2018年4月22日「互いを大切にしあうための道」

2018422日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:ヨハネによる福音書133135

「互いを大切にしあうための道」

 

 

 

ヨハネによる福音書133135節《さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。/神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。/子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。/あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。/互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 

 

 

教会総会

 

新しい年度が始まり、数週間ほどが経ちました。花巻もちょうど、桜が満開となりました。市役所へ上ってゆく坂道の桜もとてもきれいですね。皆さんはお花見はされたでしょうか。昨日は初夏のような陽気で、歩いていると少し汗ばむほどでした。

 

本日は礼拝後に、2018年度の花巻教会の教会総会がもたれます。この1年間、神さまと多くの方々によって教会の歩みが支えられたことの恵みを振り返りたいと思います。またそして、これから教会をより良いかたちにしてゆくために、ご一緒に祈りを合わせてゆきたいと思います。教会員の方はどうぞご出席くださいますよう、よろしくお願いいたします。

 

 

 

力による支配の構造

 

今年に入ってから、私たち日本の社会ではさまざまなことが起こっています。とりわけ政治の世界は大変な混乱状態に陥っています。皆さんもよくご存じのように、森友学園問題、加計学園問題、それに伴う公文書改ざんの問題、また防衛省による「日報」隠ぺいの問題、自衛隊幹部による「国民の敵」発言、など。ここ一週間は財務省の福田事務次官のセクシュアルハラスメントの問題が取り上げられています。毎日テレビや新聞で驚くべき報道がなされ、それがあまりにも連日続くので、それら報道に対して無感覚になってしまいそうなほどです。

 

ここ最近の報道を見ていますと、何か私たちの社会がこれまで前提としていた良識とでも呼べるものが崩壊してしまっているという印象を受けます。嘘をついてはいけない。本当のことを隠したり誤魔化したりしてはいけない、など私たちが他者との関係を築く上での最も基本的なルールですが、こともあろうか政治の世界において崩れてしまっているという現状があります。

 

最近の問題を見ていて、共通していると思う点があります。それは、「力による支配の構造」が見られるという点です。一部の力のある人の意向が、他の人々に一方的に押し付けられているという構造があるように思います。

 

森友学園や加計学園の問題においては、安倍首相を始めとするごく一部の人々の意向――今回の場合はそれは明らかな不正を伴うものでした――が他の大勢の人々に一方的に押し付けられ、そのことによりさまざまな問題が生じてしまっています。押し付けられている側は、それに対して「NO」と拒んだり、異議を唱えたりすることが許されていません。ここには、まったく対等な関係がなく、歪んだ主従関係が生じてしまっています。

 

不正は不正の連鎖を生み、嘘はさらなる多くの嘘を生み、ついには公文書を改ざんせざるを得ないまでに追い込まれ、やがて組織全体の良識は崩壊へと向かってゆきます。忘れてはならないのは、その不正のしわ寄せが組織の弱い立場にある人々にいってしまうということです。

 

先月は、森友学園の文書改ざんを引き継いだ近畿財務局の現場の職員の方が自ら命を絶ってしまうという大変痛ましいことが起こりました。心身が極限まで追い詰められた結果のことであったと思います。このようなことが二度と起こらないように、と願わずにはおられません。まず第一に責任が問われねばならないのは、自分たちの都合を一方的に押し付けた、強い立場にある人々であるのは言うまでもないことです。

 

 

 

セクシュアルハラスメントの問題

 

力による支配の構造の問題――。セクシュアルハラスメントの問題でもやはり同様の問題を見出すことができると思います。財務省の福田事務次官のセクシュアルハラスメント(日本語にすると性的ないやがらせ、いじめ)の問題がここ連日取り上げられています。取材を受ける側の福田事務次官は力の強い立場にあり、取材をする側の女性記者の方は弱い立場にあります。福田氏は強者である自分の立場を利用し――自覚的にもしくは無自覚に――、相手を不快にさせる性的な発言を繰り返しました。ここにも、力のある人が自分の欲求を相手に一方的に押し付け、相手を支配しようとするという問題が見られます。

 

ここで抜け落ちているのは、相手がどう思うか、どのように感じているかを想像する心であり、相手の人格を敬意をもって尊重しようとする心です。相手を思いやる心が見失われてしまっていては、対等な関係性を築くことはできません。

 

力による支配の構造があるゆえに、ハラスメントの被害にあった人の方が沈黙させられ、泣き寝入りを強いられるという状況がこれまで長らく続いてきました。昨年から、「Me,too」という言葉とともに、セクシュアルハラスメントや性暴力の被害にあった方々が勇気をもって声を上げ始めています。少しずつではありますが、支援の輪も広がっています。しかしそれはあくまで始まりであり、私たちの社会にはセクシュアルハラスメントや性暴力に関してまだまだ根深い問題が横たわっているということができるでしょう。いまだ無数の人々が声を上げられず、沈黙を強いられ、涙を流し続けている現状があるでしょう。

 

セクシュアルハラスメントを始め、ハラスメントは、相手に肉体的・精神的な著しい苦痛を与え、尊厳を傷つける行為です。ハラスメントにあうと、人は自尊心が低下し、生きる意欲が吸い取られたようになり、場合によっては抑うつ状態や、深刻な心身の不調に陥ってしまいます。私たちはいかにしたら、ハラスメントの被害にあった方々を守り支援してゆけるか、またハラスメントを無くしていけるか、社会全体で考えてゆくことが求められています。私自身、より学んでゆきたいと思っていますし、皆さんとも学び合って行ければと思っております。

 

 

 

私たちは被害者にも加害者にもなり得る

 

 ここ最近の報道を例に、強い立場にある人々が力によって人々を支配しているという問題があることを述べました。力による支配の問題、言いかえると、自分の意向や欲求を相手に一方的に押しつけてしまうという問題です。これは、私たち自身にも当てはまり得る問題であるのではないでしょうか。私たちも日々の生活において、自覚的または無自覚に、無理やり相手を服従させようとする言動をしてしまっていることがあるように思うからです。この問題はどこでも起こり得る問題であり、私たち自身がいつでも被害者、また加害者になり得るのだと思います。

 

たとえば学校においては教師が生徒に対して、会社においては上司が部下に対して。強い立場にある人が、その立場を利用して、自分の意向や欲求を相手に強要してしまうことがあるかもしれません。また、教会においては、牧師が教会員の方々にそれをしてしまうこともあるかもしれません。私自身、牧師という役職である以上、常に気をつけねばならないと自戒しています。自分ではそうするつもりでなくても、無自覚に、力による支配の構造を作り出してしまうこともあるだろうからです。

 

また、普段は対等な関係であっても、ある瞬間、一方が強者、一方が弱者の立場になってしまうことがあります。たとえば、一方が怒って大きな声を出したり威圧的な態度をしたりして、相手がそれに対して委縮してしまったり恐怖心を抱いたりしてしまう場合などです。この時、怒った方は――自分では自覚していなくても――強い立場に立ち、相手を弱い立場に追いやってしまっていることになります。また、私たちは相手のいやがる言葉、反論できないような言葉をあえて発することによって、相手より優位な立場に立とうとしてしまうこともあるでしょう。

 

日々の生活を振り返ると、私たちにはどちらも心当たりがあるのではないでしょうか。相手より強い立場に立とうとしてしまったことも、相手から弱い立場に立たされてしまったことも、どちらも経験があることかもしれません。振り返って見ると、それらは私たちにとって非常に辛い経験です。もしも自分が被害者の立場に立たされてしまった場合、自分一人で抱え込むのではなく信頼できる誰かに相談するということが大切となります。自分自身を守ることを第一としていただきたいと思います。

 

そのような対等ではない関係性が生じてしまうのは、一方が自分の意向や欲求を押し付けようとしていることが関わっています。一方が強い立場に立ち、相手を自分の思い通りにさせようとするとき、そのような事態が生じます。ここで一時的に見失われてしまっているのは、相手がどのように感じるかを想像する心であり、相手の人格を敬意をもって尊重しようとする心です。

 

私たちの内には、相手より優位に立ちたい、自分の言うことを聞かせたいという強い想いがあります。むしろ私たちは意識していないと、知らずしらずそのような欲求に従って振る舞ってしまうものなのではないでしょうか。この欲求をしっかりと制御することはなかなか難しいことでもあります。だからこそ、私たちは常に立ち止まって、自分の在りようを冷静に見つめ直すことが求められているように思います。

 

 

 

《互いに愛し合いなさい》 ~洗足という行為を通して

 

 改めて、ご一緒に聖書の御言葉に耳を傾けたいと思います。本日の聖書箇所に、次のイエス・キリストの言葉がありました。ヨハネによる福音書1334節《あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》。主イエスが十字架におかかりになる直前、弟子たちに伝えてくださった言葉です。

 

 ヨハネによる福音書においてはこの主の教えは、主イエスが弟子たちの足を洗った出来事――洗足と呼ばれます――の締めくくりの言葉として記されています。主イエスは最後の晩餐の席において、弟子たち一人ひとりの足を洗ってくださいました。この主イエスの洗足の行為には、ただ足をきれいにするという意味のものではなく、主からのメッセージが込められています。

 

 足というのは当然、体の中で最も「低い」位置にある部分です。その足を洗うためには、相手の目線よりもさらに低く身をかがめなければなりません。主イエスはそのように、弟子たちよりもさらに身を低くし、弟子たちの足を洗ってくださいました。ここには、相手よりも力のある立場に立とうとしてしまう私たちとは正反対の姿勢があります。相手より上に立とうとするのではなく、身を低くし相手の存在を深みから受け止めようとする姿勢です。

 

主イエスは弟子たちの足をお洗いになった後、おっしゃいました。《主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。/わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである(ヨハネによる福音書131415節)

 

 

 

存在を根底から受け止め、尊重してくださっている主

 

 弟子たちはこの後、主イエスを裏切り、主イエスを見捨てて逃げてしまうこととなります。主イエスを「知らない」と否認してしまうこととなります。それはもちろん、主イエスの願うことではなかったでしょう。主イエスの心は深く傷つかれたことでしょう。主イエスはその苦しみを覚悟されながら、しかし、主イエスはご自分の願いを弟子たちに一方的に押し付けることはなさいませんでした。神の御子の権威を持つ方でありながら、弟子たちにご自分の願いを強要することはならさなかったのです。

 

 主イエスは弟子たちがこの後過ちを犯すことを知っておられましたが、同時に、その失敗の後、弟子たちが必ず立ち上がるであろうことをも知っていてくださっていました。ルカによる福音書には、このような主の言葉もあります。主を「知らない」と否認してしまうペトロに対して、あらかじめ伝えられた言葉です。《わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカによる福音書2232節)。主イエスは弟子たちが必ず立ち直るであろうことを信じておられました。あなたたちは一度つまずくが、その後、必ず立ち上がることができる、と。主イエスは弟子たちの自由な意志と決断に、ご自身の願いをすべてをゆだねてくださったのです。

 

 主イエスは弟子たち一人ひとりの、私たち一人ひとりの存在を根底からまるごと受け止め、尊重してくださっている方です。私たちの人格を徹底して尊重してくださっている方です。私たちのさまざまな至らなさも、犯してしまった過ちも含めて。主イエスの洗足はその私たちへの愛と信頼を示す行為であり、そして主イエスの愛は十字架において極まりました。主の十字架は、高い所から私たちを見下ろしているものではなく、もっとも深き場所から、私たちの存在を支えてくださっているものです。

 

 

 

主の愛に支えられ生かされる中で

 

 弟子たちの足を洗ってくださった主は、私たちの存在の深みから、語りかけておられます。《互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい》。

 

 主イエスが私たちの存在を受け止め、尊重してくださったように、私たちも互いの存在を受け止め合うこと。これはなかなか難しいことであり、すぐにできることではありません。私たちがなすべきことは、むしろそれができないこの私を、主が受け入れ、愛してくださっているというその真実に心を開くことではないでしょうか。主はあなたのすべてを受け入れ、愛してくださっています。あなたへの愛と全幅の信頼とをもって、存在の深みからいつも支えて下さっています。

 

 この愛に支えられ生かされる中で、私たちは少しずつ、より良い在りかたを学んでゆくでしょう。この愛の中では、もはや無理に人より力のある立場に立つ必要はないことを。一人の人間として、互いに対等な関係を築いてゆくことこそが大切であるということを、私たちは学んでゆきます。相手の人格を尊重し、互いに愛と信頼をもって向かい合うこと、それが自分自身の心からの願いでもあることに、少しずつ気づいてゆきます。

 

私たちはそれぞれ、互いに愛と信頼を育む道の途上にいます。主の愛に支えられ生かされながら、この道をこれからも共に一歩一歩、歩んでゆきたいと願っています。