2020年8月30日「新しい生き方」

2020830日 花巻教会 聖霊降臨節第14主日礼拝

聖書箇所:ローマの信徒への手紙716

新しい生き方

 

 

讃美歌433番「あるがままわれを」

 

 先ほどご一緒に讃美歌433番「あるがままわれを」を賛美いたしました。皆さんの中にも愛唱賛美歌にしておられる方がいらっしゃるかもしれません。54年度版の讃美歌では「いさおなきわれを」と訳されていました。神さまが私たち一人ひとりを「あるがまま」に受け入れてくださっていることの恵み、喜びを歌う曲です。

 

 1番《あるがままわれを 血をもてあがない、イェス招きたもう、み許にわれゆく》。

この曲を作詞したのはシャーロット・エリオット17891871年)という方です。シャーロットさんは母方のおじいさんも牧師、兄弟二人も牧師という、牧師一家に生まれました。彼女は子どもの頃から体が弱く、あまり人前に出ずに生活した方であったそうです。

体の弱さゆえ、自分は役に立たない存在だという無力感にさいなまれ、悲しみの中にあったシャーロットさんが、ある時、そのような自分を神さまはそのままに受け入れてくださっているのだと気づき、その思いを詞にしたのがこの「あるがままわれを」であるそうです(参照:川端純四郎『さんびかものがたりⅣ さあ、共に生きよう』)。シャーロットさん自身の経験、深い実感が込められた曲であったのですね。

 

 この曲のキーワードである「あるがまま」は、原語の英語では「just as I am」です。そのままの、あるがままの「私(I am)」。必要以上に立派に、大きく見せるのでもない、必要以上に自分を卑下し、小さく見せるのでもない、あるがままの私。弱さも、痛みも、悲しみも、これまで自分がしてしまった失敗や過ちもすべて含んだ、そのままの私を、神さまは受け入れてくださっている。イエス・キリストの十字架を通して、受け入れてくださっている。この曲を歌っていると、私たちはこの大いなる恵みを思い起こします。

 

 

 

私たちが「あるがまま」でいることをゆるさない社会

 

 現在、私たちの社会では、この「あるがまま」ということが見失われつつあるのではないでしょうか。自分をそのままに受け入れることができない。多くの人がその辛さ、悲しみ、痛みを抱えながら懸命に生きているように思います。

 

 その背景には、私たちの社会自体が、私たちが「あるがまま」でいることをゆるさない社会になっていることがあるのではないでしょうか。自然体の自分でいることがゆるされない。より有用な、より社会の役に立つ人間になることが要請されている。私たちは社会から、周囲から、もっと立派な人間になるよう、有用な「人材」になるよう、絶えずプレッシャーを受けています。いつも誰かに・何かに、後ろからせかされているような感覚とでもいいますでしょうか。そういう感覚にさいなまれている限り、私たちの心には平安、安心感は訪れることはありません。特に、子どもたちにとって、それがいかに大きな心の負担となっていることでしょうか。

 そのような圧力を受ける中、子どもも大人も、いま多くの人が、心の奥底に不安を覚えながら生活しているように思います。

 

 

 

パウロの経験 ~律法に縛られる生き方

 

 本日の聖書個所として、ご一緒にローマの信徒への手紙716節をお読みしました。この手紙を記したのは、パウロという人物です。ユダヤ教徒として育ち、その熱心さのあまりキリスト教徒を迫害していた時期もありましたが、イエス・キリストとの出会いを通して新しい生き方が与えられることとなりました。

 

 最後の6節にこのような言葉がありました。《しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです》。

 

 まず律法という言葉について説明したいと思います。律法とは、旧約聖書に記されている神の掟のことです。ユダヤ教では伝統的に旧約聖書には613の律法が記されているとされています。

これらのたくさんの律法を、ユダヤ教徒の人々はいまも大切に守り続けています。

イエス・キリストと出会う前の若き日のパウロは、旧約聖書の律法を忠実に守り、立派な人間になることを懸命に目指していました。弱さを克服し、立派な、非の打ちどころのない人間になれば、神さまは自分を受け入れ、愛してくださるだろうという意識があったのかもしれません。

 

しかしそのような日々の中で、パウロは心の奥底では、辛さを感じていたのではないでしょうか。もし自分がパウロの立場だったら、と想像すると、相当辛い日々なのではないかと思います。そのままの自分でいることがゆるされない世界なのだとしたら……。

律法自体が悪いわけではなく、パウロが律法に縛られる生き方を自らに課してしまっていたところに問題があったと言えるでしょう。パウロにとって、律法を守ることはもはや恵みではなく、重苦しいノルマと化してしまっていたのです。

 

 

 

「あるがまま」に「よし」とされている世界との出会い

 

パウロがそのとき生きていたのは、いわば「条件付きの世界」です。本当はフラフラと倒れそうなところ、自分にムチ打ちながら、自己鍛錬の生き方に没頭していたのかもしれません。

そのような中、あるとき、パウロは復活のイエス・キリストと出会います。それがどのような経験であったのかははっきりとは分かりませんが、十字架にはりつけになったお姿のイエス・キリストに語りかけられるという、何か宗教的な経験をしたようです。このキリストとの出会いによって、パウロの目からはウロコのようなものが落ちました(使徒言行録918節)。そうして、世界がまったく新しく見えるようになりました。

 

それは、「あるがまま」の自分が受け入れられている世界、一つひとつの存在がそのままに「よし」とされている世界であったのではないか――と私は受け止めています。

律法を忠実に守るから、「よし」とされるのではない。懸命に自己を鍛錬し、有用な人間になるから、「よし」とされるのではない。いま、そのままの自分が、神さまに受け入れられ、「よし」とされている。その真理を、主イエスは十字架にはりつけになったお姿で、弱さの極みであるそのお姿で、パウロに語りかけてくださったのではないでしょうか。

私たちが立派な信仰をもてば、律法遵守というノルマを果たせば、神さまは私たちを愛してくださる、というのは誤解でありました。私たちの努力を超えて、無条件に私たちを受け入れ愛してくださっている、というのが神さまと私たちのまことの関係性であったのです。

 

いつも何かに後ろからせかされるような感覚であったパウロはこの時はじめて、心の底からの安心感、平安を覚えることができたのではないかと思います。たとえ完全ではなくても、様々な欠けや弱さがあっても。自分はここにいていい。生きていて、いい。

弱さは克服するものではなく、そのままに受け入れるもの。弱さの中にこそ、キリストの力は発揮される(コリントの信徒への手紙二129節)――。足をとめ、腰を落ち着け、心の重荷をすべて降ろし、神さまの平和の中ではじめて憩うことができたのではないでしょうか。パウロはイエス・キリストを通して、「無条件の(肯定の)世界」に出会ったのです。

こうして、パウロは律法に縛られた生き方から解放されてゆきました。

 

 

 

「いること」こそが尊い

 

先ほど、現在多くの人が、自分を「あるがままに」受け入れることができず――ゆるされず――、痛みや不安を抱えながら生きているということを述べました。

たとえ自分自身は、自分のことをそのままに受け入れることができなくても、神さまが私を「あるがままに」受け入れてくださっている。たとえ周囲が自分のことをそのままに受け入れてくれなくても、神さまが自分をそのものとして受け入れ、「よし」としてくださっている。いま私たちはその真理を思い起こしたいと思います。その喜びを思い起こしたいと思います。

この喜びに満たされるからこそ、私たちは再び立ち上がる力が与えられてゆくのではないでしょうか。より成長した在り方へと変わってゆこうとする勇気もまた、与えられてゆくのではないでしょうか。パウロは私たちに力を与えるこの神さまの力を「福音」と呼びました。

 

この福音の力が満ちあふれる世界において大切なことは、私たちがいまここに「いること」です。いま「生きて存在していること」です。「いること」こそが、この新しい世界においては最大に価値あることである、と私は信じています。

いま私たちが生きている社会は、「いる」だけでは駄目なんだ、何か社会的に有用な働き、貢献が出来ていないといけない、そういう考え方に覆われてしまっています。その中で、多くの人が辛さ、生きづらさを感じつつ、懸命に生活をしています。

このような中にあって、「あるがまま」の自分自身が神さまから「よし」とされていること、私たちがいまここに「いること」こそが尊いことなのだ、ということをご一緒に思い起こしたいと思います。

 

 

 

新しい生き方 ~自分を愛し、人を愛し、神さまを愛する生き方へ

 

クリスチャンで詩人の八木重吉という方が書いた詩にこのような言葉があります。《わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった/こうして 草にすわれば それがわかる》。

 ここでの《草》とは、様々な意味が含まれているものとして受け止めることができるでしょう。本日のメッセージと結びつけるなら、私たちはイエス・キリストの福音という土台に腰を下ろして初めて、私たちは自らの過ちを受け入れることができるのだと受け止めることもできます。あるがままに自分が受け入れられる経験を通して、私たちは率直なる過ちの自覚へも導かれてゆくのではないでしょうか。

神さまの愛に抱かれ、私たちは初めて思い至ります。自らの犯した過ちや罪にも思い至ります。いかに自分自身を傷つけ、他者を傷つけてきたかに気づきます。「わたしのまちがいだった/わたしの まちがいだった」……と。

そうして私たちは自分を大切にし、他者を大切にし、神さまを大切にする生き方はどのようなものか、それを模索してゆく新しい一歩が与えられてゆきます。聖霊に導かれた、新しい生き方が与えられてゆくのです。

 

イエス・キリストの福音を土台とし、聖霊に導かれながら、自分を愛し、人を愛し、そして神さまを愛する生き方を祈り求めてゆきたいと願います。