2024年4月14日「復活のキリストとの出会い」

2024414日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:イザヤ書6113節、ペトロの手紙一11325節、ヨハネによる福音書21114

復活のキリストとの出会い

 

 

私たちは現在、教会の暦で復活節の中を歩んでいます。復活節はイエス・キリストのご復活を心に留め、共に復活の命の光を希望として歩む時期です。

 

この数日、春らしい暖かな陽気が続いています。草木もいっせいに色とりどりの花を咲かせています。教会の近くの桜も、ちょうど満開となりました。早速お花見をされた方もいらっしゃることと思います。新年度の歩みが始まり、どこか緊張して気が張っている時期でもありますが、春らしい光景は私たちの心をホッと解きほぐしてくれるものです。皆さんもどうぞご無理はなさらず、お体大切になさってください。

 

 

 

ガリラヤ湖畔にて

 

 冒頭に、本日の聖書箇所であるヨハネによる福音書21114節をお読みしました。復活したイエス・キリストが、弟子たちの前に姿を現してくださる場面です。

 

 物語の舞台となっているのは、ティベリアス湖畔。ティベリアス湖はガリラヤ湖の別名です。ガリラヤ湖はパレスチナの北部にあり、福音書に何度も登場する湖です。

スクリーンに映しているのは、ガリラヤ湖を上空から映した写真です。楽器の竪琴(ハープ)のようなかたちをしていますね。大きさは周囲53キロメートル、南北に21キロメートル、東西に13キロメートル。南北の距離で言うと、ここ花巻教会から紫波町の日詰教会までくらいの間隔です。湖のまわりには町が点在しており、人々は舟にのって、町から町へ移動をすることができました。

 

ガリラヤ湖には多くの魚が棲んでおり、漁業もさかんであったようです。本日の物語に登場する弟子のペトロたちも、もともとは漁師でした。またそして、ペトロたちがイエスさまと初めて出会ったのが、このガリラヤ湖畔でした。

湖で漁をしているペトロたちに、イエスさまはおっしゃいました。《恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる(ルカによる福音書510節)。ペトロたちを、ご自分の弟子になるように招いてくださったのです。彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスさまに従いました。ペトロたちにとって、このガリラヤ湖のほとりはまさに「はじまり」の場所、イエスさまの弟子へと招かれた、いわば原点のような場所です。

 

 

 

「わたしはもとの漁師に戻る」……?

 

 先週の礼拝で、家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの前に、よみがえられたたイエス・キリストが現れてくださった場面を共に読みました201923節)。イエスさまは十字架の傷跡を見せながら、ご自分を見捨てた弟子たちのことを「赦している」ことを伝えてくださいました。イエスさまからの愛と赦しを受けた弟子たちは、再び立ち上がる力を与えられていったことをお話ししました。

 

 本日の物語は、その続きです。先週の物語はイエスさまが十字架におかかりになったエルサレムでの出来事でしたが、本日の物語はガリラヤ湖畔での出来事です。復活のキリストとの出会いから間もなくして、ペトロたちは何らかの事情があって、故郷ガリラヤに戻ってきていたようです。

 

 復活のキリストと出会い、再び立ち上がる力を与えられた弟子たち。しかし、では、これからどこへ向かって歩いていけばいいのか、それはまだはっきりと分かっていなかったのかもしれません。自分はこれから何をして、どう生きていったらよいのか? 何かに促されるようにして、ペトロたちは始まりの場所――自分たちの原点であるガリラヤ湖畔に戻ってきていました。もしくは、ペトロたちはまたもとの漁師に戻るつもりで、故郷ガリラヤに戻ってきていたのかもしれません。

シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ3節)

「わたしは漁に行く」というペトロの言葉には、食べ物を調達しに行くということだけではなく、「わたしはもとの漁師に戻る」という想いが表明されているようにも感じられます。ペトロの言葉に、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」と従いました。他の弟子たちもやはり、もとの生活に戻る気持ちであったのかもしれません。

ただしその生活とは、イエスさまと出会う前の生活へ戻るということを意味しています。イエスさまと出会う前の「もとの自分」に戻ることを意味しています。それは、イエスさまの願いではなかったでしょう。ペトロたちは、自分たちがイエスさまからかけがえのない使命を託されていることを、いまだ理解することができていなかったのでしょうか。

 

 

 

復活のキリストとの出会い ~イエスさまは私たちと何度でも出会い直してくださる

 

湖へと漁に出たペトロたち。しかし、その晩はまったく何もとれませんでした。既に夜が明けた頃、ペトロたちは、岸辺に誰かが立っていることに気が付きました。復活したイエス・キリストその方でした。けれども、弟子たちはその方がイエスさまだとは分からなかった、と福音書は記します4節)

 

岸辺に立つイエスさまは、ペトロたちに声をかけられました。「子たちよ、何か食べる物がありますか」5節)。ペトロたちは「ありません」と答えました。イエスさまは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずです」とまた声をかけられました6節)。その言葉の通り網を打ってみると、魚があまりに多くて、網を引き上げることができなくなりました。

その時、ヨハネ福音書で「イエスの愛しておられた弟子」と呼ばれるある一人の弟子がペトロに「主だ」と言いました。ペトロは岸辺に立っておられるのがイエスさまだと聞くと、裸同然であった体に上着をまとって湖に飛び込みました7節)。驚きのあまり、湖に飛び込んでしまったのでしょうか。一刻も早く、イエスさまが立っておられる岸辺まで泳いで行きたいと思ったのでしょうか。他の弟子たちは、大量の魚がかかった網を引いて、舟で岸まで戻ってきました8節)

 

さて、陸に上がってみると、炭火が起こしてありました。イエスさまが朝ご飯の準備をしてくださっていたのです。炭火の上には魚がのせられており、パンもありました9節)。焼いた魚の匂い、こうばしいパンの匂いに、夜通し漁をしていた弟子たちは思わずお腹が鳴ってしまったかもしれません。

イエスさまは、「今とってきた魚を何匹か持って来なさい」とおっしゃいます。ペトロが舟に乗り込んで網を引き上げると、153匹もの大きな魚で一杯でした。それほど多くとれたのに、網は破れていませんでした。

153という数は、当時知られていた魚の全種類の数であるとの説もあります。ここからさらに、この数は、全世界の人を指し示していると受け止めることもできます。世界中の、すべての人を、これからキリストの愛の内に招き入れる。すべての魚を網の中に招き入れたように、すべての人を、キリストの愛と平和の内に招き入れる――そのために働く使命を、イエスさまは改めてペトロたちに託されたのです。

生前、イエスさまはガリラヤ湖畔でペトロたちと出会い、弟子へと招いて下さいました。この場所で、死よりよみがえられたイエスさまは改めてペトロたちと出会い、再び弟子へと招いてくださったのです。ペトロがその後、具体的に示されたことは、新しく建てられるキリストの教会の指導者(牧者)となることでした。

 

本日の物語で示されているように、イエスさまは私たちと何度でも出会い直してくださる方である。復活のキリストは私たちを何度でも、弟子へと招いてくださる方であることを本日はご一緒に受け止めたいと思います。私たちは時に、どの方向へ進んでいったら良いのか、これから何をして、どう生きていったら良いのか、分からなくなることがあります。復活のキリストはそのような私たちの傍らにおられ、私たちの内に、進むべき道を示してくださっていることをご一緒に心に留めたいと思います。イエスさまは私たち一人ひとりに、かけがえのない役割、使命を与えてくださっています。

 

 

 

《さあ、来て、朝の食事をしなさい》

 

 イエスさまは弟子たちに、さあ、来て、朝の食事をしなさい12節)とおっしゃいました。イエスさまは来て、パンを取って弟子たちに分け与えてくださいました。魚も同じようにしてくださいました13節)

 パンを分け合う聖餐式を思い起こさせる動作です。と同時に、これは日常的な朝の食事の風景としても受け止めることもできます。生前、イエスさまは弟子たちと毎朝、このようなかたちで朝食をとっておられたのかもしれません。イエスさまとの朝食――心に残る場面ですね。復活のキリストが弟子たちと出会ってくださったのは、これでもう三度目である、と福音書は記します14節)

自ら炭火を起こし、朝食の準備をしてくださっていたイエスさま。食事をとる、というのは私たちが生きてゆく上で欠かせないことです。イエスさまは私たちが今日必要な糧を備えていてくださる。それは物質的な糧だけではなく、霊的な糧もそうです。イエスさまは私たちに復活の命の力を与えてくださる。私たちと食卓を共にしながら、私たちが今日も1日、元気を出して生きてゆくことができるようにと励ましてくださっています。

 

 

 

「元気を出す」

 

確か私が高校生の頃だったかと思いますが、作家の大江健三郎さんが報道番組に出演した際におっしゃった言葉が心に残っています。正確な記憶ではないかもしれませんが、番組の中で、司会者の方と大江さんの間で次のようなやり取りがありました。

司会者の方が、「大江さんが大切にしている言葉は何ですか」と尋ねました。すると、大江さんは数秒考えた後、「『元気を出す』です」と答えました。元気がある、ではなく、元気を「出す」。この言葉自体はとても分かりやすい、幼い子どもも理解できる言葉ですね。高校生であった当時、私は大江さんの小説とエッセイを懸命に読んでいました。ですので、そのシンプルな言葉の背後に、大江さんがこれまで積み重ねて来られた人生とその経験、大切な人々の存在があることを思いました。

「元気を『出す』、のですね……!」とテレビの司会者の方も大江さんの答えに感銘を受けた様子でした。目の前にあるのはまるで暗闇のような現実かもしれないけれど、それでも、元気を出そう。私たちは、元気を出して、生きてゆこう――。大江さんならではのユーモアと、この世界を肯定的に捉えることの決意が込められた言葉であると感じ、私も感銘を受けました。

 

 

 

「それでも、元気を出しなさい」 ~復活のキリストの命の力を受けて

 

よみがえられたイエスさまの《さあ、来て、朝の食事をしなさい》という呼びかけは、私の胸に、「さあ、わたしのもとに来て、元気を出しなさい」との励ましの言葉のようにも響いてきます。私たちの目の前には様々な困難な現実があります。不条理としか思えないような状況があります。心と体は弱り果て、私たちの内にはもはや何の力も残されていないように感じる時もあります。しかし、それでも、元気を出して生きてゆくようにとイエスさまは私たちを励ましてくださっています。なぜなら、イエスさまは死からよみがえられ、永遠の命としていま、私たちと共におられるからです。私たちの内に、再び立ち上がる力、復活の命の力を与えてくださっているからです。またそして、私たちにかけがえのない使命を与えてくださっているからです。

 

ヨハネによる福音書には、次のイエスさまの言葉もあります。《しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている1633節)。この言葉は、「それでも、元気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と訳すこともできます。

 

 

私たち一人ひとりがいま、キリストの愛と平和のために働く弟子として招かれています。復活のキリストの命の力を受け、元気を出して、ご一緒に今日という日を生きてゆきたいと願います。