2020年9月27日「心の内にキリストを住まわせ」

2020927日 花巻教会 聖霊降臨節第18主日礼拝

聖書箇所:エフェソの信徒への手紙31421

心の内にキリストを住まわせ

 

 

新型コロナウイルス感染拡大から約半年

 

 新型コロナウイルスの感染拡大が国内外で生じてから、約半年が経ちました。マスクをする、三密を避ける、オンラインを導入するなどの新しい生活様式は、いまや私たちにとって日常的なものとなりました。非日常だったものが日常となり、少しずつではありますが、心の落ち着きを取り戻してきている方も多くいらっしゃることでしょう。

 

テレビや新聞でも、感染拡大状況よりも、これまで中止されていた様々な活動が再開されることがトピックスとして報じられることが多くなってきている印象があります。

 活動を少しずつ再開してゆけることは本当に有難いことである一方で、経済活動への影響は深刻さを増し続けています。新型コロナの影響による経営破綻は9月に入って再び増加してきているそうです。また、新型コロナウイルスの影響でこれまでに失職した人は国内だけで6万人を超えています。どうぞいま助けが必要な方々に支援が行きわたりますようにと願います。

 

健康への影響も依然として心配です。私たちの住む岩手ではこの数週間ほど、感染判明者は確認されていませんが、国内外で感染判明者は増え続けています。ここ最近また増加傾向にあるとの報告もあります。

新型コロナウイルスがもたらす影響はいまだ分からない部分も多く、たとえ重症化はせずに軽症であっても、何らかの後遺症が残ることなども懸念されています。皆さんもその点を心配されていらっしゃるのではないでしょうか。

今後も引き続き、それぞれができる範囲で、感染予防に努めてゆきたいと思います。どうぞ一人ひとりの健康と生活とが守られるよう祈るものです。

 

 

 

様々な大切な課題に向き合い続けること

 

また、新型コロナウイルス感染拡大から半年が経った現在、これまでのことを改めて振り返ってみることも大切であるかもしれません。この半年間、私たちが考えるべきこと、学ぶべきことも、様々にあったように思います。誹謗中傷や差別の問題、格差の問題、社会の分断の問題、環境問題など、私たちの社会がもつ様々な課題・問題が浮き彫りにされました。これまでの在り方から変わってゆかねばならないことを強く促され続けた半年間であったと思います。

 

私自身が特に強く思ったことは、私たち人間は神さまがお造りになった自然界の一部であることです。当たり前のことではありますが、このことに立ち還ることを強く促された思いがいたしました。

私たち人間は神が造られた自然の一部である。であるはずなのに、人が自然界を意のままにコントロールしようとし、搾取しようとし続けている現状があります。結果、異常気象をはじめとする様々な深刻な問題が引き起こされています。病原性のあるウイルスの感染拡大もこのことと関係しているでしょう。

 

私たちが勝手に侵害してはならない領域、それは言い換えますと、尊厳の領域です。牧師となってから、私は特に「人間の尊厳」ということについて重点的に考え続けてきました。その視点を大切にしつつ、さらに枠組みを広げて、「命の尊厳」について考えてゆかねばならないと思わされています。

 

時が経つにつれ、どうしても私たちは当初の切実な感覚を忘れていってしまうものです。たとえば、緊急事態宣言が出されていた4月から5月にかけてのことを思い起こしてみますと、まだほんの数か月前のことですが当時と現在とではずいぶんと感覚が異なっているのではないかと思います。時と共に切実な感覚が薄れて行ってしまうのは仕方がないことですが、この度私たちが突き付けられた様々な大切な課題に向き合い続けることは忘れないでいたいものです。

 

 

 

愛に根ざして

 

 さて、先ほどご一緒にエフェソの信徒への手紙31421節をお読みしました。エフェソの信徒への手紙は伝統的にパウロという人物が書いた手紙とされています(ただし実際の著者が誰であるかは分かっていません)。

 1617節を改めてお読みいたします。《どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、/信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように》

 

《愛に根ざし》という言葉が出てきました。本日はまず、この「愛に根ざして」という言葉に注目してみたいと思います。

 愛に根ざすこと。言い換えれば、愛を土台として生きてゆくということ。あたたかな気持ち、自分と他者を思い遣る気持ちを土台として生活してゆくことがここでは勧められています。

 

私たちは普段、どのようなものに根ざして過ごしているでしょうか。どのようなものを土台として生活しているでしょうか。慌ただしい生活の中、なかなか心に余裕がなく、むしろ愛とは対照的なものにつながってしまっていることが多いかもしれません。

それは不安や恐れであったり、または冷たい無関心であったりします。あるいは誰かへの怒りや、嫉妬心であったりするかもしれません。それらに根ざし、日々の生活の原動力としてしまっていることが多いように思います。

そのような否定的な感情にばかりつながってしまっているとき、私たち自身、とても辛い気持ちになります。心からは安心感が失われ、体も緊張してリラックスできなくなり、疲れやすくなります。次第に体調がすぐれなくなっていってしまうこともあるでしょう。自分自身のためにも、私たちは否定的な感情にではなく、肯定的な感情につながっていることは大切です。

 

しかし、そうは言っても、それはなかなかできることではありません。頭では分かっていても、自分の心と体が言うことを聞いてくれないことが多いものです。

またそして、私たちがいま生きている社会は、私たちを不安にさせる要素で満ちています。新型コロナウイルスをはじめ、私たちはなかなか先のことが見えない状況、不安定な状況の中にいます。不安や恐れを感じないでいる方が難しいことでありましょう。

日々、辛いニュースが絶えることがない中で、また自分自身も忙しさで余裕がない中で、愛に根ざしていること、あたたかな気持ちにつながっていることは、至難の業のようにも思えます。聖書に出てくるような信仰の篤い人々ならできるのかもしれないけれど、自分にはできない。とてもその力がない、そう思ってしまいます。

 

 

 

心の内にキリストを住まわせ ~「内住のキリスト」

 

 先ほどお読みした聖書箇所で、注目してみたいもう一つの言葉があります。《心の内にキリストを住まわせ》という言葉です。私たちの心の内にキリストが住んでくださることを伝える言葉です。本日のメッセージのタイトルにもしています。

1617節《どうか、御父が、…/信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように》

 

 あまり聞きなれない表現であるかと思いますが、「内住のキリスト」という言葉があります。「内住」というのは「内に住む」と書きます。私たちの内に住んでおられるキリストです。

 皆さんは普段、イエス・キリストはどこにいらっしゃるものとしてイメージしてらっしゃるでしょうか。ある人は、歴史の教科書の中にいる、とイメージしてらっしゃるでしょう。クリスチャンである人なら、イエス・キリストは復活して、天におられると捉えていらっしゃるでしょう。また、遠く離れたところではなく、いつも私たちのすぐ近くにおられるのだと受け止めておられる方もいらっしゃることと思います。そのいずれも、とても大切な視点です。聖書にはそのいずれにも該当する言葉が記されています。

 聖書はこれら視点に加え、さらに、「内住のキリスト」の視点があることを私たちに伝えています。私たちの存在の内に、復活されたキリストが住んでおられる、宿っておられるのだという視点です。

 

 自分の内に、キリストがいらっしゃるはずがない、と思ってしまう方もおられるかもしれません。また、そのようなことはまったく実感できない、という方もおられるでしょう。

 しかし、聖書が語るのは、私たち一人ひとりの内に、キリストがおられるのだ、ということです。そしてキリストはいつも私たちの心の内にいて、語りかけてくださっています。「わたしは、あなたを、愛しています」と。

 

 

 

キリストの愛に根ざす

 

先ほど、「愛に根ざす」ということがいかに私たちにとって難しいか、ということを述べました。もし私たちの内に否定的な想いしか蓄えられていないのだとしたら、確かに愛に根ざすことは難しいでしょう。けれども、私たちの内にキリストがおられるのだとしたら。愛に根ざすことは私たちにとって、不可能なことではなくなるのではないでしょうか。他ならぬ、私たちの内に、キリストが宿っているのだとしたら――。愛に根ざすとは、私たちの内に生きておられるキリストの愛に根ざすことです。

 

私たちの心の内の不安や恐れより、さらに深いところに、キリストはおられます。耳を澄ますと、自分の存在の内から、キリストの愛の言葉が聴こえてくるでしょう。「わたしは、あなたを愛しています」との声が。この声によって、私たちは自分を愛し、隣人を愛し、神さまを愛す生き方へと導かれてゆきます。

 

私たちの目の前には様々な課題や困難がありますが、キリストの愛に根ざして、これからも共に歩んでゆきたいと願います。