2018年6月17日「神は人を通して語りかける」

2018617日 花巻教会 主日礼拝説教

聖書箇所:使徒言行録13112

神は人を通して語りかける

 

 

 

使徒言行録13112節《アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。/彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」/そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。/聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、/サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。/島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。/この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。/魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。/パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、/言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。/今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。/総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った

 

 

 

中島らもさんのエッセイ『その日の天使』

 

 小説家の中島らもさんのエッセイに『その日の天使』というエッセイがあります。タイトルにありますように、私たちの一日一日には、その日の天使がいる、というエッセイです。ここでの「天使」とは天上の存在としての天使ではなく、日々の生活の中で具体的に出会う誰か、のことを指しています。それは子どもであったり、駅で出会った人であったり、日によって現れる姿は違うのですが、私たちは一日の中で自分に向けてつかさわされた天使に出会っている。普段はなかなかそれに気づかないだけなのだ、と綴られています。

 

 エッセイの中の一文を引用してみたいと思います。

 

《一人の人間の一日には、必ず一人、「その日の天使」がついている。/その天使は日によって様々の容姿をもって現れる。/少女であったり、子供であったり、酔っ払いであったり、警官であったり、/生まれてすぐに死んでしまった犬の子であったり。/

 心・技・体ともに絶好調のときには、これらの天使は、人には見えないもののようだ。/逆に、絶望的な気分に落ちているときには、この天使が一日に一人だけ、さしつかわされていることに、よく気づく》(『人生のエッセイ その日の天使』、日本図書センター、2010年)

 

 らもさんは2004年に52歳でお亡くなりになりました。中島らもさんはアルコール依存症や躁うつ病を患いつつ執筆活動をしていたことでも知られています。かつてNHKのドキュメンタリーでも取り上げられたこともありますので、御覧になった方もいらっしゃるかもしれませんNHK教育、ETV2001シリーズ 逆境からの脱出『酒に呑まれた日々 中島らものアルコール格闘記』、200194日放送)。私はこのドキュメンタリー番組が不思議と好きで、インターネット上にアップされた動画を数年に一度観返すことがあるのですが、その番組の中でも中島らもさんは「その日の天使」について語っていました。

 

 それは番組の終盤、インタビュアーの方が「アルコール依存症や躁うつ病を抱えながら生きてゆくのは本当にしんどいだろうなと思いますが、いまの中島さんにとって、『生きてゆきたい』想いというのは、どのようなものですか」と質問したときでした。その返答として、らもさんは以前自分が記したエッセイ「その日の天使」についてお話しされていました。

 

 締め切りが一杯になってものすごくしんどくなって、もう駄目なんじゃないかとへたり込みかけていたとき、表を焼き芋屋が通った。「焼き芋~、焼き芋~、おいしい~、焼き芋♪」。人がこんなに苦労しているのに何が焼き芋だ、と思ったが、可笑しくて、笑ってしまった。

 

 そのように、一日一日には必ず、その日の天使が一人いる。それは電車のホームにいた助役さんであったり、スポーツ新聞を売っているおばちゃんであったり、立ち食いソバのおばちゃんであったり。姿かたちを変えて、自分に差し向けられたその日の天使がいる。そう思うことができれば、やってゆける。生きてゆける。かつてエッセイで書いたことは、いまもその通りだと思っている、と番組の中で中島らもさんは語っておられました。

 

この中島らもさんのエッセイを、時折思い起こします。とても素敵な考え方だなあと思います。

 

 らもさんが語るように、私たちは実は、毎日、誰かを通して天使に出会っているのかもしれません。神さまに出会っているのかもしれません。しかし多くの場合、私たちはそれに気づかないのかもしれません。そのような中、しかし、すぐ足元にある、私たちの目にはささやかにも思える事柄に目を注ぐとき、私たちはそこにこそ秘められた神さまからのメッセージに気づいてゆくことができるのだ、と思わされます。

 

 

 

小さな事柄の中に

 

 先月の夕礼拝で(主題:ペンテコステ)、大野康子さんが証しをしてくださいました。その証しの中で、ちょうどこのことと共通することをお話しくださいました(要約の文章を次に発行する教会だよりに寄稿していただきましたので、またぜひお読みいただければと思います)。

 

 大野さんは証し中で、青春時代の人のあたたかさに触れた二つの出来事をご紹介くださいました。私たちの目にはささやかにも見えるそれら小さな出来事の中に、ともすれば日々の生活の中で忘れてしまっているようなそれら出来事の中に、大切なことが潜んでいたことに気づくようになったということをお話し下さいました。《ともすれば素通りしてしまうような小さな事柄の中に、実は真の愛や大切なことが潜んでいるということがあるのだと思うようになりました》。

 

見返りをもとめない、たくさんの善意や愛に私たちの自分の人生が支えられているということ。そしてそこに、神さまも共におられるということをお話しくださいました。わたしもまことにその通りであると思いました。

 

 聖書の中心的なメッセージは、神の愛です。聖書を貫く根幹のメッセージは、神さまの愛である、ということができるでしょう。そしてその愛は、多くの場合、人を通して伝えられるものであるのだと思います。人を通して、人との触れ合いを通して――特に、私たちの目に小さく見える、無数の出来事を通して――、神さまの愛は私たちの間に現実に実を結んでいるものなのではないでしょうか。

 

 毎月はじめにお誕生日と受洗記念の方々に向けて歌う『君は愛されるため生まれた』の歌詞の中に、《永遠の神の愛は われらの 出会いのなかで 実を結ぶ》という言葉が出て来ます。わたしはこの一節もいつも、その通りだなあ、と思いながら歌っています。神さまは人と人との出会いを通して、日々のあたたかな心のふれあいを通して、私たちに日々その愛を現してくださっているのだと受け止めています。

 

 

 

神は人を通して語りかける

 

 聖書を読むと、神さまが色んな人を選び出し、ご自分のメッセージを伝える役割を託す様が描かれています。

 

 主イエスは12人の弟子たちを選び出し、その弟子たちに神の国の福音を伝える役割を託されました(マルコによる福音書6613節)。また本日の聖書箇所にも、聖霊なる主がパウロとバルナバを選び出し、宣教の旅に派遣する場面が出て来ました。

 

使徒言行録1315節《アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。/彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」/そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。/聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、/サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた》。

 

神さまは私たち人間を通して、ご自分の福音のメッセージを、その愛を伝えようとしておられることを、これら物語からも汲み取ることができます。

 

 使徒言行録においては、パウロやバルナバの華々しい活躍が記されていますが、私たちに託された働きというのは、それぞれ異なるものでしょう。パウロのように人の目に大きな働きをする人もいれば、誰にも気づかれないようなささやかな働きをする中で、しかし誰かをしっかりと支える働きをしている人もいることでしょう。

 

 大切であるのは、私たちが自らの内に宿された神さまの愛につながっていることであると思います。私たちが神さまの愛につながり、それを自らの言動の土台とするとき、神さまは私たち一人ひとりを御心のままに、用いてくださるでしょう。私たちが懸命に他者を想い、他者のために働こうとするとき、私たちもまた知らず知らず、中島らもさんの言うように誰かの「その日の天使」として用いられていることがあるのかもしれません。

 

 そのようにして私たちは互いに支え合っている、互いに生かされている、というのがこの世界のまことの姿であるのだと信じています。日々の慌ただしい生活の中で、このまことの世界の在りかたに常に私たちの心を立ち帰らせてゆきたいと願います。

 

 

 

愛を携え運ぶ者として

 

 終わりに、パウロが記した手紙の一節を引用いたします。私たち一人ひとりはイエス・キリストの手紙です、という言葉です。

 

あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です(コリントの信徒への手紙二33節)

 

私たちの内にはキリストの愛が刻まれており、そしてそれを誰かに伝える役割が託されていることをパウロは語っています。私たちはそれぞれ、神さまの愛の言葉を携え運ぶ存在であるのです。愛を携え運ぶ者として、聖霊に力を与えられながら、この礼拝の場からそれぞれの生活の場に派遣されてゆきたいと思います。