2020年7月19日「この道に従って」

2020719日 花巻教会 聖霊降臨節第8主日礼拝・教会学校と合同

聖書箇所:使徒言行録241021

この道に従って

 

  

 

豪雨災害から2週間、新型コロナウイルスの感染判明者の増大

九州を中心とする豪雨災害の発生から昨日で2週間が経ちました。長期間にわたって停滞し続けた梅雨前線によって発生した大雨により、各地で甚大なる被害がひろがっています。この度の豪雨によって愛する人を亡くされた方々の上に主の慰めがありますように、いま困難の中にいる方々に必要な支援が行き渡りますように祈ります。

 

また、東京都を中心に、国内で新型コロナウイルスの感染判明者が増大していることが報じられています(ただし、検査数自体が以前より増大しているので、この数値には注意が必要です)。そのような中、政府による観光支援策「Go To トラベル」を巡っても様々な混乱が生じています。岩手はいまだPCR検査による陽性者の数がゼロのままですが(昨日の時点での県内のPCR検査総数1,260件、いずれも不検出)、ウイルスにとっては特に県境は関係ありませんので、いつ陽性者が出てもおかしくない状況です。改めて、それぞれ感染予防に努めてゆきたいと思います。

 

と同時に、この先、岩手で陽性反応が出た場合、その当事者の方やそのご家族や関係者が不当な扱いを受けることがないよう、配慮をすることが求められます。ゼロが1になることは確かにインパクトはありますが、ゼロがただ1になっただけだと受け止めることもできるでしょう。

私たちはこの数か月の間、ウイルス自体の恐ろしさとともに、人の心が生み出す差別や偏見の恐ろしさについても学びました。ウイルスは私たち人間の力では完全にコントロールすることはできませんが、差別や偏見は私たちの心がけによって和らげ、減少させてゆくことができます。

 

 

キリスト教が誕生して間もない頃

先週に引き続き、使徒言行録をご一緒に読んでいます。使徒言行録はイエス・キリストが復活して天に挙げられた後の弟子たちの言行(言葉と振る舞い)を記録した書です。残された弟子たちを通してキリスト教がどのように誕生していったかが描かれている書であるとも言えます。ですので、使徒言行録を読みますと、初期キリスト教の様子がいろいろと分かってきます。

 

 たとえば、誕生して間もないキリスト教は人々から《ナザレ人の分派》245節)と呼ばれていたことが分かります。ナザレ人とは、ナザレ出身のイエス・キリストのことを指しています。当時、キリスト教はあくまでユダヤ教の《分派》とみなされていたのですね。本日の聖書箇所にも《分派》という言葉が出てきました2414節)。ユダヤ教徒の人々からすると、誕生して間もないキリスト教は、「ナザレのイエスを救い主(=キリスト)として信じる」おかしな《分派》として見えていたのでしょう。この時点では、キリスト教は周囲の人々からユダヤ教とは別の宗教だとはみなされてはいなかったことが分かります。

 

 また、そもそも、この時はまだ「キリスト教」という名称自体が存在していなかったようです。周囲の人々からは《ナザレ人の分派》と呼ばれていたこの新しいグループは、では、自分たちのことをどのように呼んでいたでしょうか。本日の聖書箇所を読みますと、たとえば、《この道》と名乗っていたことが分かります。2414節《しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています(他に92節、199節、23節、224節、2414節、22節など)

「道」という言葉で自分たちのことを言い表しているのが印象的ですね。この名称には、自分たちは決して「道を外れた」ことをしているのではなく、むしろ「神によって示された道」を忠実に歩んでいるのだという信念が込められているのかもしれません。

 

 

新しい教え ~イエス・キリストの復活

 初期キリスト教の時代に大きな働きをした人物がいます。本日の聖書箇所にも登場するパウロという人です。パウロはもともとは熱心なユダヤ教徒でしたが、あるとき復活のキリストと出会い、目からウロコのようなものが落ち918節)、洗礼を受けキリスト教徒となりました。

 

 パウロは様々な苦難や迫害を経験しながらも、イエス・キリストによって示された《この道》に従い、《この道》を伝えることを止めませんでした。本日の聖書箇所でも、権力者たちの前で堂々と弁明するパウロの姿が描かれています。自分は神によって示された「道」を忠実に歩んでいるだけだ、神に対しても人に対しても責められることのない良心を絶えず保つように努めている2416節)、と彼は弁明をしています。

 

 改めて1416節をお読みいたします。《しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。/更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。/こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています》。

 

 15節では、死者の復活について述べられています。自分は、《正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望》を、神に対して抱いているのだ、と。パウロがもともと属していたユダヤ教のファリサイ派においても、死者の復活は信じられていました。パウロはここで、自分は「道に外れた」教えを信じているのではなく、代々受け継がれてきた死者の復活についての信仰をしっかりと受け継いでいることを改めて強調しようとしているのでしょう。

 

 ただし、それまでのユダヤ教の教えとパウロが伝える教えには連続性があると同時に、はっきりとした相違がありました。それは、あらゆる死者の復活に先んじて、「ナザレのイエスが、神によって復活させられた」という教えです。これはそれまでにはない、まったく新しい考え方でした。イエス・キリストが死より復活した――この新しい教えこそが、ユダヤ教という母体から新しくキリスト教が生まれ出ることとなった最大の要因であったと言えるでしょう。

 

 

受け継がれてきた復活の希望

 すべての死者の復活に先んじて、イエス・キリストが死より復活された。この復活への希望を、キリスト教会はこの2000年間、大切に受け継いできました。バトンを受け継ぐようにして、「死は終わりではない」という望みを私たちは代々、先人たちから受け継いできました。

 

 パウロはコリントの信徒への手紙一という書簡の中で次のように述べています。コリントの信徒への手紙一1534節《最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、/葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと……》。

パウロはここで、《最も大切なこと》として自分が伝えていることは、自分自身、先人たちから《受けた(受け継いだ)》ものであると記しています。それはイエス・キリストがわたしたちの罪のために死んだこと、そして3日目に復活されたこと、です。

 

 パウロ自身、先人から受け取り、次の人々へ伝えた復活の希望――。それはキリスト教の核心部である一方で、最も不思議に思えるもの、最も理解しがたく思えるものでもあります。私たちは生きてゆく中で、時に、復活についての信仰が揺らいでしまう経験をすることもあるでしょう。

 

 

時に揺らいでしまう復活の希望

 私たちは福音書に登場する弟子たちのように、復活された主イエスに直接的に出会った、というわけではありません。復活のキリストが生前と変わらぬお姿で現れて話しかけてくださったり、一緒に食卓についてくださったり(ルカによる福音書2413-35節)、目の前で焼いた魚を食べてくださったり(同36-43節)、というような直接的な経験はしていません。また使徒言行録のパウロのように、目からウロコが落ちるようなドラマチックな経験をしているわけでもありません。私たちは聖書に記された弟子たちの経験を真実のこととして受け入れ、彼・彼女たちの経験を自分たちの経験として大切にしてきたのです。

 

 ですので、時に復活が信じられなくなったり、確信が揺らいだり、実感できないという心境になったとしても、それはむしろ当然であるということができるのではないでしょうか。

 

 

復活の希望は、人との出会いを通しても

 私たちは確かに、弟子たちのように直接的な体験は必ずしもしていないかもしれない。けれども、《この道》の旅路を行く中で、少しずつ復活の希望が深められてゆく、確かにされてゆく経験をしてゆきます。それは、人との出会いを通して、です。復活の希望は、大切な人々との出会いを通しても与えられてゆくものであるのではないでしょうか。

 

ある人との出会いを通して、私たちは復活の希望を受け取ることがあります。それもまた、復活の主との出会いの経験であるのだと思います。復活のキリストはもはや福音書が描く通りに直接的には私たちの前に現れてくださらないとしても、大切な人との出会いを通して、ふれあいを通して、そしてまた別れを通して、復活の主は私たちの前に現れてくださっているのだと受け止めています。私たちの間にいまこの瞬間も生きて、働いて下さっているのだと受け止めています。

 

 この数か月、私たちは続けて愛する方々を神さまのもとにお送りしました。326日にはKさんが天に召され、628日にはMさんが天に召されました。また皆さんの中にはこの数か月、お知り合いや親しい方を神さまのもとにお送りした方もいらっしゃることと思います。

愛する方々との別れは、大変つらく悲しいものです。と同時に、神さまはこれらの愛する方々の存在を通して、そのかけがえのない人生を通して、私たちの心に復活の希望の光をともしてくださっているのだと信じています。

 

私たちの別れは、永遠の別れではありません。神さまの光のもとで、また再び会えるその時までの、「さようなら」です。

 

 復活の希望を胸に、《この道》に従って、これからもご一緒に一歩一歩、歩んでゆきたいと願います。