2017年1月15日「実によって木を知る」

2017115日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書71523

「実によって木を知る」

 

 

マタイによる福音書71523節《「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。/あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。/すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。/良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。/良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。/このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」/

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。/かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。/そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 

 

 

こどもさんびか『きみがすきだって』

 

先ほど、教会学校のメッセージの後に、ご一緒にこどもさんびか132番『きみがすきだって』(詞・曲:Andreas Ebertを歌いました。子どものための讃美歌であるけれども、大人も感動する曲ですよね。私も大好きな讃美歌です。

 

1 ラララララ……

「きみがすきだ」って だれかぼくに いってくれたら ソラ 元気になる

2 ラララララ……

「きみはだいじ」って だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく

3 ラララララ……

「きみといくよ」ってだれかぼくに いってくれたら ホラ その気になる

4 ラララララ……

「きみがすきだよ、ともだちだよ」 イェスさまのこえが きこえてくる》

 

この曲に私たちが感動するのは、自分の気持ちを代弁してくれているように感じるからかもしれません。たとえば、2番《「きみはだいじ」って だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく》。「あなたが大事」って、誰かが自分に言ってくれたら、ちょっと「どきょうがつく」。生きてゆく勇気が湧いてくる。これはまさに私たちの実感であると思います。私たちの心の深い所にある願いと言ってもよいかもしれません。

 

4番では、他ならぬイエスさまが、私たち一人ひとりにそう言ってくださっている、と歌います。《「きみがすきだよ、ともだちだよ」 イェスさまのこえが きこえてくる》――。

 

私たちは普段、「きみが好きだよ」「あなたが大事だよ」って言ってもらえる経験というのは、少ないものなのかもしれません。それは大人も、子どもも、そうであるかもしれません。私たちにはそれぞれ、かけがえなく大切な存在がいます。それは家族であったり、友人であったりするでしょう。でも意外と、「あなたが大事だよ」って言いあうことって、少ないかもしれません。でも本当は、その言葉が聞きたい、と願っている自分もいます。《「きみはだいじ」って だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく》。

 

「あなたは大事」って言ってもらえたとき、もしくは言葉ではなく何か行動でそれを示してもらえたとき、歌にあるように、私たちは生きる勇気が湧いてきます。

 

 

 

「あなたが大切だ」

 

先日の1230日、ノートルダム清心学園理事長であった渡辺和子さんが天に召されました。晩年の著書『置かれた場所で咲きなさい』が非常に多くの方に読まれていますが、その渡辺和子さんが愛するということについて10代の人々に贈った文章があります。

 

キリスト教が初めて日本に渡ってきたとき、「愛」という言葉を宣教師たちは「ご大切」と訳しました。渡辺和子さんは、「愛する」とは、言い換えると、「大切にしている」ということであることを述べた後、このように記します。

 

《“大切にする”ということで、ひとつ思い出すことがあります。以前、ある中学2年生が自死しました。そのときある先生は「あれだけ『いのちは大切だ』『いのちを大切にしなさい』と口をすっぱくして言っていたのは、いったい何だったのだろうか」とおっしゃいました。その出来事を授業で話したとき、ある学生さんに「最近のCMに『“命は大切だ”“命を大切に”、そんなこと、何千回何万回言われるより、“あなたが大切だ”、だれかが、そう言ってくれたら、それだけで生きていける』というのがあるのをご存じですか?」と言われました。

 そのとおりなのです。私たちは「いのちは大切よ」「いのちを大切に」とことばで言われるより、相手が“本当に自分を大切に思ってくれている”ということを感じることによって、生きる希望がわいてきます。

 どうかみなさんも、お友だちやご家族に、「私にとって、あなたは大切な人なのだ」と伝えられる人になってください。そして口先だけではなく、どうかその大切な人と「どんなことがあっても一緒に生きていこう」と思える人になってください》(髙橋貞二郎監修『10代のキミへ いのち・愛・性のこと』、日本キリスト教団出版局、2016年、67ページ)

 

 渡辺和子さんが学生さんから教えてもらった《“命は大切だ”“命を大切に”、そんなこと、何千回何万回言われるより、“あなたが大切だ”、だれかが、そう言ってくれたら、それだけで生きていける》という言葉。まさにその通りだと私たちも深く納得する言葉です。これは先ほどのこどもさんびか『きみがすきだって』と共通することですね。『きみがすきだって』2番《「きみはだいじ」って だれかぼくに いってくれたら チョット どきょうがつく》。

 

 多くの人がいま、この愛の言葉を見失い、この愛の言葉に飢え渇いている、という現状があるのではないか、とも思わされます。

 

 

 

意外と伝わっていない「大切」という気持ち

 

「愛」――だれかを大切に思う気持ち。それは、すべての人に宿されている、と私は考えています。愛をもっていない人は、いない。そう私は信じています。私たちにはそれぞれ、大切な人がおり、その人を大切に思う気持ちが宿されています。そしてその気持ちは、神さまの愛につながっています。

 

 一方で、ではなぜ多くの人が、愛に飢え渇いているのか。それは一つには、自分で自分の内にある愛につながることができていない、ということ。そしてもう一つには、自分の内にある愛を、相手に伝わるように表現することができていない、ということがあるのではないかと思います。

 

「あなたが大事」、そう心の中で思っていても、意外と、相手に伝わっていないことがありますよね。それを言葉にしないと、また何か行動で表さないと、伝わっていないということがあります。

 

それは家族など、近しい間柄でもそうです。いや、家族だからこそ、そういうことが絶えず起こっているのではないかと思います。夫婦の間で、親と子の間で、そのようなすれ違いというのは繰り返し起こっていることでしょう。「あなたが大事」という気持ちを胸の内にしまい込んでいては伝わらない、ということがあるのですね。伝わっているはずだ、と思っていても、そうではないことがある。

 

だからこそ、私たちは自分の中の愛を――「あなたは大事」という気持ちを言葉にしようとすること、はっきりと行動に表そうとすることが大切であるのでしょう。そういう風に、日々意識的に、自分の中の「大切」という気持ちを大切な相手に具体的に伝えようとすること、それがすでに「愛する」という営みにつながっているのではないでしょうか。

 

私たちは一人ひとり、自分の内に確かな「愛」をもっています。けれども、「愛する」ということは、なかなかできていない。心の中の「愛」を、「愛する」という行動へとつなげてゆくことの大切さを、私もこの度改めて思わされました。

 

 

 

《「こころ」は/だれにも見えないけれど/「こころづかい」は見える》

 

東日本大震災の直後、ACジャパンのコマーシャルで次の言葉が流れていました。《「こころ」は/だれにも見えないけれど/「こころづかい」は見える/「思い」は/見えないけれど/「思いやり」は/だれにでも見える》。詩人・宮澤章二さんの詩の一節(を少しアレンジしたもの)です。確かに「心」は見えませんが、その心の中の想いが「心遣い」として表された時、それは目にも見えるものとなります。

 

本日の聖書の言葉、マタイによる福音書717節は《すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ》と語ります。《良い木》とは、私たちの内にある良い想い、すなわち、人を大切に思う気持ちであるということができるでしょう。《良い実》とは、その気持ちを具体的な言葉や行為として表すことを意味しています。マタイ福音書は、心の中の良い想いを、心の中にとどめているだけではなくて、行為として表すことの大切さを伝えています。

 

 

 

一人ひとりが、「あなたは大事」という伝言を携えて

 

 聖書全体を通して私たちに伝わってくるメッセージ、それは「あなたは大事」という、神さまからのメッセージです。旧約聖書のイザヤ書は「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」という神さまの言葉を伝えています。私たち一人ひとりに、「あなたは大事」ということを伝えてくれている言葉です。

 

 神さまはその想いを胸の内にとどめておくということをなさいませんでした。「あなたは大事」という想いを、はっきりと言葉にしてくださいました。神さまの愛が実を結んだ存在、それがイエス・キリストであると、私たち教会は受け止めています。

 

「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」。そのことをイエス・キリストを通してはっきりと言葉にし、はっきりと行動として表してくださったのです。「愛する」ということを実行してくださいました。

 

 私たちは礼拝において、神さまの言葉であるイエス・キリストと出会います。いま、自分に対してはっきりと語られている神さまの愛の言葉を聴きます。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」――。

 

 そしてまた、この礼拝から押し出された私たちは、自分自身が、この神さまの言葉を携えた者となります。

 

 聖書にどれだけ「神は愛である」と記されていても、私たちは日々の生活の中で、それを心で実感できないことがあります。それは、その通りであるのかもしれません。なぜなら、神の愛とは多くの場合、人を通して、伝えられるものであるからです。私たちを通して、実を結ぶものであるからです。

 

私たち一人ひとりが、誰かへの「あなたは大事」という伝言を携えて生きています。私たちはその大切な伝言を神さまから託されています。神さまから、大切な働きを託されています。

 

「あなたは大事」というその想いを大切な人に向けることができますよう、私たちが日々の生活の中でそれをはっきりと言葉にし、行動に表してゆくことができますようにと願います。