2017年1月8日「狭い門から入りなさい」

201718日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書71314

「狭い門から入りなさい」

 

 

マタイによる福音書71314節《「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。/しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」》。

 

 

 

上野裕子さん召天

 

14日(水)の早朝、私たちの愛する上野裕子さんは天に召されました。61歳でした。6日(金)の午後5時から前夜式、7日(土)の午前11時から葬儀、午後1時半から火葬が執り行われました。ご遺族の皆さまの上に、上野裕子さんにつらなるすべての方々の上に、神さまよりの慰めがありますよう、お祈りいたします。

 

亡くなられた日の朝、午前5時にお連れ合いの秀雄さんが様子をご覧になったときは息をしてらっしゃったそうですが、7時にご覧になったとき、息をしておられなかったそうです。救急車で病院に向かいましたが、すでに息を引き取っておられました。とても静かに、眠るように息を引き取られたとのことでした。

 

前日の13日には、ご家族の皆さまと新年会を行うことができたとのことでした。4日に入院されることになっていましたが、3日にご家族の皆さまと新年会をするという強い想いで臨まれたそうです。

 

一昨年の201511月、大腸と肝臓にガンが見つかり、以来、お連れ合いの秀雄さんの支えを得ながら、ご自宅にて闘病を続けてこられました。裕子さんは、周りの大切な方々にあまり心配をかけたくない、というご意志をもっていらっしゃいました。だんだんと体の力が弱まり、周りの方々が暗い雰囲気になっても、ご自分で笑顔を見せていらっしゃったとご家族からお聞きしています。繰り返し、「笑顔、笑顔」とおっしゃって、周りの方々を励ましておられました。

 

また再び裕子さんと再会できるという希望と、裕子さんが結んでくださったこの愛のつながりを胸に大切に抱きながら、共に生きてゆきたいと願います。

 

 

 

裕子さんが描いた絵

 

昨晩、ご葬儀が終わってから、改めて裕子さんがお描きになった絵を見ていました。式次第の表紙にもさせていただいた絵です(スライドを参照)。実物はかなり大きなもので、ちょうどスライドのスクリーンほどの大きさです。

 

中央には一本の樹が生えており、赤い果実が実り、花も咲いています。背後には虹がかかっています。木の周りには泉が湧き出で、魚が泳ぎ、鳥が羽ばたいています。辺り一面に、みずみずしい緑が芽吹いています。

 

また、樹の周りを五線紙と音符が取り囲み、そこに歌が響いていることが分かります。そしてその歌は、左端に描かれている笑顔のご家族の皆さんとつながっています。ワンちゃんも猫ちゃんもいますね。

 

これは、裕子さんがそのご生涯を通して心の中に育んでいかれた「エデンの園」であるのだと感じました。心の目で見ることができる世界です。ここでは、一つひとつの存在が、かけがえのない存在として、美しく輝いています。

 

 この絵を見ながら、聖書のイザヤ書の言葉を思い起こしました。イザヤ書513節《主はシオンを慰め/そのすべての廃墟を慰め/荒れ野をエデンの園とし/荒れ地を主の園とされる。/そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く》。苦難の中を歩むイスラエルの民に向けて、預言者イザヤが語った慰めの言葉です。

 

 私たちは生きてゆく中で、目の前にあるのは廃墟や荒れ野でしかないように感じることがあります。イザヤ書においては、廃墟というのは比喩ではなく、実際にイスラエルの民の目の前にある現実でした。戦争によって都エルサレムが廃墟になってしまったのです。

 

 そのような大変な苦難の現実の中で、イザヤはイスラエルの民に向けて、神さまが必ず慰めを与えてくださる、その約束を語りました。その慰めに満ちた世界は、心の目によって見ることができる世界です。廃墟と化したエルサレムが、いつか、エデンの園となる。そこには喜びがあり、楽しみがあり、感謝の歌声が響いている……。

 

 裕子さんも大変な苦しみや悲しみを経験しながら、しかし、心の目によって、この美しい世界を仰ぎ見ていらっしゃったのだと思います。心の目によって見ることができるこの世界にこそ、真実があります。

 

 

 

《いちばんたいせつなことは、目に見えない》

 

フランスの作家サン=テグジュペリの『星の王子さま』という本があります。皆さんの中にも愛読しておられる方がいらっしゃることでしょう。『星の王子さま』のよく知られた言葉として、《いちばんたいせつなことは、目に見えない》という言葉があります。

 

物語の中で、王子さまと大切なきずな結んだキツネが、別れ際、王子さまに向かって言います。《キツネが言った。「じゃあ秘密を教えるよ。とてもかんたんなことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」

 

「いちばんたいせつなことは、目に見えない」忘れないでいるために、王子さまはくり返した》(サン=テグジュペリ『星の王子さま』、河野万里子訳、新潮文庫、2006年、108頁)

 

『星の王子さま』は、サハラ砂漠に不時着した飛行機乗りの「僕」と、そこで出会った一人の男の子(王子さま)の物語です。物語の舞台は、広大なサハラ砂漠、「僕」と王子さまは井戸を求めて歩き続けます。語り手である「僕」はこんな砂漠に井戸などあるのだろうかと疑問を覚えつつ、王子さまといっしょに歩いてゆきます。

 

井戸を訪ね求める歩みの中で、王子さまは「僕」に向かって、ぽつりとこのようなことを語ります。

《「砂漠って、美しいね」王子さまが、ぽつりと言いたした……

そしてそれは、ほんとうだった。僕はずっと、砂漠が好きだった。なだらかな砂の丘にすわれば、あたり一面、なにも見えない。なにも聞こえない。それでもその静寂のなかで、なにかがひっそり光っている……

「砂漠が美しいのは」王子さまが言った。「どこかに井戸を、ひとつかくしているからだね……」》(同、116頁)

 

  「僕」と王子さまは、なぜ自分は砂漠を美しいのかに気づきます。砂漠が美しいのは、そのどこかに、井戸を一つ隠しているから。目には見えない大切なものを内に秘めているからこそ、砂漠は美しい。砂漠の美しさは、目に見える美しさではなくて、目には見えない大切なものから来る美しさであったのです。

 

『星の王子さま』が伝えてくれているこの世界の見つめ方は、私たちに大切なことを思い出させてくれます。日々慌ただしく生活する中で、私たちは《いちばんたいせつなことは、目には見えない》ということを忘れてしまっていることがあります。そうして目に見えるもの、目に見えやすいきらびやかなもの、目立つもの、分かりやすいものばかりをついつい求めてしまっています。 

 

 しかし一度足をとめて、心を静かにして見ると、目には見えないところで、私たちを支えてくれているものがいかに多いことか、私たちは思い出します。この心静かな時間を、「祈り」という言葉で呼ぶことができるでしょう。私たちは祈りの中で、私たちの人生を本当に支えてくれているものとは、普段は目には見えづらいところにあるものであることに気付きます。たとえば、それは、『星の王子さま』に出て来る井戸のような存在です。そのような一見地味で、目立たないものが、それが私たちの人生にまことの潤いを与え、輝きを与えてくれています。

 

 

 

最も大いなるもの、愛

 

昨日のご葬儀の礼拝の中で、次の聖書の言葉をお読みしました。《だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。/わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。/わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです(新約聖書 コリントの信徒への手紙二41618節)

 

 結びのところで、こう語られています。《わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです》。

 

 目に見えるものは、確かに、いつか過ぎ去っていってしまいます。しかしそれですべてが終わってしまうのかというと、そうではありません。目に見えないものは、過ぎ去らない。目に見えない大切なものは、永遠に存続すると聖書は語ります。

 

 目には見えない最も大切なもの、それは、愛です。一昨日の前夜式で、コリントの信徒への手紙一1313節の言葉をお読みしました。《それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である》。

 

「信仰」と「希望」と「愛」。この三つは、どれも目には見えませんが、いつまでも残る、と聖書は語ります。その中でも最も大いなるものは、愛です。

 

私たち教会は、この愛は、神さまの愛につながっていると信じています。神さまにつながるこの愛は、決して消え去ることはありません。私たちを結ぶこの「愛のきずな」は、どんなことがあっても、決して消え去ることはありません。

 

 

 

この愛の絆を胸に

 

本日の聖書の言葉ではこう語られていました。マタイによる福音書71314節《「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。/しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」》。

 

《狭い門》という言葉が出て来ました。その門とは広々はしておらず、人目につかない、目立たない門であるようです。しかしその門が、永遠の命に通じる門であり、道であると語られています。この《狭い門》という言葉も、「目には目えないけれども大切なものをこそ見つめなさい」、という意味の言葉として本日は受け止めたいと思います。心の目で見ることができるこの《狭い門》の先には、神さまが与えてくださるエデンの園が広がっています。そこには失われることのない喜びと楽しみ、感謝の歌声が響いています。私たちは神さまへの信頼を通して、希望を通して、そして愛を通して、この世界にたどり着くことができます。私たちが愛に立ち返るとき、いまこの瞬間、目の前に愛の絆に結ばれた世界が現れ出ます。いつも、どんなときも、私たちを包んでいることに気付きます。

 

 天に召された裕子さんや愛する方々とまた再会できるという希望を胸に、そして神さまが結んでくださったこの愛の絆を胸に、共に歩んでゆきたいと願います。