2025年11月23日「神は心によって見る」
2025年11月23日 花巻教会 主日礼拝説教
収穫感謝日・謝恩日
本日は勤労感謝の日です。私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は11月第4週の日曜日を収穫感謝日・謝恩日としています。
収穫感謝日は、神さまから与えられた収穫の恵みを感謝する日です。教会によっては、お米や野菜や果物を並べて礼拝をささげるところもあります。花巻教会でも本日は聖餐卓の上にお野菜や果物を並べています。
謝恩日は、牧師を隠退された先生方のお働きに感謝する日です。日本キリスト教団はその感謝の思いを具体的に謝恩日献金というかたちで表し、隠退された先生方とご家族の生活をお支えしています。私たちの日々の生活が神さまの恵みによって、また多くの方々のお働きによって支えられていることへの感謝をご一緒に新たにしたいと思います。
サムエル記
礼拝の中で、本日の聖書箇所である旧約聖書(ヘブライ語聖書)のサムエル記上16章を読んでいただきました。サムエル記は旧約聖書に収められた「歴史書」の一つです。上下巻に分かれていて、それまで王がいなかったイスラエルに遂に王が立てられ、中央集権としての王朝がつくられてゆく過程を描いています。サウル王、ダビデ王、ソロモン王などが有名ですね。本日のサムエル記16章では、まだ少年であったダビデが初めて登場します。
タイトルの「サムエル」は人の名前です。最後の士師(英語では『judge(裁き人)』)であり預言者であった指導者サムエルから取られています。サムエルと言えば、幼いサムエルが神の呼びかけに耳を澄ませている「幼きサムエル」の絵がよく知られていますね(ジョシュア・レイノルズ画、1776年、ファーブル美術館蔵)。
メシア ~油注がれた者
改めて、本日の聖書箇所16章1-13節を振り返ってみましょう。その日、サムエルはサウル王に替わって新しく王となる人物に油を注ぐべく、ベツレヘムに赴きました。神から、「ベツレヘムの町に暮らすエッサイという人物の息子たちの中に、王となるべき人物がいる。その者に油を注ぎなさい」との言付けがあったからです(1節)。
当時のイスラエルには、王や大祭司を任職する際に高価な油を注ぐという風習がありました。「油注がれた者」はヘブライ語では「メシア」と言い、この「メシア」のギリシャ語訳が「キリスト」です。キリスト教においては「キリスト」は「救い主」の意味で使われていますが、もともとは「油注がれた者」という意味なのですね。
サムエルは神さまから託された真の目的を胸の内に秘めつつ、エッサイとその息子たちをいけにえの会食に招きます(5節)。
神は心によって見る
エッサイとその息子たちがやって来ると、サムエルはまず長男のエリアブに目を留めます。そうして、《彼こそ主の前に油を注がれる者だ》と思います(6節)。なぜサムエルはエリアブに注目したのでしょうか。一つには、彼が長男であるということがあったでしょう。もう一つ、エリアブが容姿や背の高さに秀でていたことも理由としてあったようです。
しかし神さまはサムエルにおっしゃいます。《容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る》(7節)。
神は人を外見で判断なさらない。神さまは見た目ではなく、その心を見ておられることが語られています。2018年に出版された聖書協会共同訳は7節をこのように訳しています。《容姿や背丈に捕らわれてはならない。私は彼を退ける。私は人が見るようには見ないからだ。人は目に映るところを見るが、私は心を見る》。神さまは私たちの「心を見る」方であることがはっきりと語られていますね。
私たちはつい目に映るところで、人やものごとを判断してしまうが多いものです。しかし、人の目に映らない部分に本質があり、大切なものが秘められていることを改めて思わされます。
その後、エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせましたが、サムエルは油を注ぐべき人物を見出すことはできませんでした(10節)。サムエルはエッサイに尋ねます。《「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」》(11節)。一人羊の番をしていた末っ子、その子が、のちにイスラエルの王となるダビデでした。
エッサイは人をやって、サムエルの前にダビデを連れてこさせます。《彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」》(12節)。
神さまはサムエルに、この少年こそが油を注ぐべき人物であることを告げます。神の言葉の通り、サムエルはダビデに油を注ぎました(13節)。メシア(油注がれた者)が誕生した瞬間です。以来、ダビデの上に神さまの霊が激しく降るようになったと聖書は語ります。
《聞き分ける心》 ~善と悪を判断する賢明さ
ご一緒にサムエル記上16章の1-13節を振り返りました。王となる人物を見出す過程において、神は人の外見ではなく「心を見る」方であることを心に留めました。
では、王となる人物が持つべき「正しい心」とは、どのようなものなのでしょうか。神の目に適う心の在りようとは、どのようなものなのでしょうか。
ダビデの次にイスラエルの王となるソロモンは、後に、次のような祈りを神にささげています。《どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください》(列王記上3章9節)。
自分の力ではなく神の力により頼むソロモンの謙遜さが心に残る箇所ですが、ここではソロモンが神さまに祈り求めた事柄に心を向けたいと思います。ソロモンは善と悪を判断することができるようになるために、《聞き分ける心》を与えてくださいと神に祈っています。目に見えるものによって判断するのではなく、しっかりと本質を見つめ、悪しきものと善きものとを識別することができるために、人々の訴えを《聞き分ける心》を与えてくださいと祈っているのです。
この《聞き分ける心》は「分別」、あるいは「善と悪を判断する賢明さ」と言い換えることができるでしょう。この賢明さを心の内に持つことは、「油注がれた者」となる人物にとって不可欠のことではないでしょうか。
《蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい》
「善と悪を判断する賢明さ」を持つこと。このことは、次のイエス・キリストの言葉ともつながっています。《蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい》(マタイによる福音書10章16節)。
ここでの「蛇のように賢く」は善悪を見分け、悪しきものを注意深くしりぞける賢明さを持つことを意味しています。「鳩のように素直に」は、悪しき意図に操作されることのない純真さと自由とを心の中に持つことを意味しています。この賢明さと純真さとを心の中に持つことは、どのような役職や立場にあっても、私たち一人ひとりにとって大切なことであると思います。
たとえて言いますと、鳩は私たち自身の心です。蛇は、その心を守る門番です。心の中に悪しきものが侵入してくるのを防ぐための門番です。私たちが自分自身の心を守るために、人の心を守るために、善悪を見分ける賢さは不可欠のものでありましょう。
まことの「油注がれた者」であるイエス・キリスト
次週11月30日(日)から、教会の暦でアドベントに入ります。イエス・キリストのご降誕を待ち望み、その日に向けて準備をする期間です。
先ほど、「メシア(油注がれた者)」のギリシャ語訳が「キリスト」であると述べました。イエス・キリストこそは、神の目に適う心をもって、私たちを正しく裁き、治めてくださる方です。
キリスト教において伝統的にイエス・キリストの到来を預言していると受け止められてきたイザヤ書11章はこう語ります。《エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ち/その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。/彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。/弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。…》(1-4節)。
このイザヤの言葉の中には、《目に見えるところによって裁きを行わず……》との文言もありました。まことの「油注がれた者」であるキリストは、目に見えるところによって判断をなさらない。ものごとの本質を見つめ、善と悪とを判断してくださる方であることが語られています。そうして、弱い人のために正当な裁きを行い、貧しい人々を公平に弁護してくださる方であることが語られています。
「公平」という言葉が出てきました。この公平性(英語でエクイティ)も、人々の訴えを《聞き分ける心》を持つ上で、不可欠のものでありましょう。福音書には、イエス・キリストが社会的に弱い立場に追いやられている人々に真っ先に心を向け、その声を聞き、必要な支援を行ってくださったことが記されています。イエス・キリストこそは、一人ひとりを公平に扱い、弁護してくださるお方です。
アドベントを迎えようとするこの時、私たちもまた目に見えるところによってではなく善悪を判断する賢明さを持つことができますように、公平な、《聞き分ける心》をもって神さまと隣り人に誠実に向かい合ってゆくことができますように、神さまにご一緒にお祈りをおささげいたしましょう。
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