2020年9月20日「魂の牧者」

2020920日 花巻教会 聖霊降臨節第17主日礼拝

聖書箇所:ペトロの手紙一21125

魂の牧者

  

 

牧師と神父の違いは……?

 

「牧師と神父はどう違うのですか?」と時折聞かれることがあります。特に普段はキリスト教になじみのない方にとっては両者がどう違うのか、分からないですよね。

 これは教派による呼び方の違いで、プロテスタントでは教職(聖書を教える立場にある人)を「牧師」と呼び、カトリック教会では「神父」と呼びます。ちなみに「神父」は敬称で、役職としての名称は「司祭」です。教職者を「司祭」と呼ぶのはカトリック教会だけではなく、正教会や聖公会も同様です。この花巻教会は教派としてはプロテスタントに属していますので、私は普段、「牧師」と呼ばれています。

 

 このように、牧師と司祭(神父)は教派による呼び方の違いであるわけですが、英語でもやはり両者は違う呼称となっています。牧師は英語で「pastor(パスター)」、司祭は英語で「priest(プリースト)」です。「pastor(パスター)」はラテン語の「羊飼い」に由来する言葉です。牧師とはつまり、羊飼い(牧者)を意味する名称であるのですね。対して、「priest(プリースト)」は聖職者と訳することのできる言葉で、「羊飼い」の意味合いはありません。

 

 

 

まことの羊飼いはイエス・キリスト

 

聖書には羊飼いのイメージが繰り返し出てきます。羊飼いは日本の住む私たちにはあまりなじみがないものですが、聖書の舞台であるパレスチナにおいて、羊飼いはとても身近な存在でした。先ほどお読みしました詩編23編も羊飼いが出てきましたね。《主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。…(詩編231節)

 

羊飼いには羊の群れを守る大切な役割があります。時に応じて羊たちに休息を与え、食物と水を与える。羊が迷い出ないように導く。また狼などの外敵からも羊たちを守らなければなりません。新約聖書では、イエス・キリストが「まことの羊飼い」であると語られています(ヨハネによる福音書1011節)。そして私たちはその羊飼いに養われる羊なのだ、と。

 

先ほど、牧師は「羊飼い」を意味する名称であると述べました。まことの羊飼いはイエス・キリストその方であり、牧師はその役割を主イエスから委ねられているのだということができるでしょう。まことの羊飼いはイエス・キリスト御自身であり、そのイエス・キリストに導かれることなくして牧師はその務めを果たしてゆくことはできません。神さまの前に、牧師もあくまで一匹の羊なのであり、常に助けが必要な存在であることを、私自身いつも忘れないようにしたいと思っています。

 

 

 

魂の牧者

 

さて、本日の聖書箇所にも羊飼いのイメージが出てきました。ペトロの手紙一225あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。《牧者》と訳されている言葉が「羊飼い」です。あなたがたは迷える羊のようにさまよっていたが、今は羊飼いなるイエス・キリストのもとへ戻ってきたのだと語られています。

注目したいのは《魂の牧者》という表現です。羊飼いなる主イエスは私たちの魂を養い、導いて下さる方であることが表されています。

 

本日のペトロの手紙一の著者が誰であるのかはっきりとは分かりませんが、伝統的には「ペトロの手紙」とある通り、弟子のペトロが記したものだとされてきました。ペトロは皆さんもよくご存じの通り、主イエスの12人の弟子の中のリーダー的存在であり、後にエルサレムの原始キリスト教会の中心的な指導者となった人物です。教会に集う人々を養い導く「羊飼い」の立場にあった人物です。

 

一方で、主イエスがお亡くなりになる直前、不正な裁判にかけられていたとき、主イエスのことを三度「知らない」と否認してしまったことも、皆さんがよくご存じの通りです。ペトロは主イエスの前で「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったにも関わらず、人々から問い詰められると「そんな人は知らない」と否定してしまいました。他の弟子たちと同様、主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。羊が羊飼いのもとからさまよい出ていってしまうように、ペトロも主イエスのもとから去って行ってしまいました。

先ほどお読みした、《あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです》との言葉。これはまさにペトロ本人にも当てはまる言葉であったのではないでしょうか。人々から尊敬を集める指導者となったペトロ自身、かつては主のもとから迷い出てしまった一匹の羊であったのです。

 

 

 

失敗談をあえて率直に

 

このペトロの過ちをはじめ、聖書は指導者たちの失敗や過ちのエピソードを率直に記しています。本人たちからすると、恥ずかしくて消し去りたい記憶であるはずだと、私たちには思えます。それに、そのような過去を暴露すると、教会の人々からの信用を失ってしまうのではないかとも思います。しかし、聖書は登場人物の失敗談を率直に記しています。

それは、失敗をして「終わり」なのではなく、たとえそのような過ちや失敗をしたとしても、神さまのもとに立ち返ることによって、私たちは「再びやり直す」ことができる、何度でも立ち上がってゆくことが出来る、そう確信していたからではないでしょうか。過ちを犯してしまった人が、神さまから力を得て再び立ち上がってゆく、その姿にこそ尊いものを見出していたのではないかと思います。

 

 

 

復活の主との出会い ~ゆるしの経験

 

では、ペトロはどのようにして再び立ち上がる力を与えられていったのでしょうか。そこには、復活したイエス・キリストとの出会いがありました。

 

福音書には、主イエスの死から三日目に、ペトロと弟子たちが復活した主イエスと出会う場面が記されています。戸に鍵をしめ、家の中に閉じこもっていたペトロたちの前に、主イエスは現れて下さいました(ヨハネによる福音書201923節)

その復活の主との出会いを通してペトロたちが知らされたこと、それは、主イエスを見捨てて逃げてしまった自分たちを、主イエスははじめから「ゆるしてくださっていた」ということでした。主イエスはすべてをゆるし、十字架におかかりになってくださった。それほどまでに、自分たちを愛して下さっていた。その真実と愛を知らされたペトロたちは再び立ち上がる力を与えられてゆきました。

 

 

 

《そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました》

 

皆さんはカトリック教会の会堂に入ったことはあるでしょうか。カトリック教会では礼拝堂にイエス・キリストの磔刑像が掲げられている場合があります。磔刑像とは、十字架におかかりになっているイエス・キリストの像のことです。教会によっては、かなりリアルに主イエスの姿を再現していることもあります。

 

この像において、イエス・キリストは両手を開き、十字架に磔にされています。多くの場合、イエス・キリストは腰に布を巻いているだけで、ほぼ裸に近い状態です。脇腹には大きな傷口があります。他にも、体中に痛々しい傷がつけられていることもあります。これらの傷は、他ならぬ私たち人間の罪悪、過ちによってつけられた傷であることが示されています。

 

けれども主イエスは両手を大きく開き、その傷を私たちにお見せになっています。私たちのすぐ目の前で、すべての傷を隠すことなくお見せになっているそのお姿は、主イエスが私たちの過ちをゆるしてくださっているということのしるしです。

そしてこの傷口から、神の愛が湧き出でています。すべてを「ゆるす」神の愛は私たち一人ひとりの存在を包み、私たちの魂を癒してくださることを聖書は語っています。

 

改めて、本日の聖書箇所の後半部をお読みいたします。2225節《「この方は、罪を犯したことがなく、/その口には偽りがなかった。」/ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。/そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。/あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです》。

 

 

 

十字架の主の呼び声 ~私たちは必ず再出発できる

 

 私たちは生きてゆく中で、さまざまな過ちを犯します。時には、自分では立ち直れないと思うくらい大きな失敗をしてしまうこともあるかもしれません。けれども、その私たちに、神さまは再び立ち上がる力を与えて下さいます。ゆるしと、生きる力を与えて下さっています。

十字架におかかりなった主イエスはご自分の傷口を示しながら、私たちに「生きよ」と叫んでおられます。どれほど失敗や過ちを犯そうとも、主の真実と愛に立ち返るとき、私たちは必ず再出発できることを伝えて下さっています。

 

 

まことの羊飼いなる主イエスはいま、私たちの目の前におられます。私たちを導き、私たちと共に歩むため、すぐ目の前で待ってくださっています。どうぞいま、共にこの主の後に従ってゆきたいと願います。