2018年2月18日「弟子の裏切りと最後の晩餐」

2018218日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書26130

「弟子の裏切りと最後の晩餐」

 

 

 

マタイによる福音書26130節《イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。/「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」/そのころ、祭司長たちや民の長老たちは、カイアファという大祭司の屋敷に集まり、/計略を用いてイエスを捕らえ、殺そうと相談した。/しかし彼らは、「民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」と言っていた。/

 

さて、イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家におられたとき、/一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。/弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。/高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」/イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。/貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。/この人はわたしの体に香油を注いで、わたしを葬る準備をしてくれた。/はっきり言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」/

 

そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、/「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。/そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。/

 

除酵祭の第一日に、弟子たちがイエスのところに来て、「どこに、過越の食事をなさる用意をいたしましょうか」と言った。/イエスは言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」/弟子たちは、イエスに命じられたとおりにして、過越の食事を準備した。/夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。/一同が食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」/弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。/イエスはお答えになった。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る。/人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」/イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、「先生、まさかわたしのことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」/

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」/また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。/これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。/言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」/一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた

 

 

 

受難節

 

先週の水曜日から、教会の暦で「受難節(レント)」に入りました。受難節は、イエス・キリストのご受難と十字架を思い起こしつつ過ごす時期です。今日はご一緒に受難節第1主日礼拝をおささげしています。受難節は今年は331日(土)まで続き、ちょうど新年度がはじまる41日(日)に、イースターの日を迎えることになります。

 

イエス・キリストのご受難を想い起こしつつ、また同時に復活の命の光を待ち望みつつ、この受難節の時を共に歩んでゆきたいと思います。

 

 

 

受難物語

 

受難節に合わせて、マタイによる福音書の受難物語を読んでゆきます(20164月からご一緒にマタイによる福音書を順に読み進めてきていましたが、受難節に合わせて、16章から26章まで飛びます。取り上げなかった10章分に記されていた箇所については、また機会を見つけて取り上げたいと思いますのでご了承願います)。受難物語は、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架の上でお亡くなり墓に葬られるまでの一連の物語を言います。

 

 本日の聖書箇所は受難物語の冒頭部に位置する箇所です。マタイの受難物語は、主イエスご自身が弟子たちに間もなく十字架刑に引き渡されることを予告するところから始まります。12節《イエスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。/「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」》。

 

そうしてベタニアで一人の女性に香油を注がれる場面、ユダが裏切りを企てる場面、主イエスと弟子たちが主の晩餐を執り行う場面へと続いてゆきます。主の晩餐とは、いわゆる「最後の晩餐」とも呼ばれる場面です。レオナルド・ダ・ヴィンチの絵が有名ですね。

 

 

 

ユダという人物

 

本日は特に、ユダという人物に焦点を当ててみたいと思います。「裏切り者」として悪名高いユダ。ユダの裏切りをきっかけに、主イエスは祭司長たちに捕らえられることになりました。確かに、主イエスが十字架刑に引き渡される最初のきっかけを作ったのがユダということになります。ユダの裏切りがなければ、受難物語も成立しなかった、ということもできるでしょう。

 

キリスト教の歴史においては伝統的には、この「裏切り者」のユダを激しく断罪する見方があります。主イエスを十字架の死においやったきっかけと作った人物であるからです。一方で、ユダの裏切りがあったから、神のご計画が成就したのだという見方もあります。福音書をそのような視点で読むこともできるでしょう。新約聖書の正典から外れた『ユダの福音書』という書があります。ユダこそが神の計画の成就のために主から選ばれた特別な弟子であるとする内容で、十数年前、世界中でセンセーションを巻き起こしました。

 

ユダという人物は、どうのように捉えたらよいのか判断に窮する難しい人物です。人によって、捉え方もさまざまであるでしょう。たとえば作家の太宰治は、ユダに自分自身を重ね合わせていたようです。ユダの内面に自身の内面を重ね合わせた『駆け込み訴え』という作品も残しています。

 

私自身、聖書を自分で読み始めた高校生の頃から、ユダという人物がずっと心にひっかかってきました。ご存じのように、主イエスに有罪の判決が下ったのを知ったユダは激しく後悔し、自ら命を絶ちました2735節)。ペトロや他の弟子たちは立ち直って教会の指導者となってゆくのに、ユダだけはそうではありませんでした。立ち直るその機会が与えられる前に、ユダは自ら命を絶ってしまった。激しい後悔、激しい苦痛の中で。そこには、まるで救いがないように思えます。

 

ユダの人生とは、一体何だったのか。そう思う時、私は心が重苦しくなってくるのを感じました。十代の頃から、ユダという存在は私にとって、絶えず心のどこかにひっかかり続けていました。

 

 

 

《生まれなかった方が、その者のためによかった》…?

 

ユダの悲劇的な最期もそうですが、それと共に私の心にひっかかり続けていたのは、最後の晩餐の席上で、主イエスがユダにおっしゃった言葉でした。主イエスは最後の晩餐の席において、弟子の一人が自分を裏切ることを予告された後、《人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった》とおっしゃいました(24節)。この《生まれなかった方が、その者のためによかった》という主の言葉をどう受け止めればよいのか、私は長い間分かりませんでした。

 

文字通りに受け止めると、これ以上人を傷つける言葉はないと思うからです。生まれなかった方がよかったとは、その人の人生を、その人の存在を、全否定する言葉です。そのような言葉を、主イエスご自身がおっしゃっている、ということが、私はどう理解してよいのか分かりませんでした。いくらユダが裏切りを企てているとは言え、このような非情な言葉を本当に主がおっしゃるものだろうか、と疑問にも感じました。

 

また、まるで何か自分自身がそう言われているような悲しみを感じることもありました。太宰治もこの言葉を連想させるような、《生まれてすみません》という言葉を残しています。この言葉は、何か私たちの心の深い所にある悲しみに触れるものであるのかもしれません。

 

 

 

ユダの痛みを代弁する言葉として

 

そのように、長らく心にひっかかり続けて来たこの言葉ですが、わだかまりが解ける一つのヒントとなったのは、フランシスコ会司祭の本田哲郎氏の解釈でした。本田神父はこの主イエスの言葉はユダを断罪する言葉ではなく、ユダの気持ちを思いやり、ユダ自身がそのように言っているだろうというニュアンスを込めた言葉だとおっしゃっていました(荒井献・本田哲郎・高橋哲哉『3・11以後とキリスト教』、ぷねうま舎、2013年、23頁)。この解釈に基づき、本田神父は《その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ》と訳しています。ユダの痛みを代弁する言葉である、という受け止め方ですね。

 

旧約聖書の中にも登場人物が自分の生まれた日を呪う言葉が出て来ます。ヨブ記やエレミヤ書などです。《わたしの生まれた日は消えうせよ》(ヨブ記33節)、《呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない》(エレミヤ書2014節)。これら言葉はすべて、本人が自分に対して言っている言葉である、と本田神父は語っています。自分の耐え難い苦しみを表現する当時の一種の慣用句として、このような言葉があった。主イエスは自分が生まれて来たことを呪ってしまうほどのユダの痛みを受け止めてくださり、「その人にとっては、自分が生まれて来なければよかった、と思うほどだ」とその痛みを代弁してくださっているのではないか。

 

 このような解釈の仕方があるのを知り、私は長年の胸のつかえが少し取れた気持ちになりました。この言葉は、ユダの存在を否定する言葉ではなかった。生きていることが耐え難いほどのユダの痛みを、主イエスがご自身のものとして受け止め、代弁してくださっている言葉なのだ、と受け止めることができるようになりました。

 

 

 

主の晩餐

 

 そうして、続けて主の晩餐の場面が描かれます。主イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂き、《取って食べなさい。これはわたしの体である26節)と言われました。またぶどう酒の杯を取り、感謝の祈りを唱え、《皆、この杯から飲みなさい。/これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である2728節)と言われました。この場面が、現在も教会で大切に行われ続けている聖餐式の由来となっています。

 

 主イエスはユダの激しい痛み、生きているのが耐え難いほどの痛みを我が痛みとして、十字架におかかりになってくださいました。パンとぶどう酒は、その十字架の主のお姿を指し示すものです。

 

 

 

十字架の主の愛 ~あなたの痛みを我が痛みとして

 

 私たちもまた、生きている中で、激しい痛みを感じることがあるのではないでしょうか。生まれて来なかったほうが良かったと思うほどの。生きていることが耐え難いと思うほどの。私たちも時に、そのような心境になることがあるのではないでしょうか。もはや生きていられないくらい、辛い、と。

 

 自分の人生とは何だったのか。すべてが無意味だったのではないか。いっそ、生まれて来なかった方が、よかったのではないか。そう思ってしまう瞬間もあるでしょう。このような心境になることは、私たちにとってまことに辛いことです。

 

 ユダの痛みを我が痛みとしてくださったように、主イエスはこの私たちの痛みを我が痛みとしてくださっています。十字架の上で、血を流しながら。

 

 息を引き取られる直前、主イエスは《エリ、エリ、レマ、サバクタニ2746節)と叫ばれました。これは《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》という意味です。主イエスはご生涯の最期に、「神から自分は見捨てられた」と叫んで亡くなられました。自分の人生とは何だったのか、すべてが無意味だったのではないか、生まれて来なかった方がよかったのではないか。私たちが感じる最大の恐怖、痛み、悲しみをすべてご自身のものとし、絶叫して亡くなられました。ユダの痛みを、私たち一人ひとりの痛みを、我が痛みとして。あなたの痛みを我が痛みをして。それほどまでして、私たちと結び合わさってくださいました。それは、私たちへの愛ゆえにです。

 

 

 

復活の主の恵み ~あなたが生まれて来てくれたことが最大の価値

 

十字架の主はそのように私たちの痛みを負い、私たちの苦しみを代弁してくださっています。そして、十字架の死から三日目に、主イエスは暗い墓の中からよみがえられました。よみがえられた復活の主は、神さまからの真実の言葉を語りかけてくださっています。

 

神さまは、私たち一人ひとりが生まれ出たことを、極めて「よい」こととして祝福してくださっています。あなたが生まれて来てくれたこと、あなたがいま生きてくれていること、そのことを最大に価値あることとしてくださっています。それが、復活の主が伝えてくださっている神さまの真実の声です。

 

「あなたが、あなたそのもので、あって、よい」――復活の主は、そのように私たち一人ひとりに語りかけてくださっているのだと信じています。

 

私たちの痛みを我が痛みとしてくださっている十字架の主の愛と、私たちの存在そのものを肯定し祝福してくださっている復活の主の恵みに、ご一緒に私たちの心を開きたいと願います。