2017年2月5日「手を伸ばし、触れてくださる主」

201725日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書814

 

「手を伸ばし、触れてくださる主」

 

 

マタイによる福音書814節《イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。/すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。/イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。/イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」》

 

 

 

翻訳された聖書

 

私たちは普段、翻訳された聖書を読んでいます。礼拝の中で用いているこの『聖書 新共同訳』(日本聖書協会)ももちろん、日本語の翻訳です。聖書の原文は、旧約聖書はヘブライ語(とアラム語)、新約聖書はギリシャ語で書かれています。

 

日本語訳の聖書にも、さまざまな種類があります。長く教会に出席されている人には懐かしい文語訳や口語訳聖書をはじめ、新改訳聖書、岩波訳聖書、またさまざまな個人訳の聖書があります。気仙地方の方言で訳された「ケセン語訳聖書」というのもありますね。

 

私たちが読んでいる聖書はあくまで翻訳されたものですので、それぞれ訳し方に違いがあります。翻訳の仕方によって、受け取る印象がずいぶんと変わってくるということもあるでしょう。もちろん、訳者の方々はなるべく原典に忠実に、ということを心がけてくださっていることと思いますが、どうしてもそこには限界があるでしょうし、個々人によって相違は出てきます。その相違もまた豊かさの一つであるということができるでしょう。

 

たとえば、ギリシャ語で「ピスティス」という言葉があります。多くの場合、「信仰」と訳さる言葉です。この「ピスティス」という言葉には、「信仰」の他に「信頼」や「信実」という意味もあります。「信仰」と訳すのと「信頼」と訳すのとでは、受け取る印象が少し異なってきますよね。「イエス・キリストへの信仰」と訳すのと、「イエス・キリストへの信頼」と訳すのとでは、ニュアンスに違いがあります。このように、訳し方によって、私たちが受け取る印象が異なってきます。

 

現在、新共同訳聖書に替わる、新しい聖書の翻訳事業が進められています。2010年より翻訳が開始され、来年の2018年の完成を目指して作業が進められているそうです。新しい聖書がどのようなものになるのか、楽しみですね。こちらの翻訳事業もお祈りに覚えていきたいと思います。

 

 

 

聖書は「動き続けている」

 

 私たち教会は聖書を「神さまの言葉」として受け止めているわけですが、同時に、聖書は「人間の言葉」でもある、ということは忘れてはならないことです。聖書そのものは人間の言葉で記されているものであり、それを解釈しているのも私たち人間なのです。私たち人間が懸命に紡ぎ出す言葉が、場合に応じて神の言葉として「用いられる」というのが、正確な表現でありましょう。聖書そのものは「人間の言葉」ですが、それが聖霊のお働きによって、「神の言葉となる」のです。

 

聖書自体はつねに私たち人間によって新しく解釈され続けているものであり、その意味で「動き続けている」ものであるといえます。

 

 

 

《重い皮膚病》という訳語を巡って

 

 さて、本日このようなお話をしましたのは、本日の聖書箇所が、「どう訳すか」課題となっているところであるからです。本日の聖書箇所の中の《重い皮膚病》と訳されている言葉をどう訳すかについて、議論があります。少し話が専門的になりますが、大切な議論ですので、ぜひお聞きいただければと思います。

 

《重い皮膚病》と訳されている語は、原文のギリシャ語では「レプラ(levpra'」といいます。この「レプラ」は旧約聖書に出てくるヘブライ語「ツァラアト(t[;r;c'」の訳語です。キリスト教では伝統的に、この「レプラ」または「ツァラアト」という語を「ハンセン病」を指し示すものと見なしてきました。

 

私たちが礼拝の中で読んでいる『聖書 新共同訳』は以前はこの「レプラ」を、ハンセン病の古い呼称である《らい病》と訳してきました。しかし、19974月からは《重い皮膚病》と表記するようになっています。《らい病》という表現が現在は差別的な表記と感じる人が多いという点、また「ツァラアト」と「レプラ」は必ずしもハンセン病を指しているとは限らない点がその主な理由です。

 

旧約聖書の『レビ記』に衣服や壁に生じた《かび》について記されている箇所がありますが134759節、143353節)、《かび》と訳されている語も、原文では「ツァラアト」です。新共同訳は、元来は同じ語である「ツァラアト」を、文脈によって《重い皮膚病》と《かび》に訳し分けていることになります。このことからも、「ツァラアト」という語をハンセン病とイコールにすることはできないということが分かります。

 

また、レビ記の「ツァラアト」の症状の描写(レビ記13144節)は必ずしもハンセン病と一致しないという指摘や、そもそも旧約聖書の時代にハンセン病が存在したかも歴史的には不確かであるという指摘があります。つまり、従来のキリスト教の歴史において、「ツァラアト」「レプラ」をハンセン病に限定して解釈してきたことは、誤りであったということになります。しかしこの誤まった解釈が、キリスト教文化圏において長きに渡りハンセン病の人々に対する偏見・差別を助長し続ける要因の一つとなってきました。聖書の言葉が人々の間に「壁」を作ることに使われてしまった、悲しむべき事例の一つです。

 

 

 

キリスト教会の罪責

 

 旧約聖書の『レビ記』では「ツァラアト」は「ケガレ」と結びついて捉えられ、忌むべきものとされました。現代の私たちの視点からすると大変問題のあることですが、旧約聖書の『レビ記』には「ツァラアトに冒された者である」と宣言された者は、共同体の外へ隔離されねばならないと記されています。《重い皮膚病(原文:ツァラアト)にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。/この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない》(レビ記134546節)

 

このような記述がハンセン病と結び付けられることによって、ハンセン病患者を「ケガレた」者として社会から排除する構造がキリスト教文化圏において補強されていってしまったのです。これははっきりとした人権侵害であり、決してゆるしてはならないことです。キリスト教は、その歴史において、ハンセン病の隔離政策に加担したというはっきりとした罪責があります。

 

 

 

訳語についてのさまざまな見解

 

 新共同訳聖書はこのような経緯も踏まえ、先ほど申しましたように、19974月から《重い皮膚病》に訳を変更しました。ただし、その表記についての賛否両論がございます。岡山の国立ハンセン病療養所の長島愛生園内の長島曙教会の牧師である大嶋得雄先生は、旧・新約聖書の表記をすべて「ツァラアト」に統一すべき、と主張しておられます。

 

その理由として、①《重い皮膚病》はやはりハンセン病を想起させる表記であること、②《重い皮膚病》というより広がりのある訳語によって、ハンセン病だけではない、さまざまな皮膚の病気を抱える人を新たに傷つけてしまう可能性があること、③《重い皮膚病》と《かび》が一つの語として結びつくことによって、皮膚病に対して否定的なイメージを再び与えることになりかねない、などの理由を挙げていらっしゃいます。

 

大嶋先生の主張は、これから聖書を読む新しい読者への配慮の面が大きいということが言えます。もはやこれ以上、聖書の言葉が差別や偏見の原因となったり、それによって傷つく人が生まれてほしくないという願いに基づいての主張であるのでしょう。この問題提起を受けて、新改訳聖書は旧・新約聖書の表記をすべて《ツァラアト》に統一し直しました(20041月発行の第3版より。『聖書  

新改訳』、第三版あとがき参照、いのちのことば社)。新共同訳聖書は検討を重ねつつも、現状のまま《重い皮膚病》と《かび》に訳し分けるのが適切との結論に至っているようです(日本聖書協会の声明より、20081月)。大嶋先生による新共同訳の改訂を求める運動はいまも続けられています。ハンセン病の問題に携わって来られた大嶋先生の主張は、これからも私たちは重く受け止める必要があると思います。

 

一方で、あえて聖書の表記を《らい病》のままにし、自覚的に「負の遺産」として受け止め続けるべきという考えもあります。たとえば、岩波訳新約聖書はその立場を取っており、ハンセン病の古い呼称である《らい病》を訳語として現在もあえて採用し続けています。ツァラアトを患った人々に対する古代イスラエル社会の差別のあり方が、日本の歴史上の「らい病」と類似ているから、というのがその理由です(『新約聖書 新約聖書翻訳委員会訳』補注 用語解説より、岩波書店、2004年)。日本には、1996年に廃止された、ハンセン病患者の強制隔離などを定めた「らい予防法」というものがありました。私たちの国の差別の歴史を心にとどめておくために、あえて「らい病」という表記を採用したいというのが岩波訳聖書の方針です。

 

以上、簡単にではありますが、《重い皮膚病》という訳語を巡る課題についてお話をいたしました。聖書の言葉を「どう訳すか」、それがいかに重要な問題であるのかがこの「レプラ」「ツァラアト」という言葉を通しても、深く考えさせられます。皆さんは、どのような訳し方がより良いと思われるでしょうか。本日の説教では暫定的に、「レプラを患う人」という訳語を用いたいと思います。

 

先ほど申しましたように、聖書の言葉は「動き続けている」ものです。聖書の言葉のより良い訳の仕方、より良い受け止め方をご一緒に祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

律法の「壁」を超え

 

 本日の聖書箇所に登場するレプラを患う男性は、共同体の外へ「隔離される」という不当な苦しみを受けていました。先ほど申しましたように、旧約聖書の『レビ記』の律法にそのように記されていたからです。その生活が、どれほどの苦しみ、悲しみをもたらしていたか、私たちの想像を絶するほどです。

 

この日、男性は旧約聖書の掟を破って自分の住居を飛び出て、決死の想いで主イエスの前に進み出ました。そして、主イエスの目の前にひざまずいて願いました。《主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります(マタイによる福音書82節)

 

この言葉には、体の病いによる苦しみだけではなく、今まで周囲から自分の存在を否定され続けてきたことの深い苦しみ、悲しみが込められているように思います。男性の望みは「病気が直る」こと以上に、自分の存在が「社会に受け入れられる」ことにあったのではないでしょうか。

 

主イエスは律法の掟を違反した男性を一切とがめることなく、手を伸ばして、男性に触れられました。レプラの患者に触れるということは、当時の常識からすると驚くべき行為でした。触れるとその「ケガレ」が移ると考えられていたからです。もちろんそれは当時の偏見であり、実際にそのようなことはありません。主イエスは律法の「壁」を超えて、手を伸ばしてその人に触れられました。

 

主イエスは《よろしい。清くなれ》とおっしゃいました(同、3節)。イエスは男性の切なる望みを全身で受け止め、ご自分の願いとしてくださいました。すると、レプラの症状は癒されました。この奇跡以上に心を打たれるのは、律法を「壁」を超えて、男性の苦しみ、願いを全身で受け止めてくださった主のお姿です。

 

 

 

神さまの愛に基づき ~「壁」ではなく「橋」を

 

 主イエスは男性におっしゃいます。《だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい4節)。祭司に体を見せ、供え物を献げるというのも、旧約聖書の律法の決まりです。これは、レプラの症状が治ったことを人々に証明し、共同体に再び受け入れられるための必要な手続きでした(レビ記14132節)。主イエスは男性が再び社会に復帰するための具体的な指示をお与えになりました。「社会に再び受け入れられる」という男性の願いを実現するために。

 

 主イエスはここで、旧約聖書の言葉を新たに解釈しておられます。それは、レプラを患う人々を共同体から「隔離する」ための律法ではなく、共同体に「再び戻る」ようにするための律法をこそ重視する、という解釈です。「壁」を築くことではなく、「橋」をかけるために。そのように聖書の言葉を新しく解釈し直され、そして実行されました。

 

 主イエスのこの言動の根本にあるのは、神さまの愛です。一人ひとりが、神さまの目から見て、かけがえなく大切な存在であるということ。誰一人、差別や迫害などの不当な苦しみを受けてはならないのだということ。この神さまの愛と正義に基づき、主イエスは様々な律法を再解釈し、そして完成へと導いてくださいました(マタイによる福音書517節)

 

 説教の冒頭で、聖書そのものは人間の言葉で記されているものであり、それを解釈しているのも私たち人間である、ということを述べました。聖書は「動き続けている」ものだということを述べました。私たちは解釈の仕方によって、聖書の言葉を互いに隔てる「壁」を作るために用いることもできるでしょうし、互いの間に「橋」をかけるために用いることもできるでしょう。そのような中にあって、聖書の言葉は、神さまの愛に根ざしてこそ、「神の言葉となる」のだということを、改めて心に刻みたいと思います。さまざまな「壁」が作られようとしているこの社会の中で、どうぞ互いを結ぶ「橋」をこそ築いてゆくことができますように。