2017年8月6日「平和(シャーローム)への祈り」

201786日 花巻教会 平和聖日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書122232

「平和(シャーローム)への祈り」

 

 

 

マタイによる福音書122232節《そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。/群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。/しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。/イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。/サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。/わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。/しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。/また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。/わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。/だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。/人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

 

 

 

平和聖日

 

本日は「平和聖日」、ごいっしょに平和を覚え、礼拝をささげる日です。

 

私たち花巻教会が属する日本キリスト教団は8月の第一週を平和聖日に定めています。これは当教団が独自に定めているものです。平和聖日は西中国教区が1961年に、86日の原爆投下の日、またはその直前の日曜日を平和聖日とすることを提案したことにさかのぼります(西中国教区は広島県、山口県、島根県の3県で構成されている教区です)。

 

翌年の1962年から、平和聖日は日本キリスト教団全体でも守るものとされました。西中国教区の提案は「86日の広島への原爆投下の日またはその直前の日曜日を平和聖日とする」というものでしたが、「8月の第一日曜日を平和聖日とする」という修正を経て、今日に至っています(参照:『日本基督教団史資料集 第4巻』261262頁、日本基督教団出版局、1998年)。平和聖日は原爆の悲惨さを経験した広島の諸教会の祈り、核廃絶に向けての祈りがその発端であったということが分かります。

 

ちょうど本日は86日、広島の原爆の日です。原爆が投下された時刻の815分には、広島をはじめ、各地で祈りがささげられました。核廃絶に向けての祈りを合わせてゆきたいと思います。

 

 

 

忘れてはならない出来事

 

8月には私たちが忘れてはならないさまざまな出来事があります。86日に広島に、9日に長崎に、アメリカ政府によって原爆が投下されました。

 

同日、岩手県の釜石では、アメリカ・イギリス両海軍による2度目の艦砲射撃を受けました(714日の艦砲射撃に続いて2回目)。この日の砲撃は1247分から1445分まで続き、2,781発以上の砲弾が打ち込まれたそうです。2度の砲撃により、釜石の街は廃墟と化しました。

 

また同日、中国の旧満州ではソ連軍が侵攻を始め、旧満州に住んでいた多くの日本人が難民状態となってゆきました。財産も住まいも失われる中で、多くの人々の命が奪われました。現在、朝日新聞の地方版で、そのときの体験を語った三田照子さんの談話が連載されています(『満州 月と星 風化に抗う戦後71年 三田照子さんに聞く』)

 

私たちの住む花巻では、810日に空襲がありました。加藤昭雄氏の『花巻が燃えた日』(熊谷印刷出版部、1999年)によると、花巻空襲による死者は少なくとも47名、身元の分からない人々を加えると60名近く、あるいはそれ以上にのぼるのではないかということです20頁)。最も被害を受けた場所の一つが花巻駅前で、駅前地区だけでも少なくとも32名の命が奪われました。負傷者も多数、建物等も大きな被害を受けました。駅のロータリーには現在、「やすらぎの像」が建てられています(1995年、花巻空襲50周年を記念して建立されました)。

花巻教会が隣接する上町・双葉町・豊沢町の辺りは、爆弾によって生じた火災で甚大な被害を受けました(同書、19頁)。火災によって、673戸もの建物が焼失したとのことです。《燃えに任せた焼け跡はまさに焼け野原と呼ぶにふさわしく、家々は柱も残らないほどに焼け落ち、黒焦げになった土蔵だけが点々と残っていた》(同書、217頁)

 

 

 

被害の歴史と加害の歴史

 

これら悲惨な出来事を決して忘れないと共に、そのような悲劇に至った経緯もまた私たちは忘れず、理解を深めてゆく必要があるでしょう。その歴史は被害の歴史であると同時に、加害の歴史でもありました。

 

日中戦争において、日本軍は中国に対して「無差別爆撃」を行いました。その中で最大の爆撃は、重慶市街地を標的とした「重慶爆撃」です。この重慶爆撃は、《「戦政略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された最初の意図的・組織的・継続的な空中爆撃》であったと言われています(前田哲男『新訂版 戦略爆撃の思想 ゲルニカ、重慶、広島』、凱風社、2006年、25頁)。中国側の資料によれば、193810月から19438月までの5年間に、空襲218回、投下爆弾数21593発、焼失家屋17608棟、死者11889人、負傷者14100人。さらに、194165日の空襲において防空壕に避難して窒息死や圧死した市民数千人を含めると、死傷者はもっと多くなるとされています(吉田敏浩『反空爆の思想』、NHKブックス、2006年、158頁)

 

これら日本軍による中国への無差別爆撃が、その後、アメリカが日本へ無差別爆撃を行う際の「正当化の根拠」を与えることにつながっていったと言われています(同書、171173頁)。歴史的には、アメリカ軍による日本への無差別爆撃、広島と長崎への原爆投下より前に、日本軍による中国への無差別爆撃があった、ということになります。

 

 

 

私たちの眼前にあるさまざまな祈りの課題

 

 平和聖日に際して、奥羽教区からも祈りの課題が配布されています。祈りの課題として、「六ケ所村核燃料サイクル問題・原発再稼働問題」、「集団的自衛権行使問題・安全保障法制廃止問題」、「沖縄辺野古基地建設問題」「憲法『改正』問題」が挙げられています。

 

もちろん、これらの他にも、祈るべき課題はたくさんあります。先日の615日には改正組織的犯罪処罰法、いわゆる「共謀罪」が可決され、711日に施行されました。この法律の施行によって私たちの社会が今後どのようになってしまうのか、皆さんも大変危惧されていることと思います。

 

また先月の726日に、相模原の障がい者福祉施設「津久井やまゆり園」で起こった殺傷事件から1年を迎えました。1年目の726日には、新聞やテレビで改めてこの事件についての特集がなされていました。この事件では、事件の残虐性とともに、容疑者が抱いていた「優生思想」が私たちの社会に衝撃を与えています。

優生思想は勝手なものさしによって人を「優れた者」と「劣った者」に分ける思想です。そして、自分たちが「劣った者」とみなした人々の命を奪うことを正当化する、極めて非人間的な思想です。ナチスドイツの優生思想の影響を受けていたとも言われていますが、私たちはこのような非人間的な思想、またこの思想につながるあらゆる考えを、決してゆるすことはできません。

 

私たちがいま生きている社会には、平和を脅かす状況が至るところで見出されます。目の前にある一つひとつの課題に、私たちが祈りをもって向かい合ってゆけるようにと願います。

 

 

 

平和(シャローム)について

 

 改めて「平和」ということについて考えてみたいと思います。平和とは、ただ国家と国家の間で「戦争がない状態」のみを指すだけではありません。たとえ国家間に戦闘行為が生じていなくても、私たちの生きる社会に貧困や抑圧や差別などが生じていたとしたら、それは平和ではない状態だということになります。 また、私たち自身が誰かと激しく対立していたり、互いに傷つけあったりしてしまっているとしたら、そこでもやはり平和は失われてしまっている、ということになるでしょう。

 

平和はヘブライ語では「シャローム(シャーローム)」と言います。「平安」とも訳すことができ、「すべてが完全であり、何一つ欠けることがないという状態」を意味する言葉です。聖書が語るのは、神さまが与えてくださる「平和」「平安」です。神さまの光のもとで、一人ひとりの存在がかけがえのないものとして大切にされている状態、それが聖書が語る「シャローム」であると私は受け止めています。

 

イエス・キリストは《平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる(マタイによる福音書59節)とおっしゃいました。私たち一人ひとりには、この平和(シャローム)を実現する使命が主より与えられています。

 

 

 

私たちの間の「平和ではない」現実

 

平和を実現するためには、まず、私たちの間に「平和ではない」現状があることに気づき、そこに向かい合ってゆかねばなりません。「平和ではない」現実――神の目にかけがえのない一人ひとりが、大切にされていない現実。軽んじられ、傷つけられている現実。神さまからの尊厳がないがしろにされている現実。私たちはそれら現実に気づき、それに対して、はっきりと「否」を発してゆくことを求められています。

 

たとえば、核兵器というもの。核兵器は、生命と尊厳を全否定する究極の暴力装置です。これ以上ないほど非人道的、残虐な仕方で、無数の人々の生命と尊厳を奪うのが核兵器です。かつてアメリカ政府はその圧倒的な暴力を爆発させることによって、広島と長崎に生きる数十万の人々の生命と尊厳とを否定しました。私たちは核兵器の所有・使用を決してゆるしてはならないし、今から72年前の194586日と9日に、この究極の暴力装置が人々の頭上に現実に投下されたことに対して、もっともっと怒りを表すべきでありましょう。

 

 

 

一人ひとりの生命と尊厳がないがしろにされることを「ゆるさない」

 

本日の聖書箇所に、次のイエス・キリストの言葉がありました。マタイによる福音書1231節《だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。/人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない》。

 

人が犯すどんな罪や冒涜も赦される。しかし、聖霊に対する冒涜は赦されない、と語られています。

 

聖霊が私たちに伝えてくださっている真理、それは「神さまの目から見て、一人ひとりが、価高く、貴いということ」(イザヤ書434節)です。その真理を否定することは、決して「ゆるされない」。そのことを私たちに伝える主の言葉として、本日はこの主の言葉を受け止めたいと思います。

 

私たちには思想信条の自由が与えられています。私たちはどんなことを考えても、どんなことを信じても良い。私たちの魂は、あらゆる束縛から自由です。ただし、他者の存在を否定する言動をすることはゆるされません。神さまの目にかけがえのない一人ひとりの命と尊厳を傷つける言動をすることは、決してゆるされないのです。

 

福音書は、主イエスが激しく憤られ、怒られた姿も記しています。主イエスの怒りとは、生命と尊厳がないがしろにされている現実に対する怒りでした。主イエスの言動から伝わってくるのは、かけがえのない一人ひとりの生命と尊厳がないがしろにされることを、決して「ゆるさない(容認しない、見過ごさない)」という姿勢です。

 

神さまの目から見ると、一人ひとりがかけがえなく貴い。「かけがえがない」ということは、「替わりがいない」ということです。かけがえのない一人ひとりが幸福に、喜びをもって生きる権利は本来、決して奪われることがあってはならないものです。

 

主が約束してくださっている平和(シャローム)への祈りを、本日、ご一緒に私たちの内に新たにしたいと思います。