2020年6月14日「聴くことによって」

2020614日 花巻教会 聖霊降臨節第3主日礼拝

聖書箇所:ローマの信徒への手紙10517

聴くことによって

  

 

「聞く」と「聴く」

 

「きく」という言葉を表記するとき、私たちは普段二通りの表記を使っています。一つは「聞く」。もう一つは「聴く」(耳で聞くと同じ音ですので、私が持っている画用紙をご覧ください)。

 

 前者の「聞く」は、たとえば「ある人からこんな話を聞いた」というような時に用います。私たちが音声や情報を受け取る際、一般的に使われるのがこの「聞く」です。

後者の「聴く」はより限定的な状況において使われます。たとえば、「音楽を聴く」あるいは「大学の講義を聴く」など。私たちは普段、どのようにこの二つの表記を使い分けているでしょうか。

 

 辞書によりますと、前者の「聞く」は音声が自然と耳に入ってくる場合に使う表記であるようです。日常生活で私たちが経験することが多いのはこちらの「聞く」ですね。人との会話をはじめ、私たちは一日の中でさまざまな音や声を――意識する・しないに関わらず――「聞いて」います。

対して、後者「聴く」には、注意深く耳を傾けるという意味が込められています。ただ音が耳に入ってくるというだけではなく、注意深く耳を傾け理解しようという意識的・積極的な姿勢が表されている言葉です。

 

NHK放送文化研究所のウェブサイトでは《ただ単に「きく」場合は一般に「聞く」を使い、注意深く(身を入れて)、あるいは進んで耳を傾ける場合には「聴く」を使います》と説明がされていましたhttps://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/gimon/151.html)。皆さんも普段、自然とそのように両者の表記を使い分けていらっしゃるのではないでしょうか。

 

改めてこの二つの表記の意味の違いを確認してみますと、私たちが日常生活で経験している「きく」は、圧倒的に前者の「聞く」ことであるが分かります。もちろん、「聞く」と表記をしたからといって、私たちが必ずしも注意深く耳を傾けていないことにはならないでしょう。ただし一方で、私たちが普段、耳に入ってくる言葉の多くを聞き流してしまっていることも事実です。「右から左に聞き流す」と言う言葉もありますが、耳に届いたその音声がすぐに頭から消えてしまうことは私たちには数限りなく起こっていることでしょう。誰かからの大事な要件、メッセージをも気が付かずに聞き流してしまっているのではないか、と自らを省みずにはおれません。

 

 

 

《信仰は聞くことにより》

 

教会では聖書の言葉を「きく」ことを表記する際、「聴く」が用いられることがあります。牧師でも意識的に「聴く」を使っている方がたくさんおられるようです。聖書の言葉をただ「聞く」のではなく、「注意深く耳を傾ける」姿勢が重要であることを踏まえてのことでしょう。

皆さんは私のメッセージをどちらの「きく」で受け止めておられるかあえてお訊ねしませんが、きっと注意深く「聴いて」くださっていることと思います(!)。さてさてそれは置いておいて、本日の聖書箇所に、このような言葉がありました。《実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです(ローマの信徒への手紙1017節)。パウロという人がローマの教会の人々に向けて書いた手紙の中に出てくる言葉です。

 

 信仰は、「きく」ことによって始まる。キリストの言葉を「きく」ことによって始まる――。私たちが用いている新共同訳聖書は基本的に「きく」は「聞く」で統一されていますのでここでも「聞く」が用いられていますが、意味としては明らかに「聴く」と表記するのがふさわしいものでしょう。信仰は、「聴く」ことによって始まる。キリストの言葉を「聴く」ことによって始まる、と。

 

 聖書において繰り返し強調されるのは、神さまの言葉を注意深く「聴く」ことです。私たちが自分なりの考えを述べるよりも先に、まず神さまの言葉に耳を傾けること、それが重要であることが繰り返し語られています。

 

たとえば旧約聖書の申命記の有名な一節、《聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。/あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい(申命記645節)。ここでは《聞け》、と力強い命令形をもって語られています。もちろん、意味としては「聴け」ですね。神がこれからお語りになることに注意深く耳を傾け、全身全霊で受け止めるよう命じられています。

 

 

 

《聞く耳のある者は聞きなさい》(!?)

 

一方で、聖書には、そのように神さまから命じられながらも、神さまの言葉を「聴く」ことができない人々の姿も率直に記されています。大切な言葉を聞き流してしまう私たちの姿も記されているのですね。注意深く耳を傾けるべき肝心なところで、右から左へ聞き流してしまっていることは、私たちには多々あることでしょう。

 

福音書において、イエス・キリストも聴衆にさまざまな教えを説いた後、印象的な一言を付け加えておられます。《聞く耳のある者は聞きなさい(マルコによる福音書49節)。どこかユーモアも感じさせる面白い表現ですが、この最後の一言からも、集まってきた人々全員が必ずしも主イエスの言葉に注意深く耳を傾けていたわけではなかったことが伺われます。主イエスの話を聞きながらも、心ここにあらず。主の言葉を右から左へ聞き流してしまっていた人もいたかもしれません。

 

 

 

「わたしはあなたを愛しています」という一言を

 

 本日は「きく」ことについて少しお話をしました。「聞く」と「聴く」の意味の違い。聖書においては後者の「聴くこと」が大切なこととされているとお話ししました。

 

 確かに、聖書には様々な教えが記されています。難解な言葉もたくさんあります。そのすべてに私たちは注意深く耳を傾けることができるかというとなかなか難しいことでもあるでしょう。先週もお話ししましたが、聖書の中には、一度読んでも意味が分かりづらい言葉がたくさんあります。

 けれども、神さまが聖書全体を通して私たちにお語りになっているメッセージは、決して難しいものではありません。たくさんの勉強や知識が必要とされるものでもありません。その神さまのメッセージとは、突き詰めて言うと、「わたしはあなたを愛しています」という一言です。

 

この一言を伝えるため、神さまは主イエスを私たちのもとにお送りくださいました。この一言を私たちに伝えるために、主イエスご自身もその全生涯を費やしてくださいました。そしてその生涯の最後には、私たちのために御自分の命をささげてくださいました。十字架におかかりになりながら、イエス・キリストはそのお姿そのものを言葉として、私たちに神さまの愛を伝えてくださいました。そしていまも伝え続けて下さっています。

 

 

 

愛の言葉はいつも近くに 

 

「わたしはあなたを愛しています」。この神の愛の言葉は、私たちが耳を傾ける・傾けないに関わらず、いつも私たちに向けて発されています。私たちが耳を傾けようとするから、神さまは私たちにお語りになられるのではない。私たちが耳を傾けようとする前から、神さまは私たちに語り続けてくださっています。愛の言葉で私たちを包んでくださっているのです。

 

本日のパウロの手紙の中に《御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある》という旧約聖書からの引用がありました(ローマの信徒への手紙108節)。神さまの愛の言葉はいつも私たちの近くにあります。私たちの口に、私たちの心の内にあります。けれども、いつの間にか私たちはこの言葉を忘れてしまっている。私たちに向けて語られている神さまの愛の言葉を聞き流してしまっているのではないでしょうか。

 

 

 

「聞く」ことから「聴く」ことへ ~神さまの声をよりはっきりと聴き取ることができるよう

 

 改めて、先ほどのパウロの言葉を見てみたいと思います。《実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです》。

 

 私たちが信仰を持ち、キリストを信じるから、神さまは私たちに愛を注いて下さるのではありません。私たちがキリストを知る以前から、神さまは私たちを知っていて下さり、かけがえのない存在として重んじて下さっています。神さまの愛の前には、信仰の有無、思想信条、国籍、性別、心身の状態、私たちの経歴や過去も、一切関係はありません。私たちをあるがままに重んじて下さっているのが神さまの愛です。

 

 では、信仰とは、私たちにとって何なのでしょうか。それは、私たちの心の耳の状態を「聞く」ことから「聴く」ことへと変えるもの、そして「わたしはあなたを愛しています」という神さまの声をよりはっきりと聴き取ることができるようにするものだと受け止めることができるでしょう。

 

 愛の言葉がいつも心の内にあるからこそ、私たちは目の前にある難しい問題に向かい合い続ける勇気と力もまた与えられてゆくのではないでしょうか。

 

 先々週、私たちはペンテコステを迎えました。ペンテコステ(聖霊降臨)はイエス・キリストが復活され天に挙げられた後、弟子たちのもとに聖霊がくだったことを記念する日です。

「わたしはあなたを愛しています」。この一言を私たちに伝えるために、神さまは弟子たちのもとに聖霊を送って下さいました。この一言をすべての人々に伝えるために、教会が誕生し、聖霊の導きのもと、世界中に広がってゆきました。

 

 どうぞいま私たちの心が開かれ、神さまの愛の言葉を共に受け止めることができますよう、聖霊に導きを祈り求めたいと思います。