2022年6月26日「イエス・キリストの名によって」

2022626日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:詩編3217節、マルコによる福音書5120節、使徒言行録161624

イエス・キリストの名によって

 

 

 

沖縄慰霊の日

 

先週の623日は沖縄慰霊の日でした。いまから77年前、沖縄戦で亡くなった方々を追悼する日、そして平和への祈りをあわせる日です。皆さんもご存じの通り、沖縄戦において県の人口の4人に1人にあたる12万人もの方々が亡くなったと言われています。日本とアメリカの軍人を合わせると、亡くなった方の数はおよそ20万人に上ります。

今年2022年は沖縄が日本に復帰して50年の年でもあります。しかし50年が経過した現在も、私たちの住む日本では米軍専用施設面積の約70.3パーセントが沖縄に集中している現実があります。

 沖縄全戦没者追悼式の平和宣言において、玉城デ二ー知事は、過重な基地負担を強いられ続ける沖縄の現状を訴えると共に、現在行われているウクライナでの戦争にも言及し、いまこそ共に平和を追求してゆくことが求められていることを語っておられました。

 

《ウクライナではロシアの侵略により、無辜(むこ)の市民の命が奪われ続けています。美しい街並みや自然が次々と破壊され、平穏な日常が奪われ、恐怖と隣り合わせで生きることを余儀なくされている状況は、77年前の沖縄における住民を巻き込んだ地上戦の記憶を呼び起こすものであり、 筆舌に尽くし難い衝撃を受けております。/沖縄県としては、人道支援の立場から、ウクライナからの避難民受け入れ等の支援を行っており、一日も早い平和の回復を強く望みます》(参照:琉球新報デジタル、【全文】平和宣言(玉城デニー沖縄県知事) 2022年沖縄全戦没者追悼式、2022623日)

 

 

 

命どぅ宝(命こそ宝)

 

平和宣言の中で、最後に玉城知事が強調していらっしゃった言葉は、《命(ぬち)どぅ宝》です。沖縄で「命こそ宝」という意味の言葉です。《くぬ命宝(ぬちだから)やる格言(いくとぅば)や、何時(いつぃ)ぬ時代(でー)までぃん 継(つぃ)なじいちゃびらな(命こそ宝をいつの時代でも語り継ぐこと)》。

 

玉城知事もおっしゃっているように、私たちはいま改めて、「命こそ宝」であることを思い起こさねばならないと思わされています。一人ひとりの命は、ただ一つの命です。かけがえのない命です。かけがえがないとは、替わりがきかないということです。一人ひとりの命は替わりがきかないものであり、だからこそ決して不当な暴力で失われてはならないものです。

 

沖縄の基地反対運動で先頭に立って戦い続けてこられた方阿波根昌鴻(あはごん・しょうこう)さん19032002年)が書かれた『命こそ宝 沖縄反戦の心』(岩波新書、1992年)という本があります。阿波根さん自身、ただ一人の子どもであった息子さんを沖縄戦で亡くされています。お連れ合いのご実家では祖母と父母と弟二人と妹一人が亡くなられたそうです。

 

『命こそ宝 沖縄反戦の心』は阿波根さんが90歳のときに出版された本で、いわば阿波根さんの遺言のような本であると思います。そのご著書の中で、阿波根さんは次のように語っておられます。《戦争中、わしらはあまりにも命を粗末に考えておった。二度と戦争をおこなわせないためには、何よりも命を大事にすることである。戦後になって、非常に反省しました》(同書、5頁)。阿波根さん自身、愛する息子さんを沖縄戦で亡くされたわけですが、同時に、ご自分のかつての在り方に痛烈な責任を感じておられたようです。

 

《戦前は「命は鴻毛(こうもう)より軽し」とかいって、死ぬのが国のため、命を惜しむものは国賊だと信じさせられていた。敵に生け捕りされるのは不名誉、だから集団自決といって、自分たちで殺しあう。そしてそうすれば靖国神社に祀られて神になる。こんなことを教えらえて、愚かにも信じていたのです。それにもし、生き残りたいと思っていることが軍にわかったりしたらすぐ殺されると思っておりました。その頃はもう、死ぬ死ぬばっかりですよ。死ぬ死ぬと言うのが習慣になっていた》(同書、56頁)

 

 戦争中は、「命は鴻毛より軽し」という考えが浸透していたと阿波根さんは振り返ります。「鴻毛」とは鳥の羽毛のことです。命は羽毛よりも軽いもの、だから命を捨てることは少しも惜しくないのだ、と。「命こそ宝」とはまさに正反対の言葉ですね。しかし戦争中は、そのように国のために命を差し出すことが推奨されていた。そのような中で、自分たち自身もまた、命を粗末にする考えに囚われていたのではないか、と阿波根さんは振り返っておられます。

 たとえば、《伊江島にはアハシャガマという大きな洞窟があります。ここでは、一五〇人の島民が集団自決をした。『伊江村史』には四月二二日頃のことと書いてありますから、戦闘が終わった翌日でありました。また島でただ一か所真水がでる、湧出(わじー)という、いまでは景色のいい観光地になっているところがありますが、その断崖からたくさんの人たちが身を投げた。日本軍守備隊は玉砕を命じて降伏を許さなかったから、日本軍に殺された人たちもおりますが、これだけの人たちが死んだのは、わしら自身が命を粗末にする考えからぬけだせなかったからである》(同書、78頁)

 

 阿波根さんは戦後、その反省を踏まえ、命の尊さ、《命どぅ宝》を訴え続けてゆかれました。《戦(いく)さ世(よ)んしまち (「戦世」は終わった)/みるく世ややがて (平和な「弥勒世」がやがて来る)/嘆くなよ臣下 命どぅ宝 (嘆くなよ、おまえたち、命こそ宝)/これは、沖縄では有名な琉歌であります。「命どぅ宝」(命こそ宝)、これは実に大事なことばである。沖縄戦というこの世の地獄を経験し、そして敗戦後の半世紀、ずっと基地反対闘争を戦ってきて、もう90歳になるわしが、生涯をかけて伝えたいことばも、またこれであります》(同書、2頁)

 

 私たちの近くに遠くに、いまも、かけがえのない命が軽んじられている現実があります。ウクライナでは悲惨な戦争が続けられています。沖縄の戦争の記憶を受け継ぐとともに、「命こそ宝」であることをいまこそご一緒に心に刻みたいと思います。

 

 

 

《悪霊》 ~自他の命と尊厳を軽んじる否定的な力

 

 先ほど、マルコによる福音書5120節を読んでいただきました。イエス・キリストがある男性に取りついた《レギオン》という悪霊を追い出す場面です。追い出された悪霊が豚の中に入り、豚の大群が湖の中になだれ込む場面はよく知られているものですね。この場面をはじめ、福音書の中には、イエス・キリストが悪霊を追い出す場面が何度も出て来ます。映画の『エクソシスト』を思わせるような、不可思議な場面です。

 

福音書に出てくる《悪霊》(あるいは《汚れた霊》)がどのような存在であるのかは、はっきりとは分かりません。何らかの精神的な病いに相当するものものもあったでしょう。と同時に、いまの科学的な見地からも説明が難しいケースもあったことでしょう。先週の礼拝のメッセージでは、これらの《悪霊》を「私たちから主体性を奪う何らかの否定的な力」として受け止めました。

主体性を奪うとは、その人の人格を軽んじることです。自分及び他者の人格を、尊厳を、そして命を軽んじる否定的な力を、《悪霊》と呼ぶこともできるでしょう。本日は、自他の存在――その命と尊厳――を軽んじる否定的な力を「悪しき霊」の力として受け止めたいと思います。そしてこの「悪しき霊」の力は、神の国の福音の力とは正反対のものです。

 

 

 

神の国 ~神さまの平和と愛が満ち満ちている場

 

メッセージの前に、ご一緒に讃美歌494番『ガリラヤの風』を歌いました(作詞:由木康。日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21略解』所収、日本キリスト教団出版局、1998年)。最初の1節はこのような歌詞でした。《ガリラヤの風 かおるあたり、「神のみ国は 近づけり」と、告げられしより 既に久し。「来たらせたまえ、主よ、み国を」》。《神のみ国》、すなわち神の国がこの地に到来すること、そうしてまことの平和と愛が私たちの間に実現することを祈り求める歌です。

 

「神の国」は原語のギリシア語では「神のご支配」とか「神の王国」とも訳すことのできる言葉です。神さまの力、そして神さまの平和と愛が満ち満ちている場が神の国です。

 

 先ほど、一人ひとりの命はかけがえのない、替わりがきかないものであることを述べました。聖書は、他ならぬ、神さまから見て、私たちの命と存在がかけがえのないものであることを語っています。この神さまの愛を受け止め、私たちが互いの存在を大切にし合ってゆくことが、神さまの願いです。神さまの目にかけがえのない、一人ひとりの存在が大切にされていることが、神の国の実現につながることであると本日はご一緒に受けとめたいと思います。私たちには神の国を祈り求め、神の国の平和と愛がこの地上に実現するよう働く務めが与えられています。

 

 

 

《み国を来たらせたまえ》

 

《来たらせたまえ、主よ、み国を》(讃美歌494番『ガリラヤの風』)――地上に神の国が到来することを求める祈り。この祈りをキリスト教は大切にしてきました。そしてこの祈りを教えて下さったのが、他ならぬイエス・キリストその方です。

 

私たちが礼拝の中で毎回お祈りしている主の祈りの中に、《み国を来たらせたまえ》という祈りがありますね。神の国が来ますように――私たちの生きるこの地に神の国の平和と愛が実現されるように。イエスさまが教えてくださったように、私たちキリスト教会はこの祈りを祈り続けてきました。いまも祈り続けています。

 

この私たちの祈りの中心におられる方、それがイエス・キリストです。イエスさまはいまも私たちと共に、この地に神の国の平和と愛が実現されるよう祈り続けて下さっています。

 

 

 

「利益を第一とし、命と尊厳を軽んじる」悪しき霊

 

 この神の国の平和と愛と対立する力が、《悪霊》の力です。神の国とは反対に、自他の命と尊厳を軽んじよう働きかけるのが、悪霊の力であるからです。

 

本日の聖書箇所である使徒言行録161624節では、《占いの霊》に取りつかれている一人の女性が登場します。《占いの霊》は使徒言行録においては「悪霊」の一つとして見做されています。この女性は奴隷として雇われており、主人たちに占いを通して多くの利益を得させていました。

この「占いの霊」とは、「金もうけの霊」19節)と言いかえることができるでしょう。あるいは、「利益を第一とし、他者の命と尊厳を軽んじる霊」です。この霊に女性は取りつかれていたわけですが、その背後には、女性を搾取する主人たちの存在がありました。その意味では、女性を搾取する主人たちこそが「金もうけの霊」に取りつかれており、女性は奴隷としてその支配の中に取り込まれ、搾取され苦しめられていたとも言えるかもしれません。

 

女性が苦しんでいたことは、パウロたちを見かけると彼女が必死で叫び続けたことからも分かります。女性はパウロたちを見かけると、ずっと後ろについてきて、《この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです17節)と叫びました。パウロたちが神からの使いであることを見抜き、助けを求めたのです。搾取され支配されることの痛みを感じている人であったからこそ、パウロたちが携える神の国の福音に真っ先に気づくことができたのかもしれません。

何日もずっと叫び続けるので、パウロはたまりかねて、女性から悪霊を追い出します。女性の心の奥底から発せられたSOSの声がパウロに届いたのでしょうか。《イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け18節)、パウロがそう命じると、即座に霊は女性から出て行きました。

パウロはイエス・キリストのみ名によって、女性をこの悪霊の支配の中から解放しました。一方、その後パウロたちは女性の主人たちによって捕えられ、役人たちに引き渡されて牢に入れられてしまうこととなります1924節)

 

「自分たちの利益を第一とし、他者の命と尊厳を軽んじる」悪しき霊。この霊の影響を受け、その支配の中で多くの人が苦しめられているのは、いまの私たちの社会も同様であることを思わされます。

 

 

 

イエス・キリストの名によって

 

 先ほどの使徒言行録のパウロの振る舞いにおいて重要なのは、パウロが《イエス・キリストの名によって》、女性の内から悪霊を追い出したところです。使徒言行録は、パウロや弟子たちが悪霊を追い出すことができたのは彼ら自身の力によるものではなく、「イエス・キリストの名による」ものであることを強調しています。

 私たちの中心で、この地に神の国の平和と愛が実現されるよう祈り続けてくださっているのがイエス・キリストです。このイエスさまの祈りに私たちの祈りを合わせるとき、「悪霊を追い出す」力が与えられてゆくことを聖書は伝えています。イエスさまのおられるところ、そこに、神の国の平和と愛があります。イエスさまの祈りに私たちの祈りを合わせる時、私たちの内に聖霊なる神さまの力が満ちてゆきます。

 

 

 

自分を含む一人ひとりの生命と尊厳が重んじられるように

 

 本日のメッセージの前半では、沖縄慰霊の日にあわせ、《命どぅ宝》という言葉を共に心に留めました。後半では、悪しき霊の働きについて、そして神の国の力についてお話ししました。

 

命こそ宝であるということは、自分自身の命だけではなく、自分以外の人の命も宝であるということです。「命」という言葉が指し示しているのは自分一人だけの命ではなく、「一人ひとりの命」です。自分を含む一人ひとりの生命と尊厳が重んじられるように努めてゆくことが、この地に少しずつ、神の国を実現してゆくことへとつながってゆくのだと受け止めています。《み国を来たらせたまえ》――この地に神の国の平和と愛をもたらすため、それぞれが、自分にできることを行ってゆきたいと願います。