2021年3月7日「自分の十字架を背負って」

202137日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書161328

自分の十字架を背負って

  

 

東日本大震災から10

 

 今週の木曜日、私たちは東日本大震災から10年を迎えます。本日はこの礼拝に引き続き、奥羽教区主催の東日本大震災10年を覚えての礼拝も予定しています。ご都合の宜しい方はぜひご参加ください。

 

10年を迎えるにあたり、皆さんも改めて当時のことを思い起こしていらっしゃることと思います。震災が起きた当日、私はまだ岩手にはおりませんでした。そのとき私は東京にある神学校の学部4年生で、大学院生の卒業式に出席していました。卒業式の最中に生じた突然の揺れ。東京でも大変な揺れ方であったので、岩手に住んでおられた皆さんの体験した揺れと恐怖はどれほど強いものであったことかと思います。

 

東京にいた私は震度7の規模の揺れも津波被害も経験しませんでしたが、震災から2週間ほどが経った3月末、釜石市にボランティアに行きました。日本基督教団主催のボランティアで、神学生有志の皆さんや青年と皆さんと参加しました。そこで私はニュースの映像を通してではなく、津波による被害の様子を直接目にいたしました。

そのとき初めて、新生釜石教会の柳谷雄介先生ともお会いしました。数日間、津波で被災した新生釜石教会の1階部の泥を落とす作業を手伝ったり、近所の呉服屋さんの店内の片付けを手伝ったり、緊張の中で活動を続けました。私たちができたのはごくごく僅かなことでしたが、そのボランティアの経験はいまも私の心に深く刻まれています。

沿岸部にボランティアに行くにあたって、拠点となっていたのがこの花巻教会でした。私の前任の山元克之先生が私たち学生を出迎え、対応してくださいました。この礼拝堂で祈祷会をしてからボランティアに向かい、ボランティアから帰ってからは隣の食堂で祈祷会や聖書の学びをしました。聖書の学びでは皆で一緒にヨブ記を読んだことを覚えています。そのときはもちろん、その2年後にこの花巻教会に自分が赴任することになるとは思っていませんでした

 

 

 

復活の主が待っていてくださる

 

20134月に花巻教会に赴任してからは、教会の皆さんや県内の牧師や信徒の皆さんからお話を伺い、震災について教えていただきながら、私なりに少しずつ理解を深めてきました。

皆さんからお話を伺う中で、2011年に東京にいた自分と東北にいた皆さんとは感じていたことに相違があることも知らされました。

神学生であった当時、私は十字架のイエス・キリストのお姿に想いを馳せ、そしていま苦しみの中にある被災地の方々のことを思っていました。しかし、岩手地区の牧師の集まりにおいて、当時江刺教会の牧師であった邑原宗男先生が、震災直後に自分たちが想いを馳せていたのは「復活の主のお姿」であったことを教えて下さいました。

真っ暗闇の中、津波によって甚大なる被害を受けた沿岸部を車で走りながら、邑原先生の心の中にあったのは復活の主のお姿であったそうです。「ガリラヤへ先に行って待っている」(マルコによる福音書167節)と主が弟子たちに約束してくださったように、この暗闇の先に復活の主が待っていてくださる、それが希望となっていたと教えて下さいました。その言葉も私の心に私の心に刻まれ続けています。

 

東日本大震災から10年を迎えるこの受難節の時、十字架の主に心を向けつつ、またそして復活の朝の光を希望としつつ、共に歩んでゆきたいと願います。

 

 

 

原発事故から10

 

東日本大震災による津波災害は本当に甚大な被害をもたらしました。もう一つ、私たち日本に住む者が忘れてはならないのは、東日本大震災による原発事故の発生ですね。私たちはこの311日に、福島第一原発事故から10年を迎えます。

 

事故から10年が経とうとしていますが、いまも解決されていない問題が山積みです。第一原発の廃炉作業はまったく見通しが立たず、汚染水の処理をどうするかの解決法も見つかってはいません。放射線の健康への影響についてもいまだはっきりと分かっていないことが多分にあります。いまだ原子力緊急事態宣言は出されたままで、危機的な状況が存在し続けているにも関わらず、今後も巨大地震が生じることが予測されているにも関わらず、各地の原発が再稼働されてしまっている現状があります。私たちの社会において、原発事故自体がどんどんと忘れられて行ってしまっている現状があるように思います。

 

 

 

私自身の経験

 

先ほど、震災が起こった当時は東京にいたと申しました。20113月に原発事故が起こるまで、私は原発の問題性や危険性について、まったく考えたことがありませんでした。東京で生活し、東京電力の電気を消費していたにも関わらず、福島で稼働している原発について、その問題性について、考えたこともありませんでした。

 

無知であったこと、無関心であったことを恥じる思いはありましたが、自分が真に変わるきっかけとなったのは、20146月に実際に福島を訪ねたことでした。201469日~11日にかけて福島県の若松栄町教会を会場にして日本基督教団の部落解放全国者会議が行われ、妻と一緒に参加したのですが、そこで福島に生きる人々の声を聴く機会が与えられたのです。福島を訪問したのもそれが初めてのことでした。

 

原発事故により想像を絶する困難を強いられた方々のお話を伺いながら、私は自分の心が、奥深くから強く揺り動かされてゆくのを感じました。自分の無知や無関心を思い知らされたということもありましたが、それ以上の、何か根本的な変化が自らの内で起こり始めているのを感じました。実際に涙を流していたわけではありませんが、心の中ではもう一人の私がずっと涙を流し続けていたように思います。

 少し大げさな表現になってしまいますが、この福島での経験は、私にとってある種の「回心」の経験と呼べるようなものでした。それまではまだ開いていなかった大切な、もう一つの信仰の扉が開いたように感じたのです。以来、私の中で聖書の読み方自体が変わってゆきました。

福島の訪問を通して開いたその扉とは、私にとって、「生前のイエス」への信仰(信頼)です。「一人の人間として、ナザレのイエスがいかに生きてゆかれたか」――その言葉と振る舞いを追い求めてゆく扉が開かれてゆきました。

 

 

 

一人ひとりの生命と尊厳が守られるように

 

十字架におかかりになり、私たちの罪を贖って下さったイエス・キリストへの信仰、3日目に死より復活したイエス・キリストへの信仰を、私たち教会はこの2000年間、大切にし続けてきました。また、天に上げられたキリスト、終わりの日に再びこの世界に来られるキリストへの信仰を大切にし続けてきました。と同時に、聖書が伝える主のお姿はそれらの側面にとどまるものではありません。聖書は「一人の人間として生きた」イエスのお姿を伝えています。苦しんでいる人、痛みを覚えている人に懸命に寄り添い、連帯して生きてゆかれた「生前のイエス」のお姿を伝えています。生前のイエスはまず第一に、私たちに「一人ひとりの生命と尊厳が守られる」ことの大切さを教えて下さっているのだと私は受け止めています。

 

いま振り返りますと、それ以前からすでに、変化を求める自分はいたように思います。心の中にウズウズと、うずくものがありました。けれども、「どのような方向に向けて変わってゆくべきか」が分かっていませんでした。福島に行くことを決めたとき、私はすでに「変わる」決意ができていたように思います。その日、私は自分が「変わる」決意を携えて、会場へと向かいました。そして実際に予感していた通り、私の中で大きな変化が生じてゆきました。そしてその大切なきっかけとなったのが、原発事故の困難の中を生きる人々との出会いでした。

 

以来、原発事故と放射能問題をはじめ、私たちの社会が抱える様々な問題・課題とコミットしてゆくことへの願いが私の中で強まってゆきました。いま苦しみの中にいる方々と連帯し、自分にできること、なすべきことをしてゆきたいと思うようになりました。

 いまも原発と放射能問題を巡って、危機的な状況が私たちを取り巻いています。10年を区切りとするのではなく、10年の区切りを過ぎたその後も、自分なりにできること・なすべきことをしてゆきたいと思っています。原発事故の悲劇が決して、二度と繰り返されることのないように、神の目に大切な一人ひとりの生命と尊厳が守られますように、これからも皆さんとご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

自分の十字架を背負って

 

私たちはいま、教会の暦で受難節の中を歩んでいます。受難節はイエス・キリストのご受難と十字架を心に留めて過ごす時期です。

先ほどマタイによる福音書161328節をご一緒にお読みしました。その中で、主イエスご自身の受難を予告された後、弟子たちに対して次のようにおっしゃいました。《わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい24節)

 

《自分の十字架》については、様々な解釈ができることでしょう。重要であると思うのは、他の誰でもない、「この私」のあり方が問われている点です。《自分の十字架》とは、私たち一人ひとりに与えられている重荷であると同時に、何らかの大切な役割――使命であると受け止めることができるでしょう。

この使命は、私たちの心の深くに宿された「まことの願い」から生じています。私たちは自分の心の奥に宿されたまことの願い、自身の本当の気持ちを知ることを通して、自分に与えられた使命を理解してゆくでしょう。「自分はどうしたいか」「何を心から願っているのか」を問い続けることを通して、私たちは自分がなすべき使命についてより深く理解してゆくのだと思います。

《自分の十字架》を担うことができるのは、自分自身だけです。誰も、何ものも、この十字架を私たちから取り上げることはできません。

 

もしかしたら、その《自分の十字架》を担おうとする日々の中で、様々な困難に出会うことがあるかもしれません。自分の言動が周囲から理解されなかったり、思わぬ誤解が生じてしまったり、対立関係が生じたりすることもあるかもしれません。しかしその労苦もまた、私自身のものです。他の誰も、私たちから取り上げることはできません。

 

 そして、それら労苦や痛みの中にあっても、それでもなお、私たちの心の奥底にまことの願いは燃え続けていることを私たちは知っています。このまことの願いは、最も深きところではすべての、一人ひとりの願いとつながっています。イエス・キリストの願い、神さまの愛とつながっているのだと私は信じています。

 

 

 私たちのすぐ前を歩まれる主イエスのお姿を見つめつつ、《自分の十字架》を負いながら、共に一歩一歩、歩んでゆきたいと願います。