2018年7月8日「信心の秘められた真理」

201878日 花巻教会 主日礼拝説教

 聖書箇所:テモテへの手紙一31416 

信心の秘められた真理

 

 

西日本豪雨

 

 記録的な豪雨により、西日本を中心に土砂崩れ、河川の氾濫など、甚大な被害が広がっています。

 私の母方の親族が広島と愛媛に住んでおり、無事であることの知らせは受けていますが、周囲に土砂崩れが起こり、畑が崩れたり、ため池が溢れて浸水したりと、大きな被害がもたらされているようです。水道もストップして復旧のめどが立っていないとのことです。

皆さんの中にも、西日本にご親族やご友人がいらっしゃる方がおられることと思います。ニュースでは本日もまだ最大級の注意が必要であると報じられています。とても心配ですが、人々の命と安全が守られますよう、必要な支援が行きわたりますよう、ご一緒に祈りをあわせたいと思います。

 

 

 

オウム真理教に関して

 

 一昨日は、西日本豪雨のニュースと共に、オウム真理教の松本智津夫元死刑囚をはじめとする7人の死刑が執行されたというニュースが日本中を駆け巡りました。

 

 衝撃を受けると共に、どうしてこのタイミングなのか、なぜ7人を同時に処刑するのかなど、さまざまな疑問が湧いてくるものでしたが(この度の死刑執行を受けて、死刑制撤廃を加盟の上面とするEUからは、日本政府に死刑執行の停止を求める共同の声明が出されています。オウムの犯罪は決してゆるされるものではありませんが、私も死刑制度には反対です)、ニュースを見ながら、23年前の1995年の地下鉄サリン事件をはじめとする一連の犯罪事件の衝撃を思い起こされていたのではないでしょうか。

 

 礼拝に参加して下さっている大学生の方は1995年はまだ生まれていなかったことと思います。1995320日、東京の地下鉄(千代田線、丸ノ内線、日比谷線)の複数の車両内に化学兵器サリンが蒔かれ、13人が死亡し、約6300人が負傷するという前代未聞の同時多発テロが起こりました。

 

この事件が起こったとき、私は小学5年生でした。117日に起こった阪神・淡路大震災と共に、この地下鉄サリン事件は私の心にも強烈に刻み込まれています。オウム真理教の事件の影響もあり、私と同世代の人の中には、宗教とは「怖いもの」「危ないもの」というイメージを持っている人が多いように思います。

 

小学生だった私には事件の詳細までは分かりませんでしたが、その後、成人してからオウム真理教による一連の事件を調べたり、地下鉄サリン事件を経験した人々のインタビューを文章にし直した村上春樹氏の『アンダーグラウンド』(講談社文庫、1999年)を読んだりし、オウムによる事件の類を見ない残虐性、規模の大きさに改めて戦慄を覚えました。地下鉄サリン事件によって13人が亡くなり、約6300人が負傷した――数字で見るだけではそこで終わってしまいますが、そこには、一人ひとりのかけがえのない人生があったことを思います。そのかけがえのない人生が、その日を境に奪われてしまった。または、大きく変えられてしまった。亡くなった方のご家族、体に重い後遺症が残った方、心に癒されることのない傷が残った方、いまだ多くの人々が言葉にできぬ苦しみを抱えつつ生きていることと思います。

 

村上春樹氏は『アンダーグラウンド』の序において、「まず想像していただきたい」と読者に呼びかけます。《ときは一九九五年三月二〇日、月曜日。気持ちよく晴れ上がった初春の朝だ。まだ風は冷たく、道を行く人々はみんなコートを着ている。昨日は日曜日、明日は春分の日でおやすみ――つまり連休の谷間だ。あるいはあなたは「できれば今日くらいは休みたかったな」と考えているかもしれない。でも残念ながらいろんな事情で、あなたは休みをとることはできなかった。

 だからあなたはいつもの時間に目を覚まし、顔を洗い、朝食をとり、洋服を着て駅に向かう。そしていつものように混んだ電車に乗って会社に行く。それは何の変哲もない、いつもどおりの朝だった。見分けのつかない、人生の中のただの一日だった。

 変装した五人の男たちが、グラインダーで尖らせた傘の先を、奇妙な液体の入ったビニールパックに突き立てるまでは……》(『アンダーグラウンド』、3132ページ)

なぜこのような事件が起こってしまったのか、私たちの社会は、なぜこのような破壊的カルト宗教・テロ組織が生まれることをゆるしてしまったのか。死刑は執行されてしまいましたが、私たちはそれぞれこのオウム事件を「終わらない問い」として考え続けることが求められていると思います。

 

 

 

社会から見失われつつある「人間の大切さ」

 

オウム真理教で説かれていた教えの一つに、「人の命を奪うことがむしろその人の救済につながる」というものがありました。後期密教の教えの一部を拡張させ、自分たちの行為を正当化するために悪用したものです。これ以上なく身勝手な考え方であり、カルト宗教が極端化するとここまで行ってしまう、ということの表れでもあります。 

  究極的な価値のためには他者の命を犠牲にしてもよい、という誤った考え方。このような考え方に対して、私たちは「否」を唱えねばなりません。

 

 けれども一方で、オウム真理教ほど極端なものではなくても、私たちの社会を見渡してみると、「何か絶対的な価値のためには他者を犠牲にしてもよい」という考え方が見え隠れしているようにも思います。

 

私たちはそれぞれ、自分が重きを置くものをもっていると思います。重きを置くものとは、ある人にとっては「神」や「救い」であるかもしれません。ある人によっては、「国」や「民族」であるかもしれません。またある人によっては自らが属する「組織」であるかもしれません。または、「経済の発展」、または、つまるところは「自分の利益」であるかもしれません。そのような価値のために、他者を犠牲にしてしまう、ということは、私たちの社会の至るところで起こっているように思います。

 

このような状態で軽んじられてしまっているのは、「人」です。日々新聞やテレビで報じられるニュースを見ると、私たちの社会がいかに人間を大切にせず、軽んじる社会になりつつあるかが分かります。「人間の大切さ」ということが見失われつつあるのが、現在の私たちの社会なのではないでしょうか。

 

 

 

「神が人となった」という信仰

 

改めて、ご一緒に聖書の言葉を読んでみたいと思います。本日の聖書箇所に、このような言葉がありました。テモテへの手紙一316節《キリストは肉において現れ、/“霊”において義とされ、/天使たちに見られ、/異邦人の間で宣べ伝えられ、/世界中で信じられ、/栄光のうちに上げられた》。

 

 本日は、特に、冒頭の《キリストは肉において現れ》という言葉に注目してみたいと思います。ちょっと分かりにくい表現ですが、ここでの《肉》という言葉は「肉体をもった人」という意味で使われています。つまりここでは「神(キリスト)が人となった」ということが言われています。

 

キリスト教固有の信仰として、「神が人間になった」というものがあります。神が肉体をもって人となった、それがイエス・キリストという存在である。この信仰が、他の宗教とキリスト教とを分ける大きな特徴となっています。

 

キリスト教では、イエス・キリストは修行をつんで、神のような存在になった、とは捉えていないのですね。キリスト教においては、人間が神になることはありません。そうではなく、イエス・キリストはもともと神であったが、2000年前のあるとき、肉体をとって人間となった、と捉えているのです。思えば、何とも不思議な考え方ですね。「人間が神になった」のではなく、「神が人間になった」。私たちと同じ肉体をもち、私たちと同じように喜び、傷つき、涙し、笑う一人の人間として――。

 

 

 

私たち一人ひとりが大切な存在というメッセージ

 

クリスチャンではない人にとっては、この点が最も不可思議に思われるかもしれません。「神が人間になった」なんて、信じられない、という方もいらっしゃることでしょう。

 

信じる・信じないの問題とは別に、「神が人間になった」という考え方は、私たちに大切なメッセージを発信してくれている、と私は受け止めています。それは、「神は自ら人間になるほどに、私たち人間を大切に想っておられる」というメッセージです。

 

神さまは私たち人間を大切に想うあまり、自ら、私たちと同じ人間となってくださった。それほどまでに、神の目に、私たち一人ひとりが大切な存在なのだ、というメッセージを私は受け止っています。新約聖書のヨハネによる福音書にはこのような言葉もあります。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された316節)

 

聖書は「神を信じることの大切さ」を教えてくれる書であると同時に、「人間の大切さ」を教えてくれる書です。そしてそれは、神さまの目から見た「人間の大切さ」です。イエス・キリストが私たちに伝えてくださったこと。それは、「神さまの目から見て、私たち一人ひとりがかけがえなく貴い」という真理です。

 

神さまの目から見て、あなたという存在は、かけがえのない存在であること。「かけがえがない」ということは、言い換えれば、「かわりがきかない」ということです。私たちはそれぞれ世界にただ一人の、かわりがきかない存在なのであり、だからこそ大切であるのです。私たちの心、体、魂、それらは世界にただ一つのものであり、かわりがきかないものです。そのかけがえのないあなたが、誰かのために犠牲にされるということは決してあってはなりません。

 

 

 

互いを大切にするための「道」を 

 

先ほど、私たちの社会では、「人間の大切さ」が見失われつつある、ということを述べました。そのような中にあって、「人間の大切さ」を徹底して伝えるイエス・キリストのメッセージは、クリスチャンであるかどうかを超えて、重要な指針となってくれるものであると思います。私たち一人ひとりが、自分らしく、喜びをもって生きてゆくことができること、それが私たちに対する神さまの願いであると信じています。

 

 本日78日(日)を、私たち花巻教会が属する日本基督教団は「部落解放 祈りの日」として定めています。あらゆる差別の廃絶、すべての差別からの解放を共に祈る日です。

私たちの社会にはいまだ、さまざまな差別があります。部落差別、障がい者差別、セクシュアル・マイノリティ差別、性差別、沖縄差別、アイヌ差別、在日外国人差別。私たち自身が他者を差別したり見下したりしてしまう心をもっていることを自覚しつつ、互いに理解し合い学び合うことを通して、社会から少しずつ差別を無くしていけるようにと願います。

 

 神さまが私たち一人ひとりを大切にしてくださっているように、私たちも互いを大切にすること。そのための「道」を共に歩んでゆくことができますよう、ご一緒に祈りを合わせてゆきましょう。