2018年2月25日「ゲツセマネで祈る」

2018225日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書263156

「ゲツセマネで祈る」

 

 

 

マタイによる福音書163156節《そのとき、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』/と書いてあるからだ。/しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」/するとペトロが、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った。/イエスは言われた。「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」/ペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。/

 

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。/ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。/そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」/少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」/それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。/誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」/更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」/再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。/そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。/それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。/立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」/

 

イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。/イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。/ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。/イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。/そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。/そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。/わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。/しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」/またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。/このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった

 

 

 

ゲツセマネの祈り ~一人の人間としての主イエスのお姿

 

本日は受難節第2主日礼拝をおささげしています。受難節は教会の暦で、イエス・キリストのご受難と十字架を思い起こしつつ過ごす時期のことを言います。受難節は今年は214日(水)曜日から始まり331日(土)まで続きます。そうしてちょうど月1日(日)に、イースターを迎えます。

 

受難節に合わせて、先週からマタイによる福音書の受難物語を読んでいます。受難物語は、主イエスが捕らえられ、裁判にかけられ、十字架の上でお亡くなり墓に葬られるまでの一連の物語のことを言います。さきほどご一緒にお読みしたのは、イエス・キリストが逮捕される直前、弟子たちを伴ってゲツセマネという場所で祈りをささげる場面です。このゲツセマネの祈りにおいて、主イエスは深い悲しみと苦しみの中で神さまへ祈りをささげられました。

 

ゲツセマネはオリーブ山にあった園のことを指しています。はっきりとした場所は分かりませんが、たくさんのオリーブの木が茂る、オリーブの採取場であったと考えられています。

 

主イエスはこのゲツセマネの園で地面にうつ伏せになり、《父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに39節)と祈られました。《この杯》とは、迫りくる受難と十字架の死のことを指しています。

 

このゲツセマネの祈りの場面は、福音書の中でもとりわけ私たちの心に強烈な印象を残すものです。主イエスの人間的な姿を率直に記している箇所であるからです。

 

わたしは死ぬばかりに悲しい38節)と、深い悲しみと苦しみの中で身もだえをされる主イエス。弟子たちに「ここを離れないで」と懇願する主イエス。《できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください39節)と祈る主イエス。私たちとまったく同じ、一人の人間としての主イエスのお姿がここには刻まれています。

 

ヘブライ人への手紙57節にはこのような言葉もあります。このゲツセマネの祈りを彷彿とさせる文章で、心を打たれます。《キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました》。

 

 

 

「見捨てられた」という悲しみの中で

 

主イエスはここで、何に対して深く悲しみ、苦しんでおられたのでしょうか。福音書はその理由をはっきりとは記していません。もちろんそこには、目前に迫る十字架の道への恐れ、苦しみもあったでしょう。と同時に主イエスはここで《わたしは死ぬばかりに悲しい》とご自分の心境を吐露されています。深い悲しみを吐露されているのですね。

 

私なりに思うことは、主イエスはこの時、「見捨てられた」という悲しみをお感じになったのではないか、ということです。他ならぬ、神に「見捨てられた」という悲しみです。愛してやまない父なる神とのつながりが、突然、断たれてしまったように感じた。その深い悲しみ、孤独、絶望が魂を貫き、主イエスは身もだえされ始めたのではないか。

 

 その激しい苦しみの中で、主イエスは傍にいる弟子たちに語りかけられました、《わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい38節)と。

 

 神さまとのつながりが断たれた衝撃の中で、いまや唯一の光は弟子たちの存在だけであったからです。このときの主イエスにとって、暗闇の中の唯一のともし火が、愛する弟子たちの存在であったのではないでしょうか。主イエスは弟子たちに、「どうかここを離れないで、共に目を覚ましていてほしい」と懇願されました。

 

しかし弟子たちは主イエスの悲しみを理解することなく、主イエスが祈られている間にまどろみに陥り、眠り込んでしまっていました。

 

眠っている弟子たちを見て、主イエスは《あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。/誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い4041節)とおっしゃいました。弟子たちに対し、主イエスは再び「目を覚まして祈っていなさい」とおっしゃいますが、それでもやはり弟子たちは眠り込んでしまいました。

 

 孤独の闇が、主イエスを包み込みます。実際この後、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまうことになります。主イエスの最後の望みの光は失われました。 神からも人からも見捨てられた中で独り立ち上がり、主イエスは十字架の道を歩んでゆかれることになります。

 

あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。/立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た4546節)

 

主イエスが立ち上がられた時、向こうの方には松明の明かりと共に、主イエスを裏切ったユダと群衆の姿が見えました。剣と棒をもった群衆に取り囲まれ、主イエスは逮捕されます。弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げていってしまいました。

 

 

 

私たちが経験する悲しみ、苦しみ、痛みをご自分のものとして

 

 このゲツセマネの出来事を踏まえます時、主イエスは神と人から「見捨てられた」という感覚の中で、十字架の道を歩んでゆかれた、ということが分かります。「神が共におられる」と信じることができるなら、苦しみにも耐えられるかもしれません。けれども、神が「不在」の中で、受難の道を歩まねばならないとしたら、これほど恐ろしいことはないでしょう。

 

主イエスはゲツセマネの園で、「神が自分と共におられない」という欠乏感の中で、祈りをささげられました。沈黙し続けている神に向かって、自分の叫びに何も答えない神に向かって、もしかしたらもはや自分の前には「存在しない」のかもしれない神に向かって、祈りをささげ続けられたのです。

 

私たちもまた、生きている中で、神からも人からも「見捨てられた」と感じる経験をすることがあるかもしれません。いまは「神を信じられない」という心境になることもあるでしょう。孤独と不信の闇が自分を包み、心が引き裂かれたような気持になることもあると思います。主イエスはここで、私たちが経験する悲しみ、苦しみ、痛みをご自分のものとして経験し尽くしてくださったのだ、と私は受け止めています。

 

 そして、十字架の上で、主イエスは最後に《わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか》2745節)と絶叫され、息を引き取られました。神から見捨てられ、愛する弟子たちからも見捨てられたと感じる激しい苦痛の中で、亡くなられました。主イエスは私たちが経験するあらゆる悲しみ、苦しみ、痛みをご自分のものとして経験し尽くし、そのご生涯を閉じられました。そこまでして、主は私たちの痛みを受け止め、私たちと結びついてくださいました。私たち一人ひとりの痛みと結びついてくださいました。

 

それは他ならぬ、私たちへの愛ゆえにです。主イエスは私たちに、決して消え去ることのない神さまの愛を私たちに伝えてくださいました。私たちの存在の奥深くに、消えることのない光をともしてくださいました。そうして、私たちとどんなときも「共にいる」ようにしてくださいました。

 

聖書は語っています、《…高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです(ローマの信徒への手紙839節)

 

 

 

 

「目を覚ましていなさい」

 

この主の愛を思う時、ゲツセマネの園の《目を覚ましていなさい》という主の言葉が、再び私たちの心に、痛みをもって響いてきます。私たちのために、主がこれほどまでに苦しんでおられるとき、眠り込んでしまっていた弟子たちの姿。これは、私たち自身の姿でもあるのではないかと思わされます。

 

地面に伏して苦闘している主イエスの傍で、その悲しみを理解できずに、眠り込んでしまっていた弟子たち。ここに、他者の痛みに対してまどろみ眠り込んでしまう自分自身の姿を見いだす想いがいたします。

 

アドベントの時期、ご一緒に《目を覚ましていなさい》という主の御言葉をお読みしました(マルコによる福音書143237節、マタイによる福音書244244節など)。この言葉を、「痛みに対して目を覚ましていなさい」という意味の言葉として受け止めました。

 

慌ただしい日々の生活の中で、私たちはすぐに「痛みを感じとる心」がまどろみ、眠り込んでしまうものです。他者の痛みを感じとる心、また自らの痛みを感じとる心が。誰かが悲しい思いをしているのに、その悲しみが理解できず、気が付かずに通り過ぎてしまう。見過ごしてしまう。日々の生活の中でさまざまな場面において、私たちは地に伏して苦しんでいるキリストの傍を気づかずに通り過ぎてしまっているのかもしれません。

 

 

 

今度こそまどろみから目を覚まし 

 

わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい》――。

 

今日も、私たちの周りで、この声にならない声が、あふれています。いまも、ゲツセマネの園で苦しむキリストの声があふれています。

 

私たちが他者の痛みを受け、悲しみを理解しようとすることが、この主のお苦しみを受け止めることにもつながっているのだと思います。どうか今度こそ、共にまどろみから目を覚まし、互いの悲しみや痛みを受け止めてゆくことができますように。どうか今度こそ、私たちが悲しむキリストの闇の中のともし火であることができますようにと願います。