2024年4月7日「あなたがたに平和があるように」

202447日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:出エジプト記15111節、ペトロの手紙一139節、ヨハネによる福音書201931

あなたがたに平和があるように

 

 

復活節第2主日礼拝

 

先週331日(日)、私たちはイエス・キリストの復活を記念するイースター礼拝をおささげしました。先週から、教会の暦で復活節に入っています。復活節は、イエス・キリストのご復活を心に留め、共に復活の命の光を希望として歩む時期です。本日は復活節第2主日礼拝をおささげしています。

 

 イースターの翌日から、新しい年度の歩みも始まりました。この春より、また新しい環境で生活を始めている方もいらっしゃることでしょう。特に進学により岩手を離れ、新しい地で生活を始めている皆さんの上に、神さまの祝福とお支えがありますようお祈りしています。

 

 43日(水)、台湾東部で震度6強の地震が発生しました。被災された方々、いま困難の中にある方々に必要な支援が行き渡りますよう、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。

 

 

 

昨年度年間主題聖句 ~コリントの信徒への手紙一12

 

 昨年の2023年度、私たち花巻教会はコリントの信徒への手紙一122627節を年間主題聖句として共に歩んできました。《一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。/あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です》。

私たちは共に一つのキリストの体に結ばれており、それぞれが多様な、かけがえのない役割を果たしていることを伝える御言葉です。

私たちが違いを認め合い、弱さを受け止め合って、互いに大切にしてゆくことができますように。花巻教会につらなる一人ひとりが、神さまから与えられているかけがえのない使命・役割を果たしてゆくことができますように。この新しい年度も引き続き、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たち

 

 冒頭で述べましたように、先週から教会の暦で復活節に入っています。先週のイースター礼拝のメッセージでは、イエス・キリストが復活したことに思い至らず、墓穴の前で涙を流していたマグダラのマリアについてお話しました。私たちもまた、教会の暦ではイースターを迎えても、心の中はいまだ受難節のままのような部分があるのではないかということもお話ししました。本日の聖書箇所ヨハネによる福音書201931節はその続きです。本日の聖書箇所の冒頭においても、イエスさまが復活されたことに思い至らず、恐れの中で、家の戸に鍵をかけて閉じこもっている弟子たちが登場します。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた(ヨハネによる福音書2019節)。本日は、特に前半部の1923節を取り上げてみたいと思います。

 

イエス・キリストが十字架刑によって亡くなられてから三日目の日曜日――すなわち、イースター当日の夕方のことでした。弟子たちは自分たちのいる家の戸に鍵をかけていました。この弟子たちというのは、イエスさまが逮捕されるとき、イエスさまを見捨てて逃げてしまった弟子たちです。

 

弟子たちは、自分達も捕らえられてしまうのを恐れて、家の中に閉じこもっていたようです。またそして、彼らが閉じこもっていたのは、愛する先生を見捨てて逃げてしまったことの罪悪感も関係していたことでしょう。自分たちは「取り返しのつかないことをしてしまった」という激しい罪の意識と、恐れの中で、彼らは家の戸に鍵をかけて閉じこもっていたのではないかと想像します。「もうすべては終わってしまった」、そう思って、皆押し黙り、座り込んでいたのではないでしょうか。

 

 

 

《あなたがたに平和があるように》

 

そこへ、よみがえられたイエス・キリストが現れます。イエスさまは彼らの真ん中に立たれ、《あなたがたに平和があるように》とおっしゃいました19節)。復活のイエスさまの第一声は、弟子たちに対する怒りや恨みの言葉ではなく、彼らの平和を願う言葉でした。

イエスさまは平和の挨拶をされ、その手と脇腹とをお見せになりました20節)。なぜ、「手と脇腹」なのでしょうか。そして、このジェスチャーには、何のメッセージが込められているのでしょうか。

 

復活されたイエスさまの手と脇腹には、十字架の傷痕が残されていました。手の傷は釘を打ち込まれた際の痕、脇腹の傷は槍で突かれた際の痕です。これらの傷痕は、絵画でも伝統的に描かれているものですね。イエスさまは弟子たちに《あなたがたに平和があるように》と挨拶され、手と脇腹に刻まれた十字架の傷痕をお見せになったのです。このジェスチャーには、どのようなメッセージが込められているのでしょうか。

 

手と脇腹に刻まれた傷痕は、イエスさまの十字架のお苦しみを象徴しているものです。また、イエスさまを裏切った弟子たちの罪、イエスさまを死に追いやった私たち人間の罪を象徴するものでもあります。ご自分の苦しみと人間の罪を象徴する傷痕を、ここであえてイエスさまはお見せになっています。イエスさまはその傷痕をあえてお見せになることによって、弟子たちを「赦している」ことをお伝えになったのだと、本日はご一緒に受け止めたいと思います。その傷痕をはっきりと見せることを通して、イエスさまは「赦し」のメッセージを伝えてくださいました。

イエスさまはすべてを赦し、すべてを受け止め、十字架におかかりになってくださっていた。それほどまでに、弟子たちのことを愛してくださっていたのです。だからこそ、弟子たちはそのイエスさまのお姿を見て喜んだのでしょう。《そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ20節)

 

 イエスさまは重ねておっしゃいます。《あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす21節)。再び弟子たちに平和があるようにと願ってくださった後、弟子たちを派遣することを宣言してくださいました。神さまがイエスさまをお遣わしになったように、今度は、イエスさまが弟子たちをお遣わしになる。ここで「終わり」なのではない。そうではなく、ここからが、「はじまり」――。これから、弟子たちに新しい使命が与えられ、新しい物語が始まってゆくのです。

家の戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちは、この後、イエスさまによって、家の外へ、新しい世界へと押し出されてゆくこととなります。

 

 

 

《聖霊を受けなさい》

 

 イエスさまはそうおっしゃってから、彼らに息を吹きかけて言われました。《聖霊を受けなさい。/だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る2223節)

 

 ここでも、イエスさまは不思議な動作をなさっています。弟子たちに息を吹きかけ、《聖霊を受けなさい》とおっしゃったのです。「息を吹きかける」という動作は、創世記のアダムの創造の場面を思い起こさせるものですね。《主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった(創世記27節)

 息を吹きかけるという動作は、イエスさまが弟子たちに命の息(聖霊の息吹)を吹き込んでくださったことを表しています。イエスさまから聖霊の息吹を受け、その愛と赦しを受け、弟子たちは新しく生きる者となりました。家の戸に鍵をかけ座り込んでいた弟子たちは、再び立ち上がる力を与えられてゆきました。

 

 

 

イエスさまの愛と赦しの声 ~「あなたは生きていてよい」

 

最後のイエスさまの言葉、《だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る》。

この言葉は、私たちにとって、難しい言葉でもありますね。私たちはなかなか人を赦すことができません。またそして、そんな自分を自分で赦すことができません。「赦し」は、私たちにとって非常に難しいテーマであり、生涯を通して取り組むテーマです。

 

聖書が語る「赦し」とは、別の言葉で表現すると、「あなたは生きていてよい」という神さまの声を聴くことです。人を責め、自分自身を責め、否定的な感情の中で傷つき、立ち上がれなくなっている私たちに、イエスさまは「あなたは生きていてよい」と語りかけてくださっています。この声が、聖書が語る「赦し」であると本日はご一緒に受け止めたいと思います。

 

「あなたは生きていてよい」――十字架の死からよみがえられたイエスさまはいま、私たち一人ひとりに語りかけてくださっています。赦せなくても、いい。赦せないあなたでもいい。そのままのあなたで、わたしのもとへ来なさい、と招いてくださっています。手と脇腹の十字架の傷痕を示しながら、聖霊の息を吹きかけながら、私たち一人ひとりに、「それでも、あなたは生きていて、よい」と語りかけてくださっています。

この愛と赦しの声が、私たちに生きる力を与えます。私たちの内に命と、平和を与えます。私たちを再び立ち上がらせ、キリストの平和を伝える者へと、新しく変えていってくださいます。そしていつの日か、私たちを和解へと導いてくださるでしょう。

 

 

「あなたは生きていて、よい」――このイエスさまの愛と赦しと命の言葉にいま、私たちの全身を委ねたいと願います。どうぞここに集ったお一人おひとりに、キリストの平和がありますように。