2017年11月12日「五つのパンと二匹の魚」

20171112日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書141321

「五つのパンと二匹の魚」

 

 

《一羽の弱ったコマツグミを/もう一度、巣に戻してやれるなら》

 

日々の生活の中で、私たちは時として無力感に囚われることがあります。困難な事態に直面したとき、ものごとがなかなかうまくいかないとき、また悲惨な出来事を前にしたとき……。私も時折、無力感を覚え気持ちが落ち込んだようになります。

 

そのようなとき、ふと心に浮かんでくる詩があります。19世紀のアメリカの詩人エミリー・ディキンソンという人の詩です。

 

《一つの心が壊れるのをとめられるなら

 わたしの人生だって無駄ではないだろう

 一つのいのちの痛みを癒せるなら

 一つの苦しみを静められるなら/

 

 一羽の弱ったコマツグミを

 もう一度、巣に戻してやれるなら

 わたしの人生だって無駄ではないだろう》

(長田弘氏訳、『すべてきみに宛てた手紙』、晶文社より)。

 

If I can stop one Heart from breaking

 I shall not live in vain

 If I can ease one Life the Aching

 Or cool one Pain

 

 Or help one fainting Robin

 Unto his Nest again

 I shall not live in Vain.

 

詩の中に出て来るコマツグミとは渡り鳥の一種で、アメリカでは身近な鳥です。コマツグミの卵は美しい青色をしていて、トルコ石に例えられることもあるそうです。一羽の弱った鳥をもう一度巣に戻してられるのなら、自分の人生は無駄ではないだろうとこの詩は語っています。

 

 普段の生活の中で、何か「大きなこと」ができなければいけない、とついつい私たちは思ってしまいがちです。人の目に何か目覚ましい働きをしなければいけないのではないかと思ってしまう。しかし私たちはなかなかそのような活躍ができるわけでもありません。ついつい他の誰かと比較して、何にもできていないように思える自分を見出してしまう。そうしてより無力感に陥ってしまうのです。

 

 けれども、引用した詩はこのように語っています。《一羽の弱ったコマツグミを/もう一度、巣に戻してやれるなら/わたしの人生だって無駄ではないだろう》。

 

今日という日、ニュースになるような華々しい働きをした人もいれば、この詩にあるように、誰にも知られず、弱った鳥をそっと巣に戻すことをした人もいます。私たちの目には、人の働きには「大きい」「小さい」の差があるように見えます。しかし、人の働きの大小は、本来、私たちには決められないことなのではないかと思わされます。私たちの目には「小さく」見えることにも、やはり大切な意味があるのです。

 

聖書は、私たちの目には「小ささ」や「弱さ」に見えることの内にキリストの力が働いていると述べています。《すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう(コリントの信徒への手紙二129節)

 

私たちの目には「小さく」見えることでも、神さまの目から見ると、そうではない。神さまから見ると、私たちのなすことに「大きい」「小さい」の差はない。いやむしろ、私たちの目には小さく見えることの中に、大切なことが隠れていることを聖書は伝えています。

 

 

 

五つのパンと二匹の魚

 

 先ほどお読みした聖書箇所は、イエス・キリストが五千人に食べ物を分け与えた場面です。たった五つのパンと二匹の魚を分け合ったとき、そこにいた五千人すべての人が満腹したという、いわゆる「奇跡物語」の一つです。最後の21節には男性だけで五千人であったと記されていますので、女性と子どもを含めると、そこにいた人々はもっと多かったということになります。とても不思議な物語です。このような奇跡物語が「ありえる」か「ありえないか」ということだけではなく、この物語がいまを生きる私たちにどのようなメッセージを語りかけているか、ということにご一緒に心を向けてみたいと思います。

 

改めて物語を見て見ましょう。本日の物語は洗礼者ヨハネが悲惨な死を遂げた直後に置かれています。洗礼者ヨハネのことをお聞きになった主イエスは、人里離れたところに退かれました。ヨハネの死の知らせを聞いて、お一人で祈りたいと思われたのでしょうか。けれどもそのことを聞いた群衆は、方々から歩いて後を追いました。主イエスは集まって来た人々をご覧になり、深く憐れまれ、病いをもつ人々をいやしてゆかれました。

 

そうしているうちに、夕方になりました。弟子たちは主イエスのそばに来て、言いました。《ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう15節)。夕方になり、皆疲れてお腹が減っているので、もう今日は解散にしましょう、と提案したのですね。

 

 弟子たちの言葉に対し、主イエスは意外なことをおっしゃいました。《行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい16節)。弟子たちはキョトンとしたことでしょう。数千人もの人々のための食料など、もちろん、そこにはなかったからです。かろうじて弟子たちが携えて来ていたのは五つのパンと二匹の魚だけでした。

 

弟子たちは言います。《ここにはパン五つと魚二匹しかありません17節)。すると主イエスは《それをここに持って来なさい》と言われ、集まっていた人々には草の上に座るようにと命じられました(19節)。弟子たちは首をひねりながら、しぶしぶ主イエスの言われることに従って五つのパンと二匹の魚を差し出したことでしょう。

 

 ここで改めて、弟子たちが直面していた状況を思い描いてみたいと思います。弟子たちの目に前には、疲れと空腹を覚えている五千人以上もの人々がいました。どこかからお腹を空かせた子どもの泣き声も聞こえていたかもしれません。自分たちの手元には、五つのパンと二匹の魚しかない。辺りが暗くなってくる中、確かに、もう解散せざるを得ないような状況です。

 

 弟子たちは膨大な数の人々に圧倒され、もはや自分にできることは何もないと感じていたのかもしれません。今日はもう解散して、各自で食べ物は用意してもらうしかない、と。心の内に無力感を覚えながら、主イエスに「今日はもう解散にしましょう」と提案したのかもしれません。この弟子たちの言葉からは、早く解散して人々が自分たちの目の前からいなくなることを心のどこかで望んでいるような印象も受けます。

 

 私たちは困難な状況を目の前にしたとき、その問題に対して心を閉ざすことで自分を守ろうとすることがあります。起こっている事柄の規模の大きさに対して、自身の許容量がオーバーになってしまうのですね。もしかしたら弟子たちもそのような心境であったのかもしれません。五千人以上もの人々に対して、自分たちにできることは何もない、と。

 

 

 

「あなたがたの手にあるものを、いま目の前にいる人々に分け与えなさい」

 

 主イエスはそのように無力感に囚われている弟子たちに対し、《あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい》とおっしゃいました。弟子たちはその言葉を五千人の人々に食べ物を与えなさいという意味で受け止めたわけですが、主イエスがおっしゃりたかったのはそのような無理難題ではなかったのではないか、と思います。大勢の人々のため、というより、いまあなたたちの目の前にいる人々のために、自分にできることをしなさい、ということをおっしゃりたかったのではないでしょうか。

 

弟子たちの手元にあったのはわずかな食糧でした。それを五千人の人々に与えようとすると、確かに、それは不可能なことです。けれども、そのわずかな食糧を、目の前にいる人々と分かち合うことはできます。主イエスが伝えたかったのは、「あなたがたの手にあるものを、いま目の前にいる人々に分け与えなさい」ということであったのだと本日は受け止めたいと思います。

 

 大勢の人々のために何ができるか、ではなく、いま目の前にいて苦しんでいるその人のために何ができるか。たとえ自分の手元にあるのがただ一つのパン、一匹の魚であったのだとしても、目の前にいる人とそれを分け合おうとすること。私たちの目には小さく、ささやかな行為であっても、神さまの目には「十分なこと」をしたと映っているのです。

 

 主イエスは弟子たちから受け取った五つのパンと2匹の魚をお取りになり、天を仰いで賛美の祈りを唱え、それを裂いて弟子たちにお渡しになりました。弟子たちはそのパンを人々に与えました。すると、すべての人が食べて満腹した、と福音書は記します。残ったパンの屑を集めると、十二の籠がいっぱいになったほどでした。

 

 この奇跡は、「五つのパンと二匹の魚を分け合う」という、人の目には小さく見える行為を用いて、神さまが豊かな恵みの業を成し遂げてくださるのだということを私たちに伝えています。私たちの目には小さくささやかな行為であっても、主イエスを通して、神さまの愛の御業へと変えられてゆくのです。

 

 

 

ご自身を一つのパンとして

 

手元にあった五つのパンと二匹の魚を分け合う――そのささやかな行為が、五千人以上の人々の必要を満たすような大きな働きへと、主イエスを通して、変えられてゆきました。私たち一人ひとりにできることは確かに小さなことかもしれませんが、いまの目の前にいる人のために自分にできることを心を込めて行おうとする時、主イエスは共に働いてくださいます。たとえ手元に一つのパンもなくても、私たちはその人のために祈ることはできるでしょう。私たちの内にともされたイエス・キリストの愛を分かちあってゆくことはできるでしょう。 神さまは私たちの手の中の小さなパンを祝福し、御心のままに豊かに用いてくださいます。

 

自分の手にあるものを、いま目の前にいる人々と分かち合うこと。これは他ならぬ主イエスご自身が、生涯を通して実行してくださったことでした。そしてご生涯の最期には、ご自身の体そのものを一つのパンとして、私たちに分け与えて下さいました。目の前にいる一人ひとりをかけがえのない存在として愛し、御自身の命を分け与えて下さいました。私たちのために裂かれたこの一つのパンから、神さまの大いなる恵みは溢れ出ました。私たちはいまも、この恵みに生かされ、育まれ続けています。ただ一つのパンを分け合うことのまことの豊かさを、主イエスは私たちに示し続けて下さっています。

 

 

 

かけがえのない一人の命の痛みを癒すために、自分にできることを

 

ニュースでは、毎日のように、悲惨な事件が報じられています。先日座間市で起こった事件について、皆さんも心を痛めていらっしゃることと思います。少しずつ事件の全容が明らかになってきていますが、辛くて私もテレビの報道を観ることができない状況です。ご遺族、関係者の方々に主の慰めがありますよう祈ります。9人もの若い人々のかけがえのない人生が奪われたあまりに悲惨な事件を前に、無力感に囚われてしまいそうですが、このようなことが二度と繰り返されないようにするためにはどうすればいいのか、私たちにできることを見出してゆきたいと願っています。ツイッターなどのSNSをどのように用いてゆくべきか、また、SOSを発している人々の声を受け止める場をいかにつくって行けるかなどさまざまな喫緊の課題が与えられています。

 

そのような課題に取り組むと共に、私たちのまなざしをいま目の前にいる人に向けることの大切さを改めて思わされています。いま目の前にいる大切なその人のために、自分に何ができるのか。その人の抱える痛みに対して、自分に何ができるのか。たとえ私たちの目には小さく見えることであっても、私たちにできることは必ずあるはずです。

 

《一つの心が壊れるのをとめられるなら

 わたしの人生だって無駄ではないだろう

 一つのいのちの痛みを癒せるなら

 一つの苦しみを静められるなら

 

 一羽の弱ったコマツグミを

 もう一度、巣に戻してやれるなら

 わたしの人生だって無駄ではないだろう》。

 

 かけがえのない一人の命の痛みを癒すために、自分にできることをそれぞれが行ってゆけるよう願っています。