2017年6月18日「主が受け入れてくださるから」

 2017618日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書1032節‐111

「主が受け入れてくださるから」

 

 

 

マタイによる福音書1032節‐111節《「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。/しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」/

 

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。/わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。/こうして、自分の家族の者が敵となる。/わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。/また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。/自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」/

 

「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。/預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。/はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」/

 

イエスは、十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された

 

 

 

初代教会の洗礼式の告白文

 

 キリスト教が誕生してからずっと大切に受け継がれてきた儀式として、洗礼式と聖餐式があります。洗礼式はもちろん皆さんよくご存じのように、キリスト教に入信する際に行われていた儀式です。

 

 新約聖書の中には、キリスト教が誕生して間もない頃、洗礼式の中で実際に読み上げられていたとされる文言が残っています。いまからご紹介するガラテヤの信徒への手紙の一節もその一つです。次のような言葉です。ガラテヤの信徒への手紙328節《そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》。

 

 クリスチャンになることを志願する人は、この言葉を告白して、洗礼(バプテスマ)を受けたのだと考えられています。この告白文において印象的なのは、キリストに結ばれている者はもはや、民族や国籍からも、社会的な身分からも、性別や家庭の役割からも自由であると宣言されているところです。

 

現代に生きる私たちにとってもなお、この告白文は非常な「新しさ」を感じさせるものですね。現代の私たちもいまだ民族や国籍の違いから完全に自由ではないからです。また、社会的な身分からも男性か女性かという性の違いからも自由ではありません。いまも多くの人がこれら違いによって、時に不自由さや精神的な苦痛を感じながら生活しています。

 

そのことを思います時、今から2000年近く前のイスラエル社会においてこの洗礼式の告白文がどれほど「新しい」ものであったか……現代の私たちがちょっと想像できないくらい、革新的な言葉だったのではないかと思います。まただからこそ、苦しみを抱えながら生きていた人々の心を捉えたのではないかと思います。たとえば、外国人(異邦人)であるがゆえに差別をされていた人たち、職業ゆえに差別されていた人たち、また男性中心的な社会の中で差別を受けていた女性たち。古代のイスラエルは男性中心的な社会で、女性は日々の生活のさまざまな場面において、差別的な扱いを受けていました。教会が伝えるメッセージは、これら社会的に弱い立場に追いやられていた人々の心を真っ先に捉えたのではないでしょうか。

 

ある人は、この告白文に関して、次のように述べています。《ですから、キリスト教の信仰共同体が洗礼定式で宣言した自分たちの基本的な在り方は、次のように言いかえることができるでしょう。すなわち、私たちクリスチャンは社会が定めたどのような境界線も規範も超えて、多様に異なる人々が「自分自身」であろうとすることを尊重します、そして互いに平等な関係で共に生きようとします、と。…ここに表現された人間観は、社会的な弱者にされていた人々にとって大きな福音であると同時に、自分の内にも深く染みこんでいる様々な「常識」からの自己解放と新しい生き方を促すものであったことでしょう。最初期キリスト教共同体の小さな集まりが貧しい庶民たちのあいだで広がっていった原動力は、このような新しい生命の息吹のゆえだったかもしれません(山口里子氏『虹は私たちの間に 性と生の正義に向けて』、新教出版社、2008年、292293頁)

 

 

 

「私は○○です」という命題

 

「私は○○です」ということを書き連ねて自分はどんな人間かを紹介するとしたら、皆さんはどのような言葉を入れてゆくでしょうか。たとえば、ある人は、「私は日本人です」、「私は岩手出身です」、「私は会社員です」、「私は男です」または「私は女です」、「私は夫です」または「私は妻です」、「私は父です」または「私は母です」……などなど。

 

 人によって、どの命題が一番目に来るかは異なることでしょう。自分がいま懸命に向かい合っている状況によっても、どれを真っ先に思い浮かべるかは異なって来るでしょう。それぞれの命題が私たちのとって大切なものですが、一方で、よくよく考えてみると、これら命題によって自分という人間が決定づけられているかというと、必ずしもそうでもない、とも思います。

 

 生まれや、仕事、性別、家庭の役割――もちろんこれらは私たちを構成する大切な要素であり、これらが集まって自分という人間が形づくられています。一方で、これら要素によって、自分という人間が決定づけられているのかというと、必ずしもそうではないように思います。これらは自分という人間を構成する大切な要素でありますが、自分という人間を決定づける本質ではない、私はそのように感じています。

 

 たとえば、私は牧師をしていますが、牧師という仕事が私という人間の「すべて」なのではない、と思っています。もちろん、私は牧師という仕事をとても大切に思っています。けれども、もしも私が「私は牧師である」という命題を自分という人間の「すべて」とみなしてしまったら、または、「すべて」とまでいかなくても自分を構成する「大部分」とみなしてしまったら、いつか、何か不自然なものが生じていってしまうのではないかと思います。自分を構成する他のさまざまな要素を、あたかも存在していないかのように抑圧してしまっていることになるからです。

 

と言いつつ、私自身、日々の生活の中で「私は牧師である」という命題に自分で縛られてしまっていることがあるように思います。自分で自分を窮屈にしてしまっているのですね。皆さんもそれぞれ、そのようなことがおありかもしれません。

 

 また、私たちは普段の生活の中で、「あなたは○○です」と人に命題を押し付けてしまっていることもあるでしょう。あくまでその人の要素の一つであることを、まるで「すべて」または「大部分」のようにして相手を判断してしまっている瞬間があるでしょう。そのような時、私たちは肝心のその人自身が見えてはいません。そうして時に、自分でも無自覚なまま、差別をしてしまっていることもあるかもしれません。私たちは意識しないでいると、そのように他者を判断してしまうものなのでしょう。だからこそ、絶えず自分を問い直してゆく必要があるのだと思います。

 

 

 

一緒になっていたものを、一度、「切り離す」

 

 本日の聖書箇所に、このようなイエス・キリストの言葉がありました。マタイによる福音書103436節《わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。/わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。/こうして、自分の家族の者が敵となる》。

 

ギョッとするような言葉ですが、この不可思議なイエス・キリスト言葉もこれまで述べて来た文脈で捉えてみるとメッセージが理解しやすくなるのではないかと思います。

 

当時のイスラエルの社会は、血縁の結びつきが強い社会でありました。どの家の生まれで、誰の子か、ということが重視される社会であったのです。「どの家の生まれの、だれだれの子」ということが他者を判断する第一の要素となっていたのですね。そのような社会にあって、「その人を父と、娘を母と、嫁をしゅうとめと敵対させる」と主イエスがおっしゃったのですから、その言葉がどれほど人々を驚かせたかは想像に難くありません。

 

「敵対させる」と訳されている言葉は、「二つに分ける」ということを意味する言葉です。ここでは必ずしも対立が意味されているのではなく、両者を一度「切り離す」ことが意味されているのだと受け止めることができます。息子と父を、一度、「切り離す」。娘と母を、一度、「切り離す」。嫁と姑を、一度、「切り離す」。目には見えない剣で、一緒になっていたものを、一度、「切り離す」。

 

 父の影響下から切り離された息子は、どうなるでしょうか。もはや「だれだれの息子」ではなく、「一人の人間」になります。その人「個人」になります。母と切り離された娘も、同様です。もはや「だれだれの娘」ではなく、「一人の人間」になります。姑と切り離された嫁も、もはや「だれだれの嫁」ではなく、やはり、「一人の人間」になります。

 

 

 

まことの平和に向けて ~現状を打破する決意

 

 主イエスはここで、それぞれが「一人の人間」に立ち還ることを求めていらっしゃるのだと受け止めたいと思います。そのためにはどうしても変化が起こらなくてはならず、現状を打破してゆかねばなりません。

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ》、そう主イエスはおっしゃいました。決意に満ちた言葉です。

 

それまでの秩序やバランスが壊れてしまうという意味では、確かに「平和」は失われることになるでしょう。しかしそれは、まことの平和ではなかったのではないでしょうか。出自や社会的な身分や性別によって人を判断する社会が生み出す平和というのは、本当の平和ではないでしょう。一見秩序が保たれているように見えて、どこかで誰かが苦しんだり、犠牲を強いられる状態は、平和ではありません。そうではなく、一人ひとりがかけがえのない「個人」として大切にされるところから、まことの平和は形づくられてゆきます。主イエスが手にもっておられるのは、一人ひとりをかけがえのない「私」へと回復させるための剣です。

 

 

 

キリストに結ばれて、一人ひとりがかけがえのない存在として

 

主イエスは、私たちを「一人の人間」として受け入れてくださっている方です。主イエスはあなたを出自では呼ばず、職業の名前でも呼ばず、社会的身分でも呼ばず、性別でも呼ばず、家庭での役割でも呼ばれません。ただ、あなたを、あなたとして、あなたの名前を呼ばれます。主イエスはわたしたちをあるがままに、世界にただ一人の、「かけがえのない=替わりがきかない」存在として受け入れてくださっている方です。「クリスチャンである」とは、このキリストと結ばれているということを意味しています。

 

キリストに結ばれて、一人ひとりが、かけがえのない「私」になってゆくこと。それが、神さまの願いであるということができるでしょう。私たちは共に、この道を歩んでいる途上です。

 

私たちはそれぞれ、神さまの前にただ「一人」です。でも同時に、「独りぼっち」で生きているのではありません。一人ひとりがキリストに結ばれて、かけがえのない存在として共に生き、共に生かされています。私たちは互いに「違い」がありつつ、同時に、「一つ」です。

 

 最後に改めて、ガラテヤの信徒への手紙328節をお読みいたします。《そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです》。