2021年6月6日「神は私たちのすぐ近くに」

202166日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:使徒言行録172234

神は私たちのすぐ近くに

 

 

聖霊なる主 ~神の息

 

6月に入りました。金曜日の大雨から一転、昨日から今朝にかけて快晴となり初夏のような陽気が続いています。

私たちは現在、教会の暦で聖霊降臨節の中を歩んでいます。聖霊降臨節は、聖霊なる主のお働きを心に留め、その導きを祈り求めつつ歩む時期です。本日は聖霊降臨節第3主日礼拝をご一緒におささげしています。

 

 聖書において、聖霊は様々なイメージで表されています。たとえば、聖書において聖霊は「息」のイメージで表されることがあります。創世記には、土から創られたアダムが、神さまから息を吹き入れられて生命を与えられる場面が出てきますね。《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記27節)。肺で息をすることで生命が維持されているように、私たちの存在は神さまから命の息が吹き入れられることによって生かされている、そのように聖書は語ります。

 

 先ほど、ご一緒に讃美歌348番『神の息よ』という曲を歌いました。まさに、聖霊なる主を「神の息」として表現し、賛美している曲です。1節《神の息よ、われに吹きて あらたなるものに つくりかえよ》、5節《神の息よ、われを生かし つねに主のものと ならせたまえ》。

 私たちの存在は神さまの命の息によって生かされ、支えられていることを改めて心に留めたいと思います。

 

 また、聖霊は「鳩」のイメージで表されることがあります。福音書には、イエス・キリストが洗礼を受けられたとき、聖霊が鳩のように降ってきた、という記述があります(マタイによる福音書316節)。講壇にかけられた布にも鳩が描かれていますね。

 

他にも、聖霊は「炎」のイメージで表されることもあります。ペンテコステの日、聖霊が弟子たちの上に下った際、《炎のような舌》が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上に留まった、という描写がありました(使徒言行録23節)。このことから、伝統的に聖霊降臨節の典礼色は赤色になっています。講壇にかけられた布の色も赤色になっていますね。

 

 このように、聖書において聖霊はさまざまなイメージで表されています。また、そのお働きも多様です。聖霊なる主は、私たちの目には見えませんが、私たちに働きかけ、いつも私たちと共にいて下さっているお方です。

 

 

 

アテネにて

 

 さて、先ほど新約聖書の使徒言行録17章をお読みしました。使徒言行録はペンテコステの出来事以降の弟子たちの言行(言葉と振る舞い)を記した書です。主人公は弟子たちですが、弟子たちを力づけ、導いてくださるのは聖霊です。その意味で、使徒言行録の真の主人公は、弟子たちと共にいて働いてくださる聖霊なる主であると言えるでしょう。

 

 使徒言行録を読んでいて印象に残るのは、活き活きとイエス・キリストの福音を人々に伝えて歩く弟子たちの姿です。たとえ自分たちのことを快く思っていない人々が相手であっても、臆することなくイエス・キリストとその救いの御業について語ります。本日の聖書箇所においても、使徒パウロがギリシアのアテネの人々を前に、イエス・キリストの復活を力強く証ししていましたね。

 

それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです(使徒言行録1731節)

 それまで関心をもってパウロの話に耳を傾けていたアテネの人々も、死者の復活の話になると心を閉ざしてしまいました。《死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った(同1732節)

 

 そのように否定的な反応があったとしても、パウロは自分が心から信じている事柄について語ることを止めませんでした。決して失望をすることはなく、福音を宣べ伝え続けました。またそのような中で、数は多くはなくても、パウロの後に続き、信仰に入った人も現れてゆきました。大切な同労者が与えられていったのです。《しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた(同1734節)

 

 

 

聖霊の働き ~自由にものが言えるように

 

 使徒言行録が語るのは、弟子たちがそのように福音を力強く証しする力が与えられたのは、聖霊のお働きによるものだということです。聖霊に満たされた弟子たちは、確信をもって神の言葉を語るよう導かれてゆきます。

 

 以前の弟子たちは、必ずしもそうではありませんでした。主イエスが宗教的・政治的な権力者たちによって逮捕されてしまった際、弟子のほとんどは主イエスを見捨てて逃げてしまいました。弟子のリーダー格のペトロは主イエスのことを「知らない」と否定してしまいました。主イエスが十字架刑によって殺されてしまった直後、弟子たちは恐れに囚われ、ジッと家の中に閉じこもっていました。

 その弟子たちが、復活のキリストと出会い、聖霊の力に満たされることにより、変えられていったのです。これらのことから、聖霊のお働きの一つに、私たちの内から怖れを取り除き、自由にものが言えるようにしてくださることがあると言えるのではないでしょうか。

 

使徒言行録の4章には、聖霊に満たされた弟子たちが《大胆に神の言葉を》語り始めたという一文が記されています。《祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした431節)

 

《大胆に》と訳されている言葉は、「率直に」とも訳すことができる言葉です。この語はもともとは、《あらゆることを言える自由》を表している語であるそうです(ギリシア語新約聖書釈義辞典Ⅲ、教文館、1995年)。自分の心の中にある事柄を何でも言える自由。とりわけ、自分が確信していること、心から大切に思っている事柄をはっきりと言葉にして伝えることができる自由。この自由は、私たちにとってとても大切なものですね。

 

 

 

空気の支配 ~自由にものが言えないように

 

 一方で、私たちは日々の生活のさまざまなところで、自由にものが言えない状況に直面することがあります。自分が思っていることを自由に口にできない状況は私たちにとってとても苦しいものですよね。

 

日本語特有の表現として、「場の空気」という言葉があります。その場の空気というものは、目には見えません。目には見えないけれども、私たちは知らず知らず、その空気に大きな影響を受けています。私たちが生活している日本は、特にこの「空気の支配」が顕著だという指摘もあります(山本七平『「空気」の研究』、文春文庫、1983年)

 

たとえば、「あの場の空気では口に出せなかった」という経験を誰しもがしたことがあると思います。話し合われていることに本当は疑問を感じていたのだけれども、その場の空気を壊すことが怖くて、発言することができなかった……など。この空気の支配は「同調圧力」という言葉でも言い換えることができるでしょう。

私たちの社会にすっかり浸透している言葉として、「空気を読む」という言葉もありますね。私たちの社会では、空気を読むことが重視され、反対に、空気を読まないことを否定的に捉える傾向があります。

 

もちろん、空気を読むことは良いように働く面もあります。空気を読んだ言動は私たちのコミュニケーションを円滑にします。一方で、空気を読みすぎることの弊害もあるのではないでしょうか。そこにいる人が場の空気に支配され、主体性が奪われてしまう弊害です。自分の想いや考えを自由に、率直に口に出来ない。言うべきことを口にすることができないという事態が生じてしまうのです。

 

 そのようにものが言えなくなることが、状況を悪化させていってしまうこともあります。本当はブレーキをかけて、ストップしなくてはいけないのに、空気の支配を受けて、その場にいる皆が「ストップ」と言えない。否定的な方向に向かって進んでいっている状況に対して、「NO」と言えない。異を唱えて、皆から一斉に非難されるかもしれないことが恐ろしい……。

 

しかし、取り返しがつかないところにまで状況が悪化してしまうことを防ぐためにも、私たちは時に場の空気を壊してでも、一部の人から白い目で見られても嗤(わら)われても、はっきりとものを言わねばならない瞬間があることでしょう。

 

 

 

《神の息よ、われに吹きて》 

 

 冒頭で、聖霊なる主は神さまの「息」で表されることがあると述べました。場の空気も、神の息も、どちらも目には見えないものですが、両者はまったく対照的な働きをしています。

場の空気は時に、私たちから主体性を奪うように働きます。一方、神さまの息である聖霊は、私たちが主体性を取り戻すよう働いて下さっているものです。私たちの内から怖れを取り除き、自由にものが言えるようにしてくださるのが聖霊なる主です。

 

私たちが大胆に神の言葉を語ることができるように、その力を与えてくださる聖霊なる主。私たちが自由に、率直に、言うべきことを口にする力を与えてくださる聖霊なる主。自分が本当に大切だと思っていることを言葉にすることができるよう、励ましてくださる聖霊なる主。

この聖霊なる神さまは目には見えませんが、いつも私たちの近くにいて、共に働いていてくださっています。そうして私たちの内を命の息吹で満たし、新たなる力を与えて下さっています。

 

《神の息よ、われに吹きて あらたなるものに つくりかえよ》――。

 

 聖霊なる主の助けと導きが必ずやあることを信じつつ、この聖霊降臨節の中をご一緒に歩んでゆきたいと思います。