2018年3月11日「命の道を選び取る」

2018311日 花巻教会 主日礼拝説教

 聖書箇所:マタイによる福音書27126

 

「命の道を選び取る」

 

 

マタイによる福音書27126節《夜が明けると、祭司長たちと民の長老たち一同は、イエスを殺そうと相談した。/そして、イエスを縛って引いて行き、総督ピラトに渡した。/

 

そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、/「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った/そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。/祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、/相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。/このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。/こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。/主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」/

 

さて、イエスは総督の前に立たれた。総督がイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と言われた。/祭司長たちや長老たちから訴えられている間、これには何もお答えにならなかった。/するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。/それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。/

 

ところで、祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた。/そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた。/ピラトは、人々が集まって来たときに言った。「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。」/人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。/一方、ピラトが裁判の席に着いているときに、妻から伝言があった。「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢で随分苦しめられました。」/しかし、祭司長たちや長老たちは、バラバを釈放して、イエスを死刑に処してもらうようにと群衆を説得した。/そこで、総督が、「二人のうち、どちらを釈放してほしいのか」と言うと、人々は、「バラバを」と言った。/ピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言った。/ピラトは、「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言ったが、群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び続けた。/ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」/民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」/そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した

 

 

 

東日本大震災から7

 

今日で東日本大震災と原発事故から7年を迎えました。全国で祈りがささげられていることと思います。岩手地区では今日の午後2時半から、宮古教会と一関教会を会場にして東日本大震災7年を覚えての礼拝が行われます。私たち花巻教会は一関教会の礼拝に参加します。

 

地震、津波、原発事故による放射能の被害は、いまも深い傷跡を残したままです。現在も多くの方々が生活の困難、避難生活を余儀なくされています。

 

もちろん、少しずつ復興が進んでいる部分もあります。仮設住宅から復興住宅(災害公営住宅)に移り住む方々も増えています。花巻教会が属する仲町と隣接する上町にも復興住宅が建設される予定であると聞いております。少しずつ復興は進んではいますが、同時に、多くの方々がいまだ困難を抱えながら生活しています。支援が打ち切られ、生活がより困難となっている方々。またたとえ建物や生活は再建されても、心と体が立ち上がることができない方々も多くおられます。

 

昨日、NHKで夜9時から、『誰にも言えなかった ~震災の心の傷 母と子の対話』という番組が放映されていました。御覧になった方もいらっしゃることと思います。東日本大震災で被災した女の子とそのお母さんのドキュメンタリーでした。女の子は3歳のとき釜石で被災し、祖父母と叔父を亡くしました。その心の深い傷をずっと面に出さないように努めていましたが、震災から5年近くが経ったとき、押し込めていたものが表面に出て来きて、心と体に異変が生じるようになったとのことでした。少しずつ悲しみに向き合い、少しずつ前へと進んでゆこうとする家族の姿が描かれていました。

 

番組の中では、震災による心のケアが必要な子どもたちは分かっているだけで14000人以上いると報じられていました。この女の子のように、何年も経ってから心と体に異変が生じる子どももたくさんいることと思います。

 

皆さんにおいても時間が経ったいまだらこそ、押し込めていた心の傷、痛み、悲しみが表面に出て来ているということがあるかもしれません。震災から時間が経ち、自分の心と向かい合うことができるようになりつつある今、ますます心のケアへの取り組みが重要になってきているのを感じます。

 

聖書に《喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい》という言葉があります(ローマの信徒への手紙1215節)。喜びも悲しみも共にしながら、少しずつ共に前へ進んでゆけるよう願っています。

 

 

 

福島第一原発の廃炉作業

 

一昨日の金曜日には、テレビ朝日の報道ステーションで福島第一原発の廃炉作業の特集が放送されていました。番組を観ていて、原発事故によっていかに取り返しのつかないことが起こってしまったかを改めて思わされました。

 

原発の廃炉作業には、核燃料の取り出し、汚染水の処理の問題など、困難な問題が山積みですが、最も困難なのは溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出しであると言われます。番組ではそれがいかに困難な作業であるかが報じられていました。国が主張している40年後の廃炉計画はおよそ現実的ではない、100年単位で考えた方がよいのではないか、という専門家の意見も紹介されていました。廃炉作業においては、現場の最前線で作業に当たっている方々の健康被害も非常に心配です。

 

今から100年後――途方もない長い年月です。もちろん、100年後にはここにいる誰もおそらく生きていないことでしょう。未来の世代にとんでもない負の遺産を遺してしまった私たち。これ以上、私たちは負の遺産を次世代に遺してはなりません。せめて、いま全国にある原発を早急に停止し、ゼロにしてゆくことがいまを生きる私たちの責任であると思います。

 

原発事故から7年を迎えたいま、私たちは改めて原発事故の悲惨さを思い起こし、同様の事故を二度と起こさない決意を新たにしなくてはならないでしょう。

 

1986年のチェルノブイリ原発事故から5年後に成立した「チェルノブイリ法」では、起こったその出来事を「事故」と呼ぶことを止めたそうです。「事故」ではなく、「カタストロフィ」(大惨事、大災害、破局)と呼ぶことにした。取り返しのつかない、地球規模のカタストロフィ(破局的な出来事)が起きたと考えたからです。その認識のもと、チェルノブイリ法では国による被害者に対する長期的な補償が定められました(参照:日野行介/尾松亮『フクシマ6年後 消されゆく被害 歪められたチェルノブイリ・データ』、人文書院、2017年、200201頁)。私たちもまたこの度の原発事故で、取り返しのつかないこと、カタストロフィを引き起こしてしまいました。原発事故を過小評価し、各地の原発を再稼働させようとする動きがある中で、私たちは今一度、カタストロフィを起こしてしまったという認識の下で、この問題に向かい合ってゆかねばならないでしょう。

 

 

 

放射線の健康への影響について

 

世論調査などを見ると原発に関しては日本に住む多くの人が反対の意見を持っていることが分かります。一方で、放射線の健康への影響についてはさまざまな受け取り方があります。原発事故から7年が経過した現在、放射線被ばくによる健康への影響は「ない」ものとする風潮、もしくは「極めて軽微」なものとする過小評価しようとする風潮がますます強まってきているように感じ、強い危惧を覚えています。

 

確かに、低線量被ばくの影響はいまだ分かっていないことが多く、因果関係を現時点でははっきりと特定することはできない部分があります。けれども、それはあくまで現段階では因果関係を「識別できない」ということなのであって、原発事故による健康への影響が「ない」ということにはなりません。「識別できない」ということと「存在しない」ということとをイコールにして、この問題についての議論が終わらせようとしている風潮があることを感じます。現時点では影響がはっきりと「識別できない」からこそ、そのリスクに対してできる限り注意を払い続けることが重要ではないでしょうか。そのために、長期的・継続的な検査をしてゆくことも不可欠のことです。

 

 会津放射能情報センター代表の片岡輝美さんが、「反原発・被ばく容認」という立場が最近力をもってきていることへの危惧を述べていらっしゃいました(今、憲法を考える会・通信『ピスカトール No.43』、2018220日より)。「反原発・被ばく容認」というのは、原発は反対であるけれど、この度の原発事故による放射線の健康被害は「ない」ものとする立場、または「極めて軽微」なものとして被ばくを容認する立場です。この「反原発・被ばく容認」の立場においては、放射能の不安を訴えることは、「福島への差別を助長する」行為として批判されます。

 

 片岡輝美さんはこのような「被ばく容認」の考えは受け入れることができない、と述べておられました。「反原発・被ばく容認」ではなく、「反原発・脱被ばく」の立場をこれからも選んでゆきたい。私も同様の意見です。私たちは命をこそ、第一に考えてゆかねばならないと考えるからです。

 

 もちろん、「反原発・被ばく容認」の立場に立つ方々も福島の人々のことを思って発言しておられるのだと思いますが、命を守るためには「反原発」のみならず、「脱被ばく」の立場をはっきりと選び取ってゆかねばならないと考えます。被ばくは決して、「やむを得ない」ものとして容認してはならないものです。特に、放射線の影響を受けやすい子どもたちを守るために、私たちは「脱被ばく」を堅持してゆかねばならないでしょう。

 

 

 

「イエス・バラバか、イエス・キリストか」

 

本日の聖書箇所には、ローマ総督ポンテオ・ピラトの下でなされた、イエス・キリストの裁判の様子が記されていました(マタイによる福音書271126節)。その中で、ピラトが、バラバという人物と主イエスと、どちらを解放するかを集まっていた群衆に問う場面が出て来ます。当時、過越し祭の際に囚人を一人釈放するということがなされていたようです。バラバという人物は、おそらくローマ帝国への抵抗・独立運動の指導者の一人であったと考えられます。一部の人々からは英雄視されていた人物であったのかもしれません。バラバは奇遇にも、主イエスと同じ「イエス」という名前でした。捕らえられている二人のどちらを、あなたたちは釈放してほしいか。「イエス・バラバか、イエス・キリストか」。

 

ピラトの問いに民衆は「バラバを」と言いました21節)。ピラトが「では、メシアと言われているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、人々は「十字架につけろ」と言いました22節)

 

私たち人間の歴史は、イエス・キリストではなく、イエス・バラバを選んだのです。主イエスはその後、十字架に磔にされるため、ローマ兵たちに引き渡されることになります。主イエスが十字架につけられたのは、一部の人々の自分勝手な都合のためであったことを福音書は記しています。自分たちの勝手な都合のために、無実の人を十字架につけて殺してしまった。自分たちの利益のために、神の子を十字架につけて殺してしまったのです。

 

 私はこの出来事は、いまの私たちの社会につながっているものとして受け止めています。目の前にある自分の都合や利益を最優先させ続けてきてしまった結果が、この度の原発事故の大惨事となって現れ、いまの日本の社会の現状となって表れているのではないかと思わずにはおられません。

 

 

 

命の道を選び取る

 

 私が改めて思い起こすのは、旧約聖書の申命記の言葉です。申命記の結びの部分には、モーセを通して、神と人間との間で再び契約を結ぶ場面が記されます。

 

その中で、モーセを通して主なる神が次のようにおっしゃいます。《わたしはあなたたちとだけ、呪いの誓いを伴うこの契約を結ぶのではなく、/今日、ここで、我々の神、主の御前に我々と共に立っている者とも、今日、ここに我々と共にいない者とも結ぶのである(申命記291314節)。イスラエルの民が今日ここで決断することは、まだここにはいない未来の世代にも深い影響を及ぼすのだ、と語られているのです。

 

 そしてその後、主なる神は、集った一人ひとりに命じられます。《わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、/あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主に従いなさい(申命記301920節)

 

あなたがたの前にはいま、「命と死」、「祝福と呪い」とが置かれている。あなたはいま、どちらの道を選び取るのか。あなたは「命」をこそ選びなさい。そうして、未来の子どもたちも「命」を得られるようにしなさいと命じられています。

 

私たちが今日、何を選び取るか、どのように決断するかが、自分たちのみならず、まだここにはいない未来の世代にも影響を及ぼしてゆきます。

 

かつて私たちは自分たちの都合や利益のためにバラバを選び、主イエスを十字架にはりつけにしてしまいました。戦後、私たち日本の社会は自分たちの都合や利益を優先し、原発推進の道を選び、結果、原発事故という大惨事を引き起こしてしまいました。その過去を踏まえ、今度こそ、私たちは「命」の道を選び取ってゆきたいと思います。

 

未来の子どもたちに「呪い」ではなく「祝福」をこそ残してゆきたい。「死」ではなく「命」をこそ手渡してゆきたいと願います。この道には確かに、さまざまな困難が伴うかもしれません。時に疲れを覚え、座り込んでしまうこともあるかもしれません。しかし、この道を歩む人々といつも主は共におられ、私たちに立ち上がる力を与えてくださることを信じています。いま共に、「生命と尊厳とを第一とする道」を選び取ってゆきましょう。