2018年5月13日「一つとなるため、喜びが満ちあふれるため」

2018513日 花巻教会 主日礼拝説教

 聖書箇所:ヨハネによる福音書17113 

「一つとなるため、喜びが満ちあふれるため」

 

  

東北学院 春季特別伝道礼拝メッセージ

 

先週の火曜日、東北学院大学にて、春季特別伝道礼拝のメッセージを担当する機会が与えられました。礼拝の場所は多賀城キャンパスのチャペルでした。多賀城キャンパスには私も初めて行きました。700名ほどの学生の皆さんが出席くださっていたようで、たくさんの学生の皆さんの前でお話をすることができ、感謝でした。

 

聖書箇所として取り上げたのは出エジプト記のモーセの召命の場面です。メッセージのタイトルは「『なかったこと』になさらない神」としました。ちょっと不思議なタイトルに感じられる方もいらっしゃるかと思いますが、これは私が最近よく考えていることで、ぜひ学生の皆さんにお伝えしたいと思ってお話ししました。本日の聖書箇所とも深いつながりのある内容ですので、そこでお話しした内容を少しお話ししたいと思います。

 

 

 

「なかったこと」になさらない神

 

最近のニュースを見ていると、問題があたかも「なかったこと」にされている状況が多々起こっているように思います。重大な問題がうやむやにされてしまっていることが、さまざまな場面で起こっています。

 

問題が「なかったこと」にされてしまうということは、それによって傷ついている人の存在も「なかったこと」にされるということを意味します。それによって傷つき、いまも傷つき続けている人の痛みが「なかったこと」にされてしまうこと。これは決して見過ごすことはできないことです。自分の痛みが周囲から「ない」ものとされること、それは私たちにとって最も辛いことの一つであると思います。

 

東北学院の伝道礼拝では、このことの具体的な出来事として、最近ニュースでもよく取り上げられているセクシュアル・ハラスメントの問題、また、原発事故と放射能の問題についてお話しをしました。

私たちの社会では現在、様々な場面において、人々の痛み、苦しみが「なかったこと」にされている状況があります。

 

 聖書を読んでいて思わされるのは、神さまは私たち人間の痛み、苦しみを決して「なかったこと」にはなさらない方である、ということです。そのことを私たちに伝える代表的な書の一つとして、旧約聖書の『出エジプト記』があります。「出エジプト」というのは皆さんもご存じのように、エジプトで奴隷であったイスラエルの民を、神がモーセという人物を通して救い出した出来事のことを言います。

 

 この「出エジプト」の物語は、エジプトで奴隷とされ苦しんでいるイスラエルの人々の叫び声を神が聴く、というところから始まります。過酷な労働を強制され、人間としての尊厳をないがしろにされているイスラエルの人々の痛みを「なかったこと」にはしないため、神さまはモーセという人物を指導者として立たせられます。

 

聖書箇所として取り上げたのは、出エジプト記3114節のモーセが指導者として神に呼び出されるところを描いた場面です。ある日、モーセはホレブという山で、柴の木に炎のようなものが宿っているという不思議な光景を目にしました。神はその炎のようなものの中からモーセに語りかけます。

 

 この対話の中で、神が自分の名前を明らかにする場面が出て来ます。その名前とは、《わたしはある》というものでした。《神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」(出エジプト記314節)

 

この不思議な名前をどう捉えるかは、様々な解釈があります。正解も一つではないでしょう。私としては、この《わたしはある》という名前の中に、神が「なかったこと」になさらない方であることが示されていると受け止めています。

 

「ある」というのは、言い換えれば、「存在している」ということです。「存在している」ことを力強く宣言しているのが、「ある」という言葉です。

 

 先ほども申しましたように、私たちの社会には、存在しているのに、あたかも存在していないかのようにされている痛みがあります。神さまはそれら痛みを見出し、そこに光を当て、「ある=確かに存在している」と宣言してくださっている方です。

 

わたしはあなたの痛みを決して「なかった」ことにはしない。それは「ある!」。わたしはあなたの存在を決して「なかった」ことにはしない。それは「ある!」――。《わたしはある》という神さまの名前から、私はこの神さまの決意の声を聴く想いがいたします。

 

痛みが「なかったこと」にされることがない社会を創ってゆくために、それぞれが自分にできることを考え、行ってゆくことができますように、というお祈りをもってメッセージを締めくくりました。

 

 

 

 

 

《わたしはある》 ~イエス・キリストが体現してくださった神の名

 

以上、先日東北学院の伝道礼拝で語ったメッセージの内容を皆さんにもご紹介しました。本日のヨハネによる福音書でも神さまの名前について語られています。「御名」という言葉がそれにあたります。「御名」は日本語訳聖書特有の表現ですが、「神の名」を意味する敬語です。

 

本日の聖書箇所の中には、たとえばこのような言葉がありました。ヨハネによる福音書176節《世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました》。

 

 ここでの「わたし」とは、イエス・キリストのことです。主イエスは生前、その言葉と振る舞いとをもって、神さまの名――《わたしはある(ヨハネによる福音書82428節など)――を人々に現わしてくださった、というのですね。旧約聖書でモーセに指し示された《わたしはある》という神の名は、新約聖書においてイエス・キリストを通して完全に現わされたのだ、と語られています。

 

 主イエスはその言葉と振る舞いを通して、《わたしはある》という神さまの名前を、その決意を完全に体現してくださいました。社会から見えなくされている人々と自ら出会ってくださり、その存在を見出し、その痛みに光を当て、「ある=確かに存在している」と宣言してくさいました。神さまの目に大切な一人ひとりの存在が、決して「なかったこと」にされないために――。私たち一人ひとりに、神さまからの尊厳の光をともしていってくださいました。

 

 

 

主イエスの最後の祈り

 

 本日の聖書箇所は、ヨハネによる福音書において、主イエスの最後の祈りに相当する部分です。主イエスは十字架におかかりになる直前、弟子たちに対してメッセージを語られましたが、そのメッセージを締めくくるのが本日の祈りです。この祈りを終えられた後、主イエスは捕らえられ、十字架刑に引き渡されることとなります。この最後の祈りの中で、主イエスは弟子たちのために、そして私たち一人ひとりのために、このように祈ってくださいました。

 

11節《わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです》。

 

主イエスはこの後、十字架刑に引き渡され、悲惨な死を迎えられることとなります。弟子たちの目に、主イエスのお身体は見えなくなります。しかし、ご自分がいなくなった後も、《わたしはある》という名前によって、弟子たちを守ってくださるように、と神さまに祈ってくださったのです。主イエスが生前、《わたしはある》という神さまの名をもって弟子たちを守ってくださったように。これからも、御名によって、残された人々を守ってほしい、と祈ってくださいました。

 

 

 

十字架上の《渇く》という叫び ~私たちと一つとなるため

 

 私たち一人ひとりの存在を見出し、光を当て、「ある=確かに存在する」と宣言してくださった主イエス。しかし主イエスご自身は、ご生涯の最期、存在を「なかったこと」にされるという経験をなさいました。周囲から見捨てられ、十字架上で悲惨な死を迎えられるという経験をされたのです。

 

 ヨハネによる福音書は、主イエスが十字架上で《渇く》と言って息を引き取られたことを証しています(ヨハネによる福音書1928節)。この《渇く》という言葉は、自身の存在を「なかったこと」として全否定されたことの叫びであると私は受け止めています。

 

 先ほど、自分の痛みが周囲から「ない」ものとされることは私たちにとって最も辛いことの一つであるということを述べました。自分の存在が顧みられないとき、私たちは痛みと共に、或る渇きを感じています。どれほど水を飲んでも癒されない渇き、魂の渇きです。現在、多くの人が、心の奥底にその渇きを抱きながら、懸命に生活しているのではないでしょうか。

 

その渇きを、主イエスは十字架上で経験してくださいました。私たちが経験するあらゆる渇きを――自分の存在が顧みられないことの痛み、自分の存在が軽んじられることの痛み、自分の存在そのものが否定されることの渇き、存在を抹殺されることの渇き……。それら痛みと渇きをすべてご自分のものとして、主イエスは十字架上で《渇く》と叫んでお亡くなりになりました。そこまでして、主イエスは私たちそれぞれの内にある渇きと結びついてくださいました。私たちと一つになるために。

 

 

 

命の水に与るとき ~私たちの内から泉が湧き出で、《わたしはある》が響き渡る

 

 と同時に、主イエスはその私たちの渇きを、ご自身のお身体を通して、癒そうとしてくださっています。私たちの渇きと結びつきながら、同時に、私たちの渇きを癒そうとしてくださっています。私たちの心に喜びが満ちあふれることこそが、主イエスが願ってくださっていることだからです。

 

 ヨハネによる福音書の4章には、次の主イエスの言葉が記されています。《この水を飲む者はだれでもまた渇く。/しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る(ヨハネによる福音書414節)

 

 どこにその命の泉があるのでしょうか。ヨハネによる福音書は、他ならぬ、十字架の主の内に、その泉があることを語っています。《渇く》と叫ばれた主イエスのお身体の内から、命の水がわき出ているのだ、と。その命の水を飲むとき、私たちは《わたしはある》という神さまの名前を知ります。

 

 十字架の主こそは、どんな権力も、暴力も、「破壊し得ないこと」(M・エリアーデ)があることを伝えてくださっているものです。どれほどこの世界から「なかったこと」にされようとも、神さまは、愛する御子の存在を「なかったこと」にはなさらなかった。神さまは、十字架の主の存在そのものを通して、《わたしはある》という神さまの名前を全世界に鳴り響かせられました。十字架の御子のお身体の内に、永遠の命に至る水を湧き出でさせられました。

 

この命の水に与るとき、私たち自身も、自分たちの存在が何ものによっても否定されることがないことを知ります。自分たちの存在が何ものによっても粉砕されることがないことを知ります。

 

この命の水を飲むとき、私たち自身の存在の内にも、泉が湧き出ていることに気づきます。そうしてその場所から、《わたしはある》という神さまの名が響き渡っていることを知ります。

 

そのとき、主イエスが願ってくださったように、喜びが私たちの内に満ちあふれるようになるでしょう。この喜びは、生前、主イエスがご自身の内にいつも満ちあふれさせておられた喜びです。

どんな権力も、どんな暴力も、私たちに与えられたこの喜びを奪い去ることはできません。私たちの存在を否定することはできません。私たちの存在の奥底から鳴り響く神さまの名――《わたしはある》――がいつも私たちを守っていてくださるからです。

 

 最後に改めて、主イエスが私たちのために祈ってくださり、いまも祈り続けてくださっている祈りに私たちの心を向けたいと思います。

聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです