2017年10月8日「「種を蒔く人」のたとえ」

2017108日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書13123

「「種を蒔く人」のたとえ」

 

 

 

ミレーの「種を蒔く人」

 

本日はご一緒にイエス・キリストが語られた「たとえ話」に耳を傾けてみたいと思います。新共同訳聖書では《「種を蒔く人」のたとえ》とタイトルが付されています。

 

はじめに、イメージを膨らませていただくために、一枚の絵をご覧いただきたいと思います。ミレーの「種を蒔く人1850年頃)の絵です。とても有名な絵ですね。ほぼ同じ構図のものが一枚はボストン美術館、一枚は山梨県立美術館に所蔵されています。

 

絵の中の男性は、肩から、種がずっしりと入った種袋をぶらさげています。男性はその種袋から右手で種を取り出し、それを畑に振りまいています。前をまっすぐ見つめ、右足を力強く前を踏み出しながら、思い切りよく種を蒔いている様子が印象的です。

 

この種の蒔き方というのは、私たち日本に住む者の種蒔きのイメージとは異なっているものですね。種まきというと、土の中に一粒ずつ、もしくは数粒ずつ植えてゆくというイメージをもっている方が多いかと思いかもしれませんが、ここで描かれているのはたがやした畑にたくさんの種をふりまいてゆくやり方です。

 

 本日のイエス・キリストの「種を蒔く人」のたとえ話でイメージされているのも、このような種蒔きの様子であるようです。もしかしたら、ミレーもこのたとえ話を思い浮かべながら、この絵を描いたのかもしれません。

 

 

 

「種を蒔く人」のたとえ

 

この種蒔きの仕方を踏まえますと、本日のたとえ話において、道端や、石だらけの所や、茨の間に落ちる種がある、ということも理解できます。多くの種はたがやされた土の上に落ちますが、少量の種は、種まく人の意図に反して、道端に落ちることがあったであろうからです。

 

 改めてたとえ話の部分を読んでみましょう。マタイによる福音書1339節《「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。/蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。/ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。/しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。/ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。/ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。/耳のある者は聞きなさい。」》。

 

 このたとえ話では、道端に落ちた種はすぐに鳥に食べられてしまった、と語られています。次に、石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽は出しますが、根がないために枯れてしまった。次に、茨の間に落ちた種は、芽を出して成長はしますが、茨に妨げられ実を結ぶことができなかった。最後に、「良い土地」に落ちた種は実を結び、百倍、六十倍、三十倍にもなったと語られています。「良い土地」とは、よく耕された、養分と水分をたっぷり含んでいる土地がイメージされているのでしょう。「良い土地」に落ちた種は、たくさんの実を結ぶ――このたとえ話を主イエスからガリラヤ湖のほとりで聴いた人々の心は、豊かに実った黄金色の畑の光景を思い浮かべたことでしょう。ちょうどいま私たちの住むこの岩手でも、稲が実って、田んぼが黄金色に輝いていますね。

 

 

 

たとえ話の解説

 

 主イエスはたとえ話を語られる時、あえて答えはおっしゃらず、聴く者に自分で考えるように促されることが多いのですが、本日のたとえ話には珍しく解説が付されています1823節)

 

 このたとえ話において、種とは、「言葉」であると言われています。神さまのメッセージを伝える「言葉」です。

 

 では、種が蒔かれる土地とは何でしょうか。それは、私たちの「心」であると言われています。種蒔きにおいて蒔かれる種とは神さまの言葉であり、それを受け止める土地は私たちの心の在りようであると解説されています。

 

「道端」とは、神さまの言葉が蒔かれても、それを受けとめない私たちの心の在りようを示しています。道端に落ちた種がすぐに鳥に食べられてしまうように、私たちの心が御言葉を拒否したままでいるので、外から悪い存在が来て、簡単に奪い取られてしまうというのですね。

 

「石だらけの所」もやはり、私たちの心の在りようを示しています。石だらけで土の少ない所に落ちた種は芽は出しますが、根を張ることができず、枯れてしまいます。それと同様に、私たちも神さまの言葉を喜んで受け入れたとしても、その言葉が心の中に根付いていないなら、困難が起こったときにその言葉を見失ってしまう、ということが語られています。

 

「茨の中」はどうでしょうか。茨の中に落ちた種は芽を出し成長はしますが、茨にさえぎられて、身を結ぶまでには至らない。それと同様に、御言葉を受け入れても、私たちの心が思い煩いや誘惑に覆いふさがれているとしたら、その御言葉は実を結ぶに至らないと語られています。

 

最後の「良い土地」もやはり、私たちの心の在りようを表しているわけですが、それは、《御言葉を聴いて悟る》心であると語られています。私たちの心が御言葉を聴いて悟るのならば、百倍、六十倍、三十倍もの実を結ぶのだ、と。一面、黄金色の輝く麦畑のように。

実を結ぶ、というのは、その言葉が実際に行為として、生き方として、現実として結実してゆく、ということを意味しています。

 

 

 

《良い土地》 ~「人の痛みが分かる心」

 

豊かに実を結ばせる《良い土地》とは、一体どのような私たちの心の在りようを指し示しているのでしょうか。神さまの言葉を受け入れ、それを根付かせ、実を結ばせる心とは、どのようなものなのでしょうか。

 

さまざまな解釈ができるかと思いますが、本日は、この《良い土地》を、「人の痛みが分かる心」と受け止めてみたいと思います。人の痛みを「我がこと」として感じる柔らかな心に、神さまの言葉は届き、根を張り、豊かに実を結んでゆくのだ、と受け止めたいと思います。

 

本日の聖書箇所のたとえ話とその解説の間に、主イエスによる警鐘の言葉が挿入されています1017節)1415節《あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、/見るには見るが、決して認めない。/この民の心は鈍り、/耳は遠くなり、/目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、/耳で聞くことなく、/心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない》。

 

主イエスは旧約聖書のイザヤ書の言葉(イザヤ書6910節)を引用しながら、当時の一部の人々を批判なさっています。《この民の心は鈍り…》とありますが、これは他者の痛みに対して鈍感になっている私たちの心の在りようが指し示されているのだ、と本日は受け止めたいと思います。私たちが心を頑なににし、人の痛み――ここには自分自身の痛みも含まれます――に対して無感覚になっているとき、私たちは神さまの言葉を拒否してしまう。または、一時的に受け入れても、本当には根付かないままになってしまうのではないでしょうか。また、言葉を聞いたままで終わって、実際の行動には結びつかないままになってしまうのではないでしょうか。

 

 

 

主の憐れみにより、互いの痛みを「我がこと」とし

 

「他者の痛みを我がことのように感じること」――これは確かに、なかなかできることではありません。自分が経験したことのない痛みを理解することは私たちには難しいということもあります。そのような私たちの率直な姿を見つめつつ、しかし、私たちは人の痛みを「理解しようとし続けること」はできると思います。そして、その痛みと「共に立とうとすること」はできるでしょう。

 

カトリックのフランシスコ会の本田哲郎神父は最後の23節をこのように訳しています。《『適した地』にまかれたとは、そのできごとを耳にして、心に感じてともに立つ人のことである》。

 

 主イエスはまさに、人々の痛みを我がことのように感じ、その痛みと共に立ってくださった方でした。社会から見えなくされている、しかし確かに存在している無数の痛み。その痛みをご自身の痛みとしてくださり、共に負ってくださったのがイエス・キリストその方です。福音書に記録されている主イエスの言葉は、この「憐れみ」の心から発されたものです。かつてイザヤはこの主のお姿を預言し、《彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。…(イザヤ書533節)と語りました。

 

 私たちがいま生きている社会もまた、無数の痛みで満ちています。多数の都合や利益によっても一部の人々に負わされている痛みがあります。それら痛みを人ごととするのではなく、自分のこととして学び、それら痛みと共に立とうとする心――その心を私たちが持つことを主は願ってくださっています。その心こそが、神さまの言葉を受け入れる《良い土地》として用いられてゆくのだと信じています。

 

私たちが互いの痛みを「我がこと」として理解しようとするとき、たとえ困難があっても神さまの言葉は失われることなく、私たちの心により深く根付いてゆくでしょう。神さまの言葉は、私たちの行動や実際の生き方と、より密接に結びついてゆくことでしょう。

 

私たちの頑なな心が主の憐れみにより、再び柔らかなものとなりますように。私たちが互いの痛みを理解し合い、共に歩んでゆくことができますようにと願います。