2022年1月2日「エルサレムへの旅」

202212日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ゼカリヤ書818節、テサロニケの信徒への手紙一218節、ルカによる福音書24152

エルサレムへの旅

 

 

新しい年のはじめに

 

 新しい年のはじめに、皆さんとご一緒に神さまに礼拝をささげることができますことを感謝いたします。今年一年、皆さんの上に神さまの恵みとお守りがありますようお祈りいたします。

 

昨年2021年も、新型コロナウイルスの感染拡大により、私たちは大きな困難に直面しました。この数か月は、国内では有難いことに大幅に感染者数が減少しています。どうぞこのまま状況が沈静化へと向かいますようと願うものです。また、いま療養中の方々の上に主の癒しがありますように、コロナ対策の影響を受け困窮している方々に必要な支援が行き渡りますように、引き続きご一緒に祈りをあわせてゆきたいと思います。

 

この年末年始、皆さんも昨年のことを振り返りつつ過ごしていらっしゃったことと思います。私たち花巻教会の昨年一年の歩みにも、喜びもあれば、悲しみもありました。

2021年、私たちは2名の教会員の方を神さまのもとにお送りしました。7月にH・Tさんが天に召され、11月にF・Nさんが天に召されました。Tさん、Nさんのご遺族の皆さまの上に、主の慰めとお支えがありますようお祈りしています。

愛する方々を天にお送りした悲しみの中で、私たちは昨年、3名の方が受洗するという喜びも与えられました。7月にO・Kさんの洗礼式を執り行い、8月にT・Nさんの洗礼式を執り行い、9月にS・Hさんの洗礼式を執り行いました。Oさん、Tさん、Sさんの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りしています。

 

 

 

12歳の少年イエス

 

先ほどご一緒にルカによる福音書24152節をお読みしました。イエス・キリストが12歳のときのエピソードです。12歳というと、小学校6年生または中学1年生くらいの年齢です。新約聖書には主イエスの子ども時代のエピソードはここにしか記されていません。ある意味、貴重な(?)場面ですね。

 

ユダヤ教では伝統的に、13歳になると成人男性の仲間入りをするとされてきました。13歳となった少年は「バル・ミツヴァ(アラム語で『掟の子』の意味)」として、大人同等の宗教的な責任を負うようになります。日本では20歳が成人であるので(もうすぐ、全国各地で成人式が行われますね)、そのことを思うと、かなり早い年齢です。本日の聖書箇所では、主イエスは12歳。まだ大人の仲間入りはしておらず、その意味で、子どもです。と同時に、もうすぐ大人の仲間入りをすることも強く意識し、「バル・ミツヴァ(掟の子)」となるための準備をしている時期でもあります。まだ大人ではない、でももう幼い子どもでもない。ユダヤ教において12歳というのは、ちょうど子どもから大人へと変わってゆく、その大切な過渡期の年齢でもあったのかもしれません。

 

 

 

エルサレムへの旅

 

ユダヤ教では毎年の過ぎ越し祭の時期に、エルサレムへ巡礼に行く慣習がありました。過越祭というのはユダヤ教の重要なお祭りの一つです。主イエスも両親のマリアとヨセフに連れられて、毎年エルサレムへ行っていたようです。12歳となったその年も、少年イエスは両親や親戚と共にエルサレムへ巡礼の旅に出かけていました。ルカによる福音書24142節《さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。/イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った》。

 

祭りが終わったその帰り道のことでした。母マリアと父ヨセフは、わが子の姿が見当たらないことに気付きました。巡礼には多くの人が訪れており、帰り道も大勢の人が一緒だったので、てっきり子どももその大勢の中に一緒にいるものだと思っていたようです。しかし、一緒に来ていた親類や知人の間を捜しまわっても、主イエスの姿は見当たりませんでした。実は、12歳の少年イエスは両親たちと一緒には帰らず、まだエルサレムにとどまっていたのです。マリアとヨセフはわが子の姿を捜しながら、またエルサレムへと引き返しました4345節)

 

それから3日の後、両親はようやくエルサレムの神殿の境内にて我が子を見つけました。主イエスは神殿の境内で、学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり、質問したりしておられたのです。話を聞いている人はみんな、少年の賢い受け答えに驚いていました4647節)

エルサレム神殿はエルサレム市街の中心に建てられた、ユダヤ教の礼拝の中心地であり、最も聖なる場所であるとされていた場所です。各地から巡礼に来た人々が目指すのも、このエルサレム神殿でした。

 

母マリアは神殿でのわが子の姿に驚きつつ、言いました。《なぜこんなことをしてくれたのです。ご覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです48節)。すると、主イエスはおっしゃいました。《どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか49節)

両親には、主イエスの言葉の意味が分かりませんでした50節)。確かに、不思議な言葉です。《自分の父の家》とは、自分たちが暮らすナザレの家を指すはずなのに、主イエスはこのエルサレム神殿を《自分の父の家》と呼んでいるのですから。

この不思議な言葉には、自分のまことの父は主なる神さまなのだとの意味が込められています。だから、その父の家である神殿にこうして自分がいるのは当たり前でしょう、と主イエスはおっしゃったのです。主イエスは「神の子」であるとのルカ福音書の大切なメッセージをここに読み取ることができます。

 

母マリアには主イエスの言葉の意味がそのときは分かりませんでしたが、この度の出来事をすべて大切に心に収めました。主イエスはその後、知恵がさらに増し、背丈も伸び、神さまと人々に愛された5152節)、と福音書は記します。

 

 

 

エルサレム神殿 ~当時の社会の構造の象徴するものとして

 

 さて、ご一緒に、主イエスが12歳のときのエピソードをお読みしました。舞台となったエルサレム神殿について、もう少し説明をしておきたいと思います。

スクリーンに映しているのは、主イエスが生きておられた当時のエルサレム神殿を復元した模型です。この壮麗な神殿は、残念ながら現在は存在していません。紀元70年、ローマ軍によって破壊されたからです。神殿の外壁だけは現存しており、その西側の部分は「嘆きの壁」と呼ばれ、ユダヤ教徒の方々の祈りの場となっています。

 

 エルサレム神殿の門をくぐると、まず「異邦人の庭」と呼ばれる広い外庭がありました。「異邦人」は聖書特有の言葉で、ユダヤ人以外の人々を指す言葉です。「異邦人の庭」と呼ばれるこのスペースはユダヤ人も外国の人々も入ることができました。巡礼者を対象とした犠牲の献げ物の売り買いがなされており、大勢の人々で賑わっていたようです。

この「異邦人の庭」から2.4メートルほど高くなったところに、「女性の庭」と呼ばれる回廊がありました。このスペースは外国の人々は入ることはゆるされず、ユダヤ教徒の男性と女性だけが入ることができました。当時の人々からするとその区別は「当たり前」のものとして受け止められていたのかもしれませんが、現代の私たちの視点からすると差別に当たるのはもちろんのことです。

「女性の庭」の内側には「男性の庭」と呼ばれるスペースがありました。そこにはユダヤ人の男性しか入ることができず、女性は入ることはできませんでした。また、病いや障がいをもっている人も入ることはできなかったそうです。

「男性の庭」の内側には祭司たちしか入ることができない「祭司の庭」があり、さらにその奥には神殿の「至聖所」がありました。至聖所は、神が現臨すると考えられていた場所です。至聖所には大祭司と呼ばれる宗教上のトップの人物しか入ることがゆるされていませんでした。

 

 簡単にではありますが、当時のエルサレム神殿の構造をご紹介しました。12歳のイエスが神殿のどのあたりで学者たちと語り合っていたのかは、はっきりとは分かりません。「女性の庭」と呼ばれる回廊であったのかもしれません。いずれにせよ、この神殿の構造は、主イエスが生きておられた当時の社会の構造そのものを象徴的に表わしていると受け止めることができます。社会の中に、幾重もの「壁」があるという構造です。民族や宗教、性別、心身の状態等によって、人を分け隔ててしまっている構造がここには見受けられます。

もちろん、これらはあくまで今から2000年前のイスラエル社会の状況であり、現在のユダヤ教内においては多くの方々が差別の撤廃を求めて活動しておられることも心に留めておきたいと思います。

 

 

 

新しい神殿 ~イエス・キリストの体

 

 ルカによる福音書はその後、主イエスが大人になり、その人生の最期に再びエルサレムを訪問する場面を描いています。いわゆる受難物語です。その中で、神殿に詣でた主イエスが、神殿の造りや飾りに見とれる人々に対して、次のように述べる場面があります。《あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る2156節)。この立派な神殿が崩壊する日が来ることを予告されたのです。12歳の少年イエスはこの神殿を《自分の父の家》と呼びました。大切な《家》であるはずの神殿ですが、いまや、この神殿に替わる、「新しい神殿」が建てられる日が近いことを暗示しておられるのですね。

 

では、「新しい神殿」とは何でしょうか。キリスト教では伝統的に、新しい神殿とは、復活されたイエス・キリストご自身であると受け止めて来ました。不思議な捉え方ですが、エルサレム神殿という建物ではなく、よみがえられたイエス・キリストのお体こそが新しい神殿なのだと受け止めてきたのですね。

 

 

 

あらゆる「壁」が打ち壊され

 

この主イエスの体なる「新しい神殿」において最も重要な点は、あらゆる「壁」が打ち壊されているところです。ユダヤ人と異邦人とを隔てていた壁。女性と男性とを隔てていた壁。いわゆる「健常者」と「障がい者」を隔てていた壁。そして、人間と神を隔てていた壁……。イエス・キリストの十字架と復活を通して、私たちを隔てていたあらゆる「壁」が取り除かれたというのが、新約聖書が私たちに伝える大切なメッセージの一つです。すべての壁は打ち壊され、いまや、すべての人が神さまのもとに招かれているのだ、と。

 

 教会の暦で、16日に私たちは公現日を迎えます。イエス・キリストが人々の前に「公に現れた」ことを記念する日です。特に心に留めたいのは、この公現日が、主イエスの存在が東方の学者たち(マタイによる福音書2112節)をはじめとする異邦人に対して「公に現わされた」日として受け止められてきたところです。主イエスにおいて、ユダヤ人と異邦人との「壁」は取り除かれているとの大切なメッセージをここにも読み取ることができます。

 

 私たちの社会にはいまだ、さまざまな「壁」があります。人と人を分け隔てる幾重もの壁があります。その壁によって、いまもたくさんの人が傷つき、悲しみ、苦しんでいます。また私たち自身の内にも、他者と自分とを隔てる目には見えない壁があるかもしれません。

どうぞ私たちがいまイエス・キリストの福音に立ち帰り、これらの壁を少しずつでも取り去り、一人ひとりがまことに尊重される社会を築いてゆくことができるようにと願います。

 

 

どうぞこの新しい一年も、キリストの愛と平和が皆さんと共にありますようお祈りいたします。