2021年8月22日「見えないものに対する希望」

2021822日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:ローマの信徒への手紙81825

見えないものに対する希望

 

 

連日、新型コロナウイルスの全国の感染者数が過去最多を更新しています。特に東京では医療提供体制が限界を超えている深刻な状況があります。ウイルスが感染力のより強い変異株(デルタ株)に取って代わってしまっていることもあり、もはや国や県も感染拡大を防止する打つ手を見出すことができていない状況です。

いま病院や自宅で療養中の方々の上に主よりの癒しがありますよう、医療に従事している方々の上に主の支えがありましよう、一人ひとりの健康と生活とが守られますよう切に願うものです。

 

岩手県でも現在、独自の緊急事態宣言が出されています。引き続き、ご一緒に感染予防に努めてゆきたいと思います。これからは私たちの身近なところで感染する方々がさらに増えてゆくことでしょう。私たち自身、いつ感染するか分からない状況にあります。できる限り感染防止に努めると共に、感染した方々のために祈る姿勢を持ち続けてゆきたいと思います。決して、感染した本人や関係者の方々が責められるようなことがあってはなりません。感染した方には非はありません。いまこそ互いに支え合い、祈り合う姿勢を思い起こし、大切にしてゆきたいと思います。

 

 

『星の王子さま』より ~《いちばんたいせつなことは、目に見えない》

 

サン=テグジュペリが書いた『星の王子さま』という作品があります。世界中で愛されている物語で、私も大好きな一冊です。『星の王子さま』は、サハラ砂漠に不時着した飛行機乗りの「僕」と、そこで出会った一人の男の子(王子さま)の物語です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『星の王子さま』の中で、よく知られた言葉として、《いちばんたいせつなことは、目に見えない》という言葉があります。 主人公の王子さまに向かって、親友のキツネが言った言葉です。

 

《キツネが言った。「じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」

「いちばんたいせつなことは、目に見えない」忘れないでいるために、王子さまはくり返した》(サン=テグジュペリ『星の王子さま』、河野万里子訳、新潮文庫、2006年、108頁)

 

 物語の中では、そのことの具体的な例として、砂漠の美しさが語られます。

物語の終盤、「僕」と王子さまは広大な砂漠の中を、井戸を求めて歩き続けます。何時間も歩き続けた後、月に照らされた砂漠を見ながら、王子さまはぽつりと「砂漠って、美しいね」と語ります。

《「砂漠って、美しいね」王子さまが、ぽつりと言いたした……

そしてそれは、ほんとうだった。僕はずっと、砂漠が好きだった。なだらかな砂の丘にすわれば、あたり一面、なにも見えない。なにも聞こえない。それでもその静寂のなかで、なにかがひっそり光っている……

「砂漠が美しいのは」王子さまが言った。「どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね……」》(同、116頁)

 

  「僕」と王子さまは、砂漠が美しいのは、そのどこかに目には見えない井戸を一つ隠しているからであることに気づきます。目には見えない貴いものを内に秘めているからこそ、砂漠は美しい。砂漠の美しさは、目に見える美しさではなくて、目には見えないものから来る美しさであったのです。

《「そうだね」僕は王子さまに言った。「家や、星や、砂漠を美しくしているものは、目には見えないね!」

「うれしい」王子さまが言った。「きみが、ぼくのキツネと同じ考えで」》(同、116-117頁)

 

 私たちは普段の生活の中で、つい目に見えるものばかりに意識が向かってしまっていることが多いものです。目立つもの、分かりやすいもの、または一見とても華やかできらびやかなものに。そうしてそれらを追い求めてしまいがちです。

 そのような中にあって、『星の王子さま』の言葉は私たちに大切なことを思い出させてくれます。《いちばんたいせつなことは、目には見えない》――。目には見えないけれども、かけがえなく貴いものが、実は私たちの人生を支えてくれているということ。この世界の美しさは、目には見えないものから来る美しさであることを、私たちはハッと思い起こします。そうして胸の内に懐かしいような、いとおしいような気持がよみがえってきます。

 

 

 

《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます》

 

 目には見えない大切なものとは何でしょうか。その答えは一つだけではなく、お一人お一人にとってふさわしい答えがあることでしょう。

『星の王子さま』では、相手をかけがえのない存在として大切に想う心――すなわち、人を愛する心が、目には見えない大切なものとして語られています。王子さまの胸の内には一輪のバラに対する愛が宿されており、その愛が王子さまの存在を美しく輝かせていました。

 

聖書の中に次の言葉があります。《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(コリントの信徒への手紙二418節)

 いま私たちの目に見えているものは、時と共に過ぎ去ってしまうものです。華やかできらびやかなものも、いつかは過ぎ去っていってしまうことでしょう。目に見えるものはいつかは過ぎ去ってしまいますが、しかし、過ぎ去らないものもある。それは、むしろ私たちの目には見えないもの。見えないものは過ぎ去ることなく、永遠に存続するのだと語られています。だから私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぐのだ、と。

 

 

 

いつまでも残るもの

 

 目には見えない、大切なもの。目には見えない、永遠に存続するものとは何でしょうか。その答えも、きっと一人ひとりにふさわしい答えがあることでしょう。手紙を記したパウロは、それは、「信仰と希望と愛」であると語っています。

それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である(コリントの信徒への手紙一1313節)

信仰と希望と愛。この三つは、いずれも目には見えないものですね。目には見えないこの信仰と希望と愛は、いつまでも残る。そしてその中でも、最も大いなるものは愛であるとパウロは語っています。

 

 

 

愛と希望

 

 なぜ愛が最も大いなるものであるのでしょうか。それは、その愛が、神さまから生じているものであるからです。愛は神さまから生じ、私たち一人ひとりに分け与えられているものであることを聖書は語っています。私たちの内には、人を愛し神さまを愛する心が確かに与えられているのです。そしてこの目には見えない愛が、私たちの存在を美しく輝かせています。

 

 愛と同様に、希望もまた目には見えないものです。愛と共に、私たちが生きてゆく上でなくてはならないものが、希望です。そして聖書は、希望もまた神さまから与えられるものであることを語っています。

 

 旧約聖書の預言書のイザヤ書に、次の言葉があります。《主はシオンを慰め/そのすべての廃墟を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。/そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く(イザヤ書513節)

とても美しく、慰めに満ちた一節ですね。と同時に、これら言葉をよく読んでみると、いまイザヤの目の前にあるのは、いまだ廃墟であり、荒れ地であるということが分かります。いま目の前にあるのは、廃墟のような、荒れ地のような、悲しい現実。そのような辛い現実のただ中で、しかし、イザヤは荒れ地が美しい主の園となるのを見たのです。そしてそこに喜びと楽しみ、感謝の歌声が響くのを確かに聴きました。傷付いた世界が回復するビジョンを、イザヤは神さまから受け取ることができたのです。

 

その希望のビジョンが見えたのは、もしかしたら一瞬のことであったのかもしれません。けれども、その一瞬垣間見た希望のビジョンが、その後のイザヤの人生を支え続けるものとなっていったのかもしれない、と想像します。その一瞬が、永遠につながる神さまからの約束の言葉となり、その一瞬が、イザヤの中で確かな希望となっていったのです。

そして、イザヤにこの希望のビジョンを受け取らせることを可能にしたものが信仰でした。

 

 

 

信仰

 

先ほど、信仰と希望と愛が大切な三つのこととして挙げていると述べました。信仰とは、目には見えない愛と希望を、私たちの心の目にはっきりと見えるようにする力であるということができるでしょう。

 

聖書の中には、《信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです(ヘブライ人への手紙111節)との言葉があります。先ほどの《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます》という言葉にも通ずる言葉ですね。

信仰とは、目には見えない大切なものを見ようとすること、そしてその確かさを確認することであることが語られています。目には見えない大切なものに目を注ごうとするとき、私たちの内にはすでに信仰が力強く働き始めているのです。

 

 

 

共に目には見えないものを大切にしながら

 

私たちは生きてゆく中で、時に、目の前の現実が廃墟や荒れ野となってしまったように感じることがあります。時に、何の希望も持てない気持ちになってしまうことがあります。いま私たちの目の前には、新型ウイルスの脅威、環境破壊を原因とする異常気象や自然災害など、様々な困難があります。まさにこの世界の被造物がすべて、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっているかのような状況です(ローマの信徒への手紙822節)

このような困難の中にあって、しかし、神さまは私たちにいつも愛と希望の言葉を語り続けてくださっていることをご一緒に思い起こしたいと思います。御子イエス・キリストを通して語り続けて下さっていることを、思い起こしたいと思います。

 

私たちが心の目でこの世界を見つめるとき、廃墟の中にエデンの園を、砂漠の中に命の泉を見出すことができます。そこには喜びがあり、楽しみがあり、感謝の歌声が響いています。どれだけ目の前に悲惨な現実があってもなお、神さまからいづる愛と希望は失われることはないのだと私たちは信じています。

本日の聖書箇所であるローマの信徒への手紙8章に次の言葉がありました。《わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。/わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです82425節)

 

 

これから、T・Nさんの洗礼式を執り行います。神さまがNさんのこれまでの人生を支え、今日この日まで導いて下さったことを心より感謝いたします。どうぞNさんのこれからの歩みの上に神さまの祝福がありますよう、私たちがこれからも共に目には見えないものを大切にしながら、愛と希望をもって歩んでゆくことができますように願っています。