2017年5月7日「主よ、憐れんでください」

201757日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書92738

「主よ、憐れんでください」

 

 

 

マタイによる福音書92738節《イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。/イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。/そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、/二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。/しかし、二人は外に出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。/

 

二人が出て行くと、悪霊に取りつかれて口の利けない人が、イエスのところに連れられて来た。/悪霊が追い出されると、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆し、「こんなことは、今までイスラエルで起こったためしがない」と言った。/しかし、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言った。/

 

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。/また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。/そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。/だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

 

 

「キリエ・エレイソン(主よ、憐れんでください)」

 

教会で伝統的に用いられてきた祈りの言葉に「キリエ・エレイソン」というものがあります。ギリシャ語で「主よ、憐れんでください」という意味です。「キリエ」が「主よ」、「エレイソン」が「憐れんでください」に相当します。プロテスタント教会ではあまりなじみのない祈りかもしれませんが、大切に受け継がれてきた祈りの一つです。歴史をさかのぼってみますと、古くは3世紀頃には、シリアのアンティオケの教会の礼拝の中で、「連祷(リタニー)」の形式で用いられていたようです(参照:日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌21略解』、日本キリスト教団出版局、1998年、38頁)

「連祷」とは、ある祈りの言葉の後に、会衆が一定の言葉で応答する形式の祈りのことをいいます。この会衆の応答の祈りの中で最もよく知られているものの一つが、この「キリエ・エレイソン」です。例として、『讃美歌21』の34番を参照してみましょう(元の讃美歌では祈りにメロディもついています)。

 

《「キリエ」答唱をともなう祈り(例)

会衆)キリエ、キリエ・エレイソン。

司式者)われらの父なる神、ひとり子イエス・キリスト、聖霊に、信仰をもっていま共にいのる、われらの祈りを聞きたまえ。

会衆)キリエ、キリエ・エレイソン。

司式者)世にあるすべての教会の上に、聖霊がゆたかに与えられることを求めていのる、われらの祈りを聞きたまえ。

会衆)キリエ、キリエ・エレイソン。

司式者)すべての国々が正義と平和の道を見出し、それを守ることができるために神の導きと知恵とを求めていのる、われらの祈りを聞きたまえ。

会衆)キリエ、キリエ・エレイソン。

司式者)抑圧され、暴力におびやかされている人々の上に、解放のみ力が与えられることを求めていのる、われらの祈りを聞きたまえ。

会衆)キリエ、キリエ・エレイソン。…(世界教会協議会「リマ式文」とりなしの祈りより)》。

 

 このように、司式者と会衆が交互に祈ってゆくのですね。カトリック教会では、その後、連祷の形式ではなく、「キリエ・エレイソン」の部分だけが歌われるようにもなりました。

 

 いま引用しました式文(リマ式文)の中で、《司式者)すべての国々が正義と平和の道を見出し、それを守ることができるために神の導きと知恵とを求めていのる、われらの祈りを聞きたまえ。

会衆)キリエ、キリエ・エレイソン》という祈りがありました。現在の私たちの社会においても、切実なる祈りですね。たとえば最近は、北朝鮮とアメリカとの間に緊迫した状況が続いています。「主よ、私たちを憐れんでください」と祈らざるを得ないような状況です。

 

 また、他にも私たちの目の前には「主よ、憐れんでください」と祈りたくなる、また祈らざるを得ないような悲惨な状況がたくさんあります。平和が失われ、人間の尊厳がないがしろにされている現実が無数にあります。私たちの近くに、また遠くに……。

 

思わず希望を失ってしまいそうな暗い状況の中で、それでも光を求めて祈りの言葉を紡ぐ――そのような言葉にならない呻きのような祈りが、「キリエ、エレイソン」であるということができるでしょう。「キリエ・エレイソン」――たとえこのギリシャ語の言葉は知らなくても、同様の祈りは、誰しもの心に浮かんだ瞬間があることと思います。クリスチャンか否かも問わず、この言葉にならない呻きは、誰しもの心に生じたことがあるでしょう。私たちの言葉にならない呻きに、あえて言葉と形式を与えた祈りが、この「キリエ・エレイソン」だといえるのではないでしょうか。この一言の祈りは、闇の中の小さなともし火のように、これまで人々の間に大切に受け継がれてきました。

 

 

 

「主よ、わたしたちの痛みを分かってください」

 

 この祈りの由来の一つとなっている聖書の箇所はいくつかありますが、本日の聖書箇所の冒頭部分はその一つです(他にマタイによる福音書2030節など)。マタイによる福音書927節《イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た》。

 

ここでは「キリエ(主よ)」という言葉ではなく「ダビデの子よ」という呼びかけになっていますが、「エレイソン(憐れんでください)」という部分は共通しています。この言葉を発したのは二人の目の見えない人でした。

 

この二人の男性について詳しいことは記されていませんが、目が見えないということで、大変困難の多い人生を送って来たであろうことが推測できます。社会から疎外され、人間としての尊厳がないがしろにされ続けてきた。だからこそ二人は、「わたしたちを憐れんでください」と主イエスに向かって懸命に叫んだのでありましょう。

 

 以前、マタイによる福音書913節の《わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない》という言葉をご一緒に礼拝の中でお読みしました。この言葉を、本田哲郎神父という方が《わたしが求めるのは人の痛みが分かることであって、いけにえではない》と訳している、ということもご紹介しました(『小さくされた人々のための福音書―四福音書および使徒言行録』、新世社、2001年、64頁)。「憐れみ」とは「人の痛みが分かること」と受け止めてみますと、「主よ、わたしたちを憐れんでください」という祈りは、「主よ、わたしたちの痛みを分かってください」という祈りであると理解することもできます。本日はそのような祈りとして、この「キリエ・エレイソン」を受け止めてみたいと思います。

 

 誰にも理解されることのなかったこの心の痛み。自分でもどう言葉で表現したらよいのか分からなかったこの心の痛み。しかし、この方こそは、自分たちの痛みを理解してくださる方なのではないか。切なる想いで、彼らは懸命に主イエスの後を追いました。

 

2830節《イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。/そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、/二人は目が見えるようになった》。

 

 二人は主イエスに対して、目が見えるようになりたいと願い出ました。それは、人間としての尊厳を取り戻したい、という願いでもあったのではないでしょうか。彼らが願っていたのは、目が見えるようになること以上に、周囲から人格をもった一人の人間として受け入れられることであったのではないかと思うからです。言い換えますと、これまでの人生において、自分が人格をもった一人の人間として受け入れてもらえなかった。それが、最大の痛みとなっていたのではないでしょうか。

 

 主イエスは彼らの痛みと祈りを、全身で受け止めてくださいました。そうして、二人の目に触れ、《あなたがたの信じているとおりになるように》とおっしゃってくださいました。そのとき、暗闇であった彼らの人生に、光が差し込みました。それは、私たち一人ひとりに与えられている、神さまからの尊厳の光でした。彼らの痛みはいやされ、神さまからの光に目が開かれました。

 

 光に包まれる中で、彼らは神の国の福音を聴いたことでしょう。「わたしの目に、あなたは価高く、貴い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ書434節)という神さまの真実の言葉を。

 

 

 

主の憐れみ ~はらわたがちぎれる想いで

 

 マタイによる福音書は続けて、声を失った人に対する主イエスのいやしの業を語ります(3234節)。さらにその後、主イエスが町や村を残らず回って、神の国の福音を宣べ伝え、たくさんの病いや患いをいやされたことを記します。3536節《イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。/また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた》。

 

 主イエスは目の前にいる人々が弱り果て、うちひしがれている様子を見て、深く憐れまれました36節)。この部分を岩波訳聖書は《さて、彼は群衆を見て、彼らのことで腸のちぎれる想いに駆られた》と訳しています。

主の憐れみとは、上から目線の憐憫の情ではなく、はらわたがちぎれる想いでの痛みの共有であることが、ここで表されています。主イエスは私たちの痛みを理解してくださる方であり、私たちの痛みをご自分の痛みとしてくださっている方であるのです。だからこそ私たちは信頼の中で、主に祈ることができます、「キリエ・エレイソン――主よ、わたしたちの痛みを分かってください」と。

 

私たちの目の前にあるさまざまな悲惨な現実。その現実を前に、主イエスはいまもはらわたがちぎれる想いでこの痛みを共にしてくださっているのだと信じます。

 

 

 

「収穫は多いが、働き手が少ない」

 

 そのとき、弟子たちに対して主イエスが語られた言葉が印象的です。3738節《そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。/だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」》。

 

 神の国の福音を必要としている人は多いけれど、そのために働く人が少ない。この世界に無数の痛みに満ちているけれど、それら痛みをいやすために働く人が少ない。だから、そのために働き手を送ってくださるように、神さまに願いなさい、と。この言葉は、言い換えますと、他ならぬ、あなたがその働き手であるのだ、という主イエスのメッセージと捉えることができるでしょう。他の誰か、ではなく、他ならぬあなたを、わたしは必要としている。多くの痛みを経験してきたあなただからこそ、人の痛みが分かるのだから。

神の国の福音を伝えるために。この世界から、痛みを取り除くために。暗闇の中に光をもたらすために。一人ひとりが尊厳をもって生きてゆくことのできる社会を形づくってゆくために。

 ここに集った一人ひとりが、主の歩まれたこの道を歩んでゆくことができますように、主の助けを祈り求めたいと思います。

キリエ・エレイソン。主よ、私たちを憐れんでください。