2018年6月10日「イエス・キリストの名によって」

2018610日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:使徒言行録161624

イエス・キリストの名によって

 

 

使徒言行録161624節《わたしたちは、祈りの場所に行く途中、占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会った。この女は、占いをして主人たちに多くの利益を得させていた。/彼女は、パウロやわたしたちの後ろについて来てこう叫ぶのであった。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです。」/彼女がこんなことを幾日も繰り返すので、パウロはたまりかねて振り向き、その霊に言った。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った。/ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引き立てて行った。/そして、二人を高官たちに引き渡してこう言った。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。/ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」/群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じた。/そして、何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。/この命令を受けた看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた

 

 

 

悪魔祓い(エクソシズム)について

 

聖書を読んでいますと、私たちは様々な不思議な物語に出会います。天使が出てきたり、イエス・キリストが湖の上を歩いたり……。現代の私たちの視点からすると、どう受け止めたらよいのか戸惑うような場面も出て来ます。

 

聖書を読んだ人がどう受け止めたらよいのか戸惑う物語の一つに、「悪魔祓い」の物語があるのではないでしょうか。福音書の中には、主イエスが悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出す場面が何度も出て来ます。まるで映画『エクソシスト』を思わせるような、不可思議な悪魔祓いの物語が記されています。

 

 古代の世界においては、このような悪魔祓いの儀式は一般的なものであったようですが、現代の教会においてはどうでしょうか。今日のプロテスタント教会では悪魔祓いをする教会はほとんどありません。一方で、カトリック教会では現在でも、場合に応じて悪霊祓い(エクソシズムと言います)を行っています。ただしそれは司祭が司教から特別な認可を受け、医学的なサポートも受けた上で行うものとされているとのことです。

 

 悪魔祓いは科学の発達した現代の私たちにとってはもはや関心を呼ばないものと思いきや、たくさんの人々の依頼が殺到している現状があるそうです。以前テレビで特集されているのを観たこともありましたが、今日、欧米ではエクソシズムは大変な需要があるようなのですね。

 

 エクソシズムについて書かれた本を読むと、相談に訪れる人のほとんどが、実際は何らかの精神疾患が要因であるということでした。その意味で、エクソシズムは現代では、医療の一貫に相当するものとして位置付けることができるでしょう。しかし、その中でごく稀に、現代の医学の見地をもってしても説明ができない事例が存在する。そのとき初めて、カトリックではそれが「悪霊」の働きによるものと認められるそうです。現代の医学や科学でも説明できないことは、まだまだ私たちの世界にはあるものなのですね。いやむしろ、どれだけ科学が発達しようと、私たちの心の構造は古来より変わることはないのだということができるかもしれません。

 

いずれにせよ、この現象は現代に生きる私たちがいかに「生きづらさ」を抱えているか、自分の意志や力ではどうしようもない何ものかに苦しめられているかを表しているように思います。では、その「何か」とは何であるか。それは、その人の個人的な問題を超えた、いわば「社会の病い」が深く関わっているように思います。その人自身の努力や責任を超えた「社会の病い」がいまを生きる私たちの心を引き裂き、著しい痛みを与え続けていると思わずにはおれません。

 

 

 

「悪霊に取りつかれた」と見做された人々

 

これらエクソシズムは、福音書のイエス・キリストの悪魔祓いの物語にさかのぼります。「元祖エクソシスト」がイエス・キリストです。

 

新約聖書の福音書には、いわゆる「悪霊に取りつかれた人」がたくさんが登場します。ここでの「悪霊」が何らかの精神の病いに相当するものであったのか、それともそうではないのか、はっきりとは分かりません。おそらく、様々なケースがあったことでしょう。当時の人々はそれら症状をひっくるめて、「悪霊にとりつかれた状態」と見做していたのです。

 

先ほどお読みいただいた聖書箇所では、《レギオン》という名の霊に取りつかれていた男性が登場しました(マルコによる福音書5120節)。この男性は共同体の外に追いやられ、墓場を住まいとしていた、と福音書は記します。これまで、度々足枷や鎖で縛られたこともあった。この男性は悪霊に取りつかれた危険人物として共同体から排除され、悲惨な境遇に追いやられてしまっていました。当時、「悪霊に取りつかれた」の見做されたたくさんの人が、このように社会の外に追いやられてしまう状況があったようです。日本でも、明治期頃まで、精神の障がいをもった方々が自宅の座敷牢に閉じ込められている状況がありました。また、それが禁止されてからも、閉鎖病棟に長期間にわたって隔離されるという状況が続きました。

 

主イエスが生きておられた時代も、「悪霊に取りつかれた」と見做された人々が社会から隔離されていた状況があったのです。そのような中、主イエスはそれら人々と自ら出会ってくださり、悪霊の支配から解放し、神さまからの尊厳を取り戻すために尽力してくださいました。

 

 

 

社会から「見えなくされていた」人々と出会ってくださった主イエス

 

 以前、妻と「旧約聖書には『悪霊にとりつかれた人』はほとんど出てこないのに、新約聖書の福音書になるとたくさん登場するのはどうしてだろう」ということについて話し合ったことがありました。新約聖書の福音書には「悪霊に取りつかれた人」がたくさんが登場します。一方で、旧約聖書ではサウル王の事例(サムエル記上161423節)などを除いてほとんど「悪霊に取りつかれた人」が出て来ません。

 

話していて二人で腑に落ちたことは、旧約聖書の時代でも「悪霊に取りつかれた」とされている人はいたが、社会から排除され「見えなくされていた」ので、登場しなかった。対して、新約聖書の福音書では主イエスが自らそれら人々に出会ってくださったので、たくさん登場するのではないか、ということでした。

 

旧約聖書の時代から、「悪霊に取りつかれた」と見做されていた人々はいたことでしょう。けれどもそれら人々は社会から排除され、「あたかも存在しないかのように」されていた。主イエスはそれら人々を率先して訪ね、出会ってくださった。そのことにより、新約聖書の福音書には「悪霊に取りつかれた」とされている人々が大勢登場するのではないでしょうか。もちろん、これは解釈の一つであり、他にもさまざまな要因は考えられることと思います。

 

 社会から「見えなくされていた」人々の存在を見出し、それら人々に光を当て、神さまからの尊厳を取り戻すために働いてくださった主イエス。「個人の尊厳」を取り戻すということを象徴しているのが、「悪霊を追い出す」という行為なのでありましょう。

 

 

 

「悪霊」の支配 ~社会の病いとして

 

日本の精神医療の草分けである精神科医の呉秀三氏は、かつて《わが邦十何万の精神病者は実にこの病を受けたるの不幸の他に、この邦に生まれたるの不幸を重ぬるものというべし》という言葉を記しました(『『精神病者私宅監置ノ實況及ビ其統計的觀察』』より、1918年。ちなみに、この6月から『夜明け前 呉秀三と無名の精神障害者の100年』というドキュメンタリー映画が公開されているそうです)。この国に生まれた精神病者人々には「二重の不幸」があるということですが、100年前の私たちの国においては、この国に生まれたことこそが不幸であると叫ばずにはおられない現状があったのでしょう。

 

もちろん、精神医療を巡る状況は、たくさんの方々の懸命なる努力と祈りの中で、現代は大きく改善してきています。と同時に、それら積み上げて来たものを打ち崩すような価値観が力をもっている現状もあります。一方的なものさしで人の優劣を決める――いわゆる「優生思想」に通ずるような歪んだ価値観。これら歪んだ価値観がいま、私たちの社会全体を覆っているように感じます。

 

 このことを考えますと、真に病んでいるのは個人ではなく、むしろ社会なのではないかと思わされます。「悪霊」に支配されているとするならば、それは私たちの社会全体なのではないでしょうか。

 

病いを発症することには、個人的な要因も関係しているでしょう。しかし、その人自身の努力や責任を超えた問題も、深く関わっています。私たち個々人は、社会全体が病む中で、尊厳が軽んじられ続け、心と体が傷つけられ続けています。そしてそのような苦しい状況の中で、特に繊細でやさしい方々が心引き裂かれ、病いを発症してしまうのではないかと思わずにはおられません。

 

 

 

利益を第一とし、命と尊厳を軽んじる霊

 

 本日の聖書箇所(使徒言行録161624節)には、「占いの霊」に取りつかれているという一人の女性が登場します。「占いの霊」は使徒言行録においては「悪霊」の一つとして見做されているようです。この女性は奴隷として雇われており、主人たちに占いを通して多くの利益を得させていました。

 

 女性はパウロたちを見かけると、ずっと後ろについてきて、叫びました。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」。何日もずっと叫び続けるので、パウロはたまりかねて、女性から悪霊を追い出します。女性の助けを求める声が、ようやくパウロに届いたのでしょうか。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け」。すると即座に、霊は女性から出て行きました。

 

この女性が置かれていた環境について考えてみると、自身の努力や責任を超えた事柄によって苦しめられていることが分かります。奴隷制度はもちろん現代では人権侵害で禁止されているものですが、このとき女性は奴隷として搾取されていました。さらに、占いの仕事をすることによって、主人たちから搾取されていたことが分かります。占いができることにより、女性は主人たちに目をつけられ、主体性や自由を奪われてしまっていたのです。利益が第一とされ、個人の尊厳がないがしろにされている構造がここにはあります。

 

「占いの霊」とは、ここでは、「金もうけの霊」と言いかえることができるでしょう。または、「利益を第一とし、尊厳を軽んじる霊」です。そう受け止めるとき、この悪霊に取りつかれていたのは、むしろ女性を搾取する主人たちの方だったのではないかと考えられます。そしてその背後にある当時の社会の構造そのものが、この悪霊に取りつかれていたのだ、ということができます。女性はこの悪霊の支配の中で傷つけられている被害者である、と言えるのではないでしょうか。搾取され、痛みを感じている人であったからこそ、パウロたちが携える宝物(=神の国の福音)に真っ先に気づくことができたのかもしれません。パウロは女性の願いに応え、イエス・キリストのみ名によって、女性をこの悪霊の支配の中から解放しました。一方、その後パウロたちは女性の主人たちによって捕えられ、牢に入れられてしまうこととなります、

 

「利益を第一とし、命と尊厳を軽んじる霊」。私たちの社会も現在、この霊の支配の中にいるのではないでしょうか。利益や効率を第一とする社会の構造の中で、多くの人が搾取され続け、苦しみ続けています。本来第一とすべき、一人ひとりの命と尊厳がないがしろにされる中で……。

 

 

 

イエス・キリストの名によって

 

 使徒言行録は、パウロや弟子たちが悪霊を追い出すことができたのは、彼ら自身の力によるものではなく、「イエス・キリストの名による」ものであることを繰り返し強調しています。ここでパウロも、イエス・キリストのみ名によって、女性を支配の構造の中から解放することができたのです。

 

主イエスは生前、社会から「見えなくされていた」人々の存在を見出し、その痛みに光を当て、神さまからの尊厳を取り戻すために働いてくださいました。神さまの目にかけがえのない一人ひとりの存在が決して「なかったこと」にされないために、そのご生涯をささげてくださいました。

 

この主イエスの祈りに私たちの祈りを合わせるとき、「悪霊を追い出す」力が与えられてゆくことを聖書は伝えています。この主イエスの祈りに私たちの祈りを合わせる時、私たちの内に聖霊なる主の力が満ちてゆきます。

 

 私たちの社会の至るところに、たくさんの痛みがあります。多くの人が、私たち自身も心引き裂かれ、うめいています。この社会に少しずつ癒しをもたらしてゆくため、それぞれが、自分にできることを行ってゆきたいと願います。主の名によって願うとき、主イエスはいつも私たちと共におられます。