親に対して「婦人」という表現が使われていることに違和感を覚える方もいらっしゃるかもしれません。ただ、別にここで主イエスは母マリアに対して何か冷たい、他人行儀な言い方をしておられるわけではありません。この返答の大切な部分は、「わたしの時はまだ来ていません」というところです。

 

しかしマリアは式場の召使たちに《この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください5節)と伝えます。マリアが息子であるイエスに全幅の信頼を置いている様子が伝わってきます。

 

さて、そこにはユダヤの人々が清めの儀式に使う大きな水がめが6つ置いてありました。全部あわせて500700リットルもの水が入る大きな水がめであったようです。主イエスは召使たちに《水がめに水をいっぱい入れなさい7節)とお伝えになりました。召使たちはその主の言葉の通りに、かめの縁まで水を満たしました。すると不思議な出来事が起こりました。かめの中の水がワインに変わったのです。それも、最も上質なワインに。

 

主イエスは《さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい8節)とおっしゃいました。召使たちが運んできたぶどう酒の味見をした世話役は驚きました。非常に上等なワインであったからです。絵の中でも、ぶどう酒を注ぐ召使と、それを味見する世話人の姿が描かれていますね。このぶどう酒がどこから来たのか知らない世話役はてっきり花婿が持ってきたと思い、花婿を呼んで、言いました。10節《だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました》!

 

ヨハネによる福音書は、水をワインに変えたこの出来事が、主イエスが行った最初の《しるし》であったと語ります。11節《イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた》。

 

 

 

私たちの人生を共有し、祝福して下さる主

 

 絵を参照しながら、ご一緒に「カナの婚礼」の物語を振り返りました。ヨハネによる福音書で描かれる最初の「しるし」、それが、人々が喜び歌う婚礼の場で行われた、というところが心に残ります。主イエスは人々と同じテーブルについて、共に楽しく飲み食いしながら、新郎新婦を祝福してくださっていました。そしてさりげない仕方で水をワインに変えて、二人の新しい門出を祝福して下さいました。

 

またそれは新郎新婦に対してだけではなく、そこに集っていた一人ひとり対してもそうであったでしょう。水がめの中のぶどう酒を、祝宴に参加していたすべての人が味わうことができたことと思います。それは、その場にいた全員が、知らずしらず、神さまの恵みに与ったことを意味しています。

 

そのように、主イエスは私たちの人生の大切な一瞬一瞬を共有してくださっている。私たち一人ひとりの人生を重んじ、祝福して下さっている。共に喜び、共に涙を流してくださっている――。この「カナの婚礼」の物語を読んでいると、そのことへの感謝が胸の内に静かに込み上がってきます。

 

 

 

しるし ~神の愛と永遠の命

 

 ヨハネによる福音書においては、水をワインに変える、病いを癒すなどの奇跡的な出来事は、「奇跡」ではなく「しるし」と呼ばれます。「しるし」とは、何かを指し示すものです。奇跡そのものよりも、その奇跡的な出来事が指し示している事柄がより重要である、というのですね。聖書におけるいわゆる「奇跡物語」を読むとき、それが「あり得るか、あり得ないか」ということよりも、その出来事が指し示しそうとしている事柄が何であるかを汲み取ろうとする読み方をするのがよいのではないでしょうか。

 

 これらの「しるし」が指し示しているもの、それはイエス・キリストを通して現わされている神の愛と永遠の命である、と本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

ヨハネによる福音書にはこのような言葉があります。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命を得るためである316節)。神さまの愛について私たちに伝える、とてもよく知られた言葉です。この短い一文の中に聖書全体のメッセージが凝縮されている、と言う人もいます。神さまはその独り子をお与えになったほどに、私たちを愛して下さった。そしてそれは私たちが永遠の命を得るためであるのだ、と。神の愛と永遠の命という大切な言葉がこの一文の中には含まれています。

 

この316節の言葉は、特に、イエス・キリストが十字架におかかりになったことを念頭において記されています。十字架のキリストを通して、まったき神の愛が現わされた。そしてその3日目に主イエスが十字架の死より復活されたことによって、私たちに永遠の命が約束された。そのようにヨハネ福音書を受け止めているのです。

 

本日の物語においては主イエスが母マリアに「わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃる部分がありますが、その《わたしの時》とはイエス・キリストの十字架と復活の《時》であったことが分かります。

 

 

 

主は私たちと同じテーブルについて

 

本日の聖書箇所で語られるカナでの「最初のしるし」、この出来事は神さまの愛と命とを指し示しています。水がめから満ち溢れるぶどう酒は、この愛と永遠の命を指し示していると受け止めることもできるでしょう。祝宴の場に参加する一人ひとりが、神さまの愛と命に与りました。そしていま、私たち一人ひとりも、この神さまの愛と命に与る恵みが与えられています。

 

私たちは時に、神の愛、永遠の命というものが分からなくなってしまうこともあります。生きてゆく中で、私たちは喜びだけではなく、様々な困難や悲しみに直面します。目の前が真っ暗に思えるような日々を過ごすこともあるでしょう。困難を前にして、そして死の現実を前にして、「愛」や「永遠の命」という言葉が何か空々しく思える時もあります。しかし、いつも、どんなときも、神さまは私たちに愛と命の言葉を語りかけてくださっていることを想い起こしたいと思います。

 

私たち一人ひとりの存在が、神さまの目から見て、かけがえのない存在であること。私たちの愛のつながりは死をもって断ち切られるのではないということ。私たちがこの生涯を終えた後も、いつまでも、神さまの愛と命の中に結ばれ続けるのだということ――。

 

 主イエスはどこか遠く離れたところで、私たちに語りかけおられるのではありません。私たちのすぐ傍で、私たちと同じテーブルについて、共に喜び共に涙を流しながら、愛と命の言葉を語り続けて下さっています。

 

 いま悲しみ、苦しみの中にいる方々の心に、神さまの愛と命の言葉が届けられますよう祈ります。