2017年10月15日「天地創造の時から隠されていたこと」

20171015日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書132443

「天地創造の時から隠されていたこと」

 

 

 

マタイによる福音書132443節《イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。/人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。/芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。/僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』/主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、/主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。/刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」/

 

イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、/どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」/また、別のたとえをお話しになった。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」/

 

イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。/それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」/

 

それから、イエスは群衆を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。/イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、/畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。/毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。/だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。/人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、/燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。/そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 

 

 

イエス・キリストの言葉 ~「人を裁いてはならない」

 

以前、礼拝の中でご一緒に「人を裁いてはならない」というイエス・キリストの言葉をお読みしました。よく知られたイエス・キリストの言葉の一つですね。

 

マタイによる福音書715節《「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。/あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。/あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。/兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。/偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる》。

 

 ここでは、「目の中にある丸太」という面白い表現も出て来ますね。私たちは他人の目にある《おが屑》――つまり他人の「些細な過ちや欠点」はよく見えるのに、自分の目の中にある《丸太》――つまり「大きな過ち」には気づかない、ということだと思います。

 

日々の生活の中で、私たちは気が付かないうちに「人を裁いてしまう」という過ちを犯します。ここでの「人を裁く」とは、自分の一方的な「ものさし」によって人を判断してしまう、決めつけてしまうことを指しています。「あの人はこうだ」「この人はああだ」とか、一方的に決めつけてしまうことですね。本当は相手のことをよく知らないのに、「あの人はこういう人だ」と勝手に決めつけてしまうということを、私たちはよくしてしまうのではないでしょうか。相手のことが本当はよく見えていないのに、勝手に「こうだ」と決めつけてしまっている状態を、主イエスは「目に丸太が入っている状態」とユーモアをもって表現なさいました。

 

 

 

「人を裁くこと」=《人の人格にレッテルを貼ること》

 

 ここで心に留めておきたいことは、「人を裁いてはならない」という言葉は、「人を批判してはならない」ということと同じ意味ではない、ということです。私たちは「人を裁くこと」はすべきではありませんが、「人の過ちを率直に指摘すること」は、勇気をもってなすべきです。

 

或る人は、「人を裁く」とは、《「あなたはこうだ、ああだ」と、人の人格にレッテルを貼ること》だと説明しています(ウィリアム・ウッド『改訂新版 教会がカルト化するとき』、いのちのことば社、2007年、89頁)。私たちは「あの人はこうだ」と相手の人格にレッテルを貼ることはしてはなりませんが、率直に過ちを指摘することはむしろすべきです。主イエスご自身、「人を裁くこと」はしてはならないとおっしゃると同時に、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」とおっしゃっています(マタイによる福音書1815節)

 

 主イエスが「人を裁いてはならない」とおっしゃっているから、たとえば教会の中では一切「人を批判してはならない」のだと思ってしまう場合があるかと思いますが、それは誤解であるのですね。教会の中であっても、もし問題や課題があるならば、率直に指摘し合うことが大切であると思います。

 

 

 

人にレッテルを貼ってしまうことの問題性

 

 さて改めて、私たちがついつい「人を裁いてしまう」=「その人の人格にレッテルを貼ってしまう」問題についてご一緒に考えたいと思います。

 

 最近はどんどん、相手のことを勝手に決めつけて、レッテルを貼ってしまう傾向が強くなっているように思います。よく相手のことを知らないのに、誰かから聞いた話やネットで得た知識などを鵜呑みにして、相手を判断してしまっていることが多いのではないでしょうか。そうして様々なところで関係性の断絶が起こってしまっています。

 

 レッテルを貼ることがいかに問題であるかということは、自分がレッテルを貼られた場合のことを考えるとよく分かるのではないでしょうか。「あの人はああだから」と自分が勝手にレッテルを貼られたとしたら、私たちは非常に辛い気持ちになるでしょう。人の人格にレッテルを貼ることが、いかに人の心を傷つけ、いかに人の尊厳を傷つけることであるのかが分かります。

 

 このようなレッテル貼りがエスカレートしてゆくと、遂には、「あの人はいない方がいい」「あの人は生きている価値がない」などど、その人の存在をすら否定するような、恐ろしい考えを抱くようになってゆきます。

 

「優生思想」という言葉があります。自分の勝手な「ものさし」によって、人を一方的に「優れた者」と「劣った者」に分ける思想です。昨年の726日に起こった相模原障がい者施設殺傷事件では、この「優生思想」がいかに恐ろしいものであり、人々の命と尊厳を奪うものであるかを私たちは改めて思い知りました。「優生思想」は決して容認することができない非人間的な思想です。

 

一方で、「優生思想」のように極端なものにならなくても、他者を自分より低く見てしまう「優越感」は、誰しもが抱いたことがあるのではないでしょうか。「優越感」と「優生思想」はまったく異なるものですが、どこかで地続きにつながっているものであるとも言えます。私たちはそれぞれ、「優生思想」になり得る小さな芽のようなもの――他者を自分より低く見てしまう想い――は、誰しもが心のどこかに抱えながら生きているのではないでしょうか。その意味でも、私たちはそれぞれ、自分自身の心をよくよく見つめてゆく必要があるでしょう。私たちは気が付くと、「目の中に丸太」が入った状態になってしまうものだからです。

 

 

 

「毒麦」のたとえ ~「優越感」に対する警鐘として

 

 先ほどご一緒にイエス・キリストの「『毒麦』のたとえ」をお読みしました。ある人が種を畑に蒔くと、毒麦も一緒に芽を出してしまった。僕たちが毒麦を抜こうとすると、その人が「毒麦を集めるときに一緒に麦まで抜いてしまうかもしれない。刈り入れの時まで、両方とも育つままにしておきなさい」と伝えた、という話です。

 

「毒麦」と訳されている植物がどういうものなのかはっきりとは分かりませんが、麦の成長を妨げる雑草がイメージされているのでしょう(参照:田川健三『新約聖書 訳と註1 マルコ福音書/マタイ福音書』作品社、2008年、696頁)

 

 ここで、種を蒔いた《ある人》というのはイエス・キリストご自身を指しています。畑は《世界》、種から芽を出した麦と毒麦は、私たち自身です。このたとえ話のポイントは、毒麦を抜こうとした僕たちを、主人が「止めた」ところです。僕たちが毒麦と一緒に他の麦も抜いてしまうかもしれないからです。つまり、私たちの目には、どれが毒麦で、どれがそうでないのか、はっきりと区別がつかないのです。最終的な判断をされるのは、神さまご自身であることが語られています。

 

 本日は、このたとえ話を、私たちが他者に勝手にレッテルを貼ってしまうことの危険性を述べているものとして受け止めてみたいと思います。言い換えれば、私たちがもってしまう「優越感」に対する警鐘として。

 

もし私たちがそれぞれに「優越感」に駆られ、「あの人は毒麦」「この人は毒麦」と互いに勝手にレッテルを貼り合ってしまったら、恐ろしいことになりますね。「毒麦を抜く」とはつまり「相手の存在を否定する」ということであり、場合によっては、「優生思想」につながり得る考え方で、非常に危険です。

 

宗教はこのような過激な思想に陥ってしまう危険性を常に持っていますので、注意が必要です。自分たち同じ信仰を持っていない人を一方的に「劣った存在」「価値のない存在」と見做してしまう危険性を内在しているのです。

 

 

 

イエス・キリストのメッセージ ~神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがなく貴い

 

 主イエスはさまざまなたとえ話を通して、私たちの目から見て、ではなく、神さまの目から見て、この世界がどう見えているかを私たちに伝えてくださっています。

 

 主イエスが私たちに伝えてくださっている真理は、神さまの目から見て、一人ひとりの存在がかけがえなく貴いものである、ということです。神さまは私たち一人ひとりを“あるがまま”に肯定し、「よし」としてくださっている。主イエスはこの神の国の福音を私たちに伝えてくださっています。

 

私たちが神さまの目から見て価値があるのは、何か有用な働きやよい行いをすることができるからではありません。私たちの目から見た「優劣」を超えて、神さまは私たちをいまこの瞬間、“あるがまま”に愛してくださっています。

 

 

 

天地創造の時から隠されていたこと ~「良い」という神さまの声

 

本日の聖書箇所で、マタイによる福音書はこのような文章を記しています。3435節《イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。/それは、預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「わたしは口を開いてたとえを用い、/天地創造の時から隠されていたことを告げる。」

 

主イエスはたとえを通して、《天地創造の時から隠されていたこと》を語られた、と福音書は記します。

 

創世記には、天地創造のはじまりの時、神が造られたすべてのものを御覧になって、「極めて良かった」とおっしゃったということを記しています。この「良い」という神さまの声こそ、天地創造のときからこの世界に響き続けている基調低音であると私は受け止めています。この響きを、「福音」と言いかえることができるでしょう。私たち一人ひとりは、神さまの目から見て、極めて「良い」存在、かけがえなく貴い存在である――主イエスはこの福音を私たちに伝えてくださっています。神さまのまなざしの下では、「優れた存在」も「劣った存在」もありません。一人ひとりが世界にただ一人の、かけがえのない存在として、大切にされています。

 

私たちの「目の中の丸太」を取り除き、この主のまなざしに私たちのまなざしを合わせてゆきたいと願います。