2016年11月6日「明日のことまで思い悩むな」

2016116日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書62534

「明日のことまで思い悩むな」

 

 

マタイによる福音書62534節《「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。/空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。/あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。/なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。/しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花一つほどにも着飾っていなかった。/今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。/だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。/それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。/何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。/だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」》。

 

 

 

「明日のことまで思い悩むな」

 

お読みしました聖書箇所は、多くの人々の心の支えになってきた箇所です。皆さんの中にも、愛唱聖句にしている方がいらっしゃることでしょう。イエス・キリストが「思い悩むな」と語り掛けてくださる本日の箇所――。読んでいると、何か心がホッとしてくるような気持ちになりますよね。空を飛ぶ鳥や、野に咲く花など、自然の生きものを例に取って語られるのも、この箇所に親しみやすさを増し加えています。

 

本日は特に締めくくりの言葉を取り上げてみたいと思います。私自身、このみ言葉にこれまで支えられてきました。34節《だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》。

 

 

 

「明日」という言葉

 

 皆さんは、「明日」という言葉を聞いて、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。「明日」という言葉は、たとえば、「希望に満ちた未来」というイメージで使われることもありますよね。明るい、希望にあふれるイメージを伴うものとして、「明日」という言葉が使われることが多いように思います。

 

 一方で、「明日」という言葉は、場合によっては、私たちに不安を与える言葉になることもあります。たとえば、もし明日やらなくちゃならないことがたくさんあったらどうでしょう。「午前中はあれをして、午後からはあれをして、夕方にはあれをして、あっ、そうそう夜にもあれをしなくちゃならない」……などど、予定がみっちりであったとしたら、「明日」という言葉は自分にとって、重苦しい言葉として感じられるのではないでしょうか。明日しなくてはならない沢山のことを想像するだけで、もう何だか疲れてきてしまう……。

 

 他にも、明日大きな責任を伴う仕事をしなくてはならないとしたら。明日、失敗してはならない大事な試験があるとしたら。また、明日、やりたくない仕事をしなくてはならないとしたら。明日、ある人に言いづらいことを伝えなくてはならないとしたら、などなど。こういう時、「明日」という言葉は、私たちにとって、むしろ不安を感じさせる言葉になりますよね。

 

 このように、「明日」は、私たちにとって、不安や心配の原因ともなります。まだ見ぬ明日の苦労にすでに押しつぶされそうになっている私たちに向かって、イエス・キリストは「明日のことまで思い悩むな」と語りかけてくださっています。

 

 

 

高校生のときのこと

 

 私がこのイエス・キリストの言葉と出会ったのは、高校生のときでした。教会には幼い頃から母に連れられて行っていましたが、自分で聖書を開いて読んでみようと思うようになったのは高校生になってからでした。聖書の言葉は難しくて、高校生の自分にはほとんど理解することができませんでしたが、本日の34節の言葉は例外的に、心にスーッと入ってきました。34節《だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》。

 

明日のことまで、悩まなくてもいい。明日のことは、明日自らが考える。その日の苦労は、その日だけで十分であるというこの言葉と出会い、「ああ、いい言葉だなあ」と思いました。

 

 当時、高校生であった私はいろいろなことで悩み、いろいろなことで心配をしていました。クラブや勉強のこと、人との関係、将来のこと、人生のこと。悩んでいることを考え始めると、頭の中がそのことでいっぱいになりました。夜、寝ようと思っても眠れないこともありました。悩みや心配事で頭がいっぱいになり、眠ろうと思っても、眠れない。

 

 そのような私でしたが、この言葉を読んで、不思議と落ち着いた気持ちになりました。以来、明日の心配で頭がいっぱいになってしまったとき、夜眠れないとき、この言葉を自分に言い聞かせました。《明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である》。すると不思議と、安心した気持ちになって、眠りにつくことができました。

 

 

 

「今日」という日にまなざしを向ける

 

もちろん、「明日」のことを考えること、先のことをしっかりと考える事は大切です。本日の主イエスの言葉は、「明日のことは一切考えることなく、無計画であれ」ということを言っているのではありません。

 

私たちにとって「明日」は大切ですが、同時に、「今日」という日も大切です。「今日」という日なしに、「明日」という日は訪れることはありません。私たちが「明日」のことばかり考え、悩んでいるとき、忘れてしまっているのは、「今日」という日の大切さです。

 

「今日」という日に目を向けること。「今日」という日を大切にして生きること。その積み重ねによって、「明日=未来」は形づくられてゆくのではないでしょうか。

 

本日のイエス・キリストの言葉も、「今日」という日に、私たちの目を向けさせます。「今日」を飛び越えて「明日」にばかり目を向けようとする私たちのまなざしを、再び「今日」という日に向け変えさせてくださるのです。

 

 

 

ミヒャエル・エンデ『モモ』より ~道路掃除夫ベッポの話

 

ある本の言葉をご紹介したいと思います。ミヒャエル・エンデのファンタジー小説『モモ』という本の中に出てくる言葉です。『モモ』は皆さんの中にも、お読みになった方、愛読しておられる方がいらっしゃることでしょう。

 

『モモ』のサブタイトルは《時間どろぼうと ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語》となっています。主人公の女の子モモが、時間どろぼうが人々から盗んだ時間をとりかえす、というストーリーです。

 

 モモには大切な友人がいました。年は離れた、おじいさんの友人で、道路掃除を仕事とするベッポという人です。このベッポがモモに対して話した言葉に、このような言葉があります。

 

《「なあ、モモ」と彼はたとえばこんなふうに始めます。「とっても長い道路を受けもつことがよくあるんだ。おっそろしく長くて、これじゃとてもやりきれない、こう思ってしまう。」

 彼はしばらく口をつぐんで、じっとまえのほうを見ていますが、やがてまたつづけます。

「そこでせかせかと働きだす。どんどんスピードをあげてゆく。ときどき目をあげて見るんだが、いつ見てものこりの道路はちっともへっていない。だからもっとすごいいきおいで働きまくる。心配でたまらないんだ。そしてしまいには息が切れて、動けなくなってしまう。こういうやりかたは、いかんのだ。」

 ここで彼はしばらく考えこみます。それから、やおらさきをつづけます。

「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひとはきのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。…するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。…ひょっと気がついたときには、一歩一歩すすんできた道路がぜんぶ終わっとる。どうやってやりとげたかは、じぶんでも分からん。」彼はひとりうなずいて、こうむすびます。「これがだいじなんだ。」》(『愛蔵版 モモ』大島かおり訳、岩波書店、2001年)

 

 長い道路を掃除で受け持つとき、先の方をばかり見ていると、いつまでたっても終わらない気がする。心配でたまらなくなり、焦ってしまう。しまいには息が切れて、動けなくなってしまう。

 そうではなく、大切なのはつぎの一歩のことだけを考えることだ、とベッポは語ります。つぎの一歩を、つぎの一呼吸、つぎのひとはきのことだけを考えて、掃除をしてゆく。すると、たのしくなってくる。そうして、気づいたときには、道路の掃除が全部終わっている。

 

 このベッポの言葉は、とても印象的です。この言葉は、私たちの日々の生活においても、大切なことを伝えてくれているように思います。明日のこと、将来のことをばかり見ようとしていると、私たちはどんどん心配になり、焦ってきます。心からは楽しみ、喜びが失われてゆきます。

 対して、今日のこと、いまやるべきこと、いまできることを考えることに集中してゆくと、心は落ち着きを取り戻してゆきます。心から不安は消え去り、むしろ楽しみや喜びを思い出してゆきます。

 

私たちにとって、「今日」という日を大切に、精一杯生きることこそが大切であるのでしょう。そしてその積み重ねが、まだ見ぬ「明日」という日につながっています。

 

 

 

「いま・ここ」のあなたに注がれる神さまの愛

 

「今日」という日の大切さについて述べてきました。「今日」という日を見つめてみると、それもまたあるものの積み重ねであるということに気付きます。それは、「いまこの瞬間」です。いまという瞬間の連続が、「今日」という日を形づくっています。先ほどの道路掃除夫ベッポの言葉も、「いまこの瞬間」を真剣に、誠実に生きることの大切さを言っていると受け止めることもできますね。

 

 私たちが「明日」のことをばかり考えているとき、最も見失ってしまっているのは、「いま」という瞬間です。「いま・ここ」に生きている私を、感じとることができなくなることが、数多くあります。けれども、先のことを考えて不安になっていることの最も大きな要因として、「いま・ここ」にいる私を感じとることができなくなっている、ということがあります。

 

 イエス・キリストの言葉はすべて、「いま・ここ」にいる私たちに向けられているものです。「明日」の私たちではなく、「昨日」の私たちでもなく、いまこの瞬間、この場所に生きている私たちに向かって語りかけられている言葉であるのですね。

 

 主イエスが私たちに伝えてくださっているのは、「いま、この瞬間のあなたを、神さまは愛してくださっている」ということです。「いま・ここの、あるがままのあなたを、神さまは大切に思ってくださっている」。神さまは、いまこの瞬間のあなたを、「善し」とし、祝福してくださっているのです。

 

 いまこの瞬間に自分に向けられている神さまの愛を感じとることができたとき、私たちの心は、安心を取り戻し始めます。心の底からの安心を取り戻し始めます。安心の中で、次の一歩、次の一呼吸に集中することができるようになってゆきます。

 

 もちろん、私たちはすぐに「いま・ここ」を忘れてしまいます。そのときは、何度でも、自分に思い出させてあげればよいのでしょう。「いま・ここの、あるがままのわたしを、神さまは大切に思ってくださっている」という真実を。

 

 どうぞこの礼拝を通して、ご一緒に、いまこの瞬間注がれている神さまの愛を感じ取ることができますようにと願います。