2018年2月4日「人を大切にするための教え」

201824日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:マタイによる福音書16112

「人を大切にするための教え」

 

 

 

マタイによる福音書16112節《ファリサイ派とサドカイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを見せてほしいと願った。/イエスはお答えになった。「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、/朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。このように空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。/よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」そして、イエスは彼らを後に残して立ち去られた。/

 

弟子たちは向こう岸に行ったが、パンを持って来るのを忘れていた。/イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。/弟子たちは、「これは、パンを持って来なかったからだ」と論じ合っていた。/イエスはそれに気づいて言われた。「信仰の薄い者たちよ、なぜ、パンを持っていないことで論じ合っているのか。/まだ、分からないのか。覚えていないのか。パン五つを五千人に分けたとき、残りを幾籠に集めたか。/また、パン七つを四千人に分けたときは、残りを幾籠に集めたか。/パンについて言ったのではないことが、どうして分からないのか。ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい。」/そのときようやく、弟子たちは、イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った

 

 

 

《ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい》

 

本日の聖書箇所において、ファリサイ派とサドカイ派というグループが登場します。ファリサイ派もサドカイ派もユダヤ教の一派です。二つのグループに共通しているところは、「旧約聖書の律法を厳格に守っていた」というところです。

 

旧約聖書には「律法」と呼ばれるさまざまな掟が記されています。日々の生活におけるさまざまなルール、決まり事です。古代イスラエルの人々はそれらを「神の掟」として受け止め、大切に守っていました。ファリサイ派やサドカイ派は、特にそれら律法を厳格に守ることで知られていたグループでした。両者ともイスラエル社会の中で指導的な役割を負っていたグループであり、当時、人々に対して大きな影響力をもっていました。

 

新約聖書の福音書の中ではイエス・キリストと論争をする存在として、ファリサイ派とサドカイ派の人々が登場します。本日の物語においても、《ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい》という言葉が出て来ました611節)。ちょっと不思議な言葉ですが、ファリサイ派とサドカイ派に注意すべきことが言われているのだなということは伝わってきます。

 

「パン種」とは、パンを膨らませる酵母(イースト)のことです。何千年も前から、酵母を生地に入れて、発酵させる仕方は日常的に行われていました。パンの生地というのは、何も入れていない状態で焼いてもあまり膨らみませんよね(旧約聖書には、あえて酵母を入れない『種なしパン』というものも出て来ます)。パンを手作りしたことのある方は、パン作りの様子をイメージしていただければと思います。パン種(パン酵母)を投入することによって、生地が発酵し、変化をしてゆきます。生地の温度が上がるにつれ、どんどん膨張し、ふっくらとしてゆきますね。

 

ここでは、私たちの心がパン生地として、私たちに与えられる教えがパン種で表されているようです。パン種というのは大きな影響力をもっています。まっさらな生地に大きな変化をもたらします。そのパン種が善いものであったらいいのですが、もしそれが何か否定的な意図や力をもったものだとしたら。私たちの心は悪い方向へと変化してしまうでしょう。

 

主イエスは《ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい》とおっしゃいました。ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えは、確かに、影響力がある。しかしそれら教えは、時に、あなたがたに否定的な影響を与え、良くない方向に膨らませてゆくものであるから、よくよく吟味し、気をつけるようにと主イエスはお語りになったのでしょう。

 

 

 

「律法を大切にし、神を大切にする」ことを重視するあまり……

 

 では、彼らの教えとはどのようなものであったのでしょうか。冒頭で、ファリサイ派とサドカイ派の人々は「律法を厳格に守っていた」グループであった、ということを述べました。彼らが懸命に律法を守っていたのは、それが「神から与えられた掟」であると受け止めていたからでした。すなわちそれら姿勢の根底には神への信仰があるのだ、ということが分かります。神が与えてくださった約束、決まり事を守る。それが神と信頼関係を築いてゆく何より大切なことであり、神への愛の表明であったのですね。

 

 旧約聖書の律法の中には《あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい》という掟があります(申命記65節)。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして――言い換えれば、「全身全霊で神を愛する」こと。具体的にはそれは、ファリサイ派やサドカイ派の人々にとっては「律法を守る」ことを意味していました。

 

 それほどまでに徹底して律法を守り、神を大切にしようとする姿勢はまことに尊いものです。この姿勢自体は、何ら悪いものではありませんし、聖書が一貫してずっと大切にし続けているものです。

 

 主イエスはこの姿勢が、歪んだ方向へ進んでいってしまった場合の危険性について述べておられるのだと思います。それは、「律法を大切にし、神を大切にする」ことを重視するあまり、いまの目の前にいる人のことが見えなくなってしまう、という場合の危険性です。主イエスは、神さまのことを大切にしようとするあまり人間が見えなくなってしまうことについて警鐘を鳴らしておられるのだと思います。

 

 

 

「悪しきパン種」 ~「人を大切にする」ことを教えない

 

旧約聖書の律法にはたとえば、「神に犠牲の献げ物をささげなさい」ということが記されています(レビ記17章など)。よって、イスラエルの人々は神殿で神さまに献げ物をする儀式を非常に大切にしていました。しかしその儀式に熱心になるあまり、神殿の周りで困っている人や助けを求めている人がいるのに、目を向けない状態になっているとしたら、どうでしょうか。実際、主イエスが生きておられた時代、そのような状況が起こっていたようです。宗教的な指導者たちは神殿の中で犠牲の献げ物をささげることに熱心でありましたが、神殿の外で苦しんでいる人々の存在には心を向けていなかったのです。

 

主イエスはファリサイ派やサドカイ派の人々に同様の態度を見出し、厳しく批判されたのです。あなたがたは人々に「律法を大切にし、神を大切にする」ことを教えている。それは確かに重要なことだ。けれども、「人を大切にする」ことは教えていないのではないか。律法を厳格に守ろうとするあまり、人々の痛みや苦しみを顧みず、ないがしろにしているのではないか。そのような教えは結果的に、「悪しきパン種」のように人々の心と体と魂に良くない影響を与え、むしばんでゆくのだ、と。「人を大切にする」ことを教えない《ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい》と、主イエスは弟子たちにお語りになったのだ、と受け止めています(ただし、もちろん、すべてのファリサイ派とサドカイ派の人々はそうであった、ということではないでしょう)。

 

 

 

組織のために人を犠牲にしてしまう ~いかなる組織においても生じる危険性

 

 いまお話ししたことは宗教に関することですが、これに共通する事柄はいまを生きる私たちの社会のさまざまな場面に見いだすことができるように思います。「人を大切にする」ことを教えない、という問題が、さまざまな場面で起こっているのではないでしょうか。

 

 たとえばある組織において考えてみましょう。基本的に、組織においては、その「組織の利益や拡大」がメンバーの共通の目標とされるでしょう。それはやむを得ないことです。しかしそれのみに過剰に重点が置かれ、メンバー一人ひとりの意志が尊重されないとしたら。「人が大切にされない」状態が生じてしまうのではないでしょうか。

 

またそのような状態が極端化してゆくと、メンバーは組織のしきたりやルールに絶対従わねばならないという暗黙の了解が生じたり、メンバーは組織のために自分を捧げねばならないという風潮が生じていってしまう危険性があります。「組織の都合」という命題がどんどん膨張し、絶対化されてしまうのです。「悪しきパン種」が強力な影響力を発揮し始め、人々を縛り、精神的・経済的に搾取していってしまうようになります。

 

このような状態に取り組まれてしまうと、私たちはなかなかそこから抜け出すことができなくなります。「悪しきパン種」は、組織のために自分を犠牲にするほど、それが素晴らしいことと、犠牲を美化する仕組みも造り出すでしょう。また、何か組織の在りかたに疑問に思ったり、批判しようとすると、忠誠心(信仰)が足りないと叱責します。何か自分が悪いように、自分を責めるようにと仕向けるでしょう。よって、「悪しきパン種」の影響下からますます抜け出せなくなってゆくのです。いわば、一種のマインドコントロールを働かせている状態であると言えます。

 

そのような状態に陥る危険性は、確かに、宗教において起こりやすいことだと思います。「神」とその「宗教団体」という絶対的な価値のためには、人を犠牲にしてもよい、という論理は容易に生じやすいものです。実際、主イエスが生きておられたとき、宗教がそのような論理で動いてしまっていた部分あったのだと思います。しかしそれは、宗教以外でも、いかなる組織においても、このような危険性は生じ得るものではないでしょうか。私たちの国においては戦時中、国家単位でそれが起こりました。国のために国民が犠牲になることが強要される悲劇が生じてしまったのです。

 

本来の在りかたは逆でしょう。一人ひとりのメンバーのために組織があるのであり、一人ひとりの個人のために国家がある。その逆ではありません。主イエスも別の福音書でそのことを宣言してくださいました。《安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない(マルコによる福音書227節)と。

 

 

 

「自分と他者を大切にすることを通して、神を大切にする」道

 

 よく知られていますように、主イエスは最も大切な二つの掟についてお語りになりました。一つは、「全身全霊で神を愛する」こと。もう一つ、この掟と同じように大切な掟がある。それが、「隣人を自分のように愛する」ことである、ということを伝えてくださいました。

 

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』/これが最も重要な第一の掟である。/第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』…」(マタイによる福音書223739節)

 

ファリサイ派やサドカイ派の教えにおいては、「人を大切にする」という、最も重要な掟のもう一つが抜け落ちていたのです。「一人ひとりの個人を大切にする」という側面が抜け落ちてゆくとき、いかなる教えも――一見、それが「正しく」「美しい」ことを言っているようであっても――それは私たちにとって「悪しきパン種」になってしまう可能性があります。「一人ひとりの個人」の中には、もちろん、自分自身も含まれています。これからの私たちにとって、「自分を愛する」ということは、まず第一に重要な課題です。

 

自分自身の痛みや苦しみに、まず第一に心を向ける事。いま目の前にいる人の痛みや苦しみに、まず第一に心を向けること。そのように、「自分自身と他者を大切にしてゆく」ことが、「神を大切にする」ことにもつながっていることを主イエスは身を持って教えてくださいました。「自分と他者を大切にすることを通して、神を大切にする」(マタイによる福音書2540節)――それが主イエスが体現してくださっている道であると私は受け止めています。私たちはもはや、何か絶対的な価値のために自分や他者を犠牲にする生き方はしなくてよいのです。

 

自分を大切にし、他者を大切にし、神を大切にする新しい生き方を、共に始めてゆけますようにと願っています。