2016年9月11日「敵を愛しなさい」

2016911日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書54348

 

「敵を愛しなさい」

 

 

アメリカ同時多発テロから15

 

今日は911日です。2001911日に起こったアメリカの同時多発テロから今日で15年です。15年前、当時私は高校3年生でした。皆さんと同様、世界貿易センタービルに飛行機がぶつかる映像、ビルが崩れ落ちる映像をテレビ中継で見て、私は大変なショックを受けました。このテロによって、二千九百数十名もの人が亡くなったと言われています。

犯行を行ったのは「アルカイダ」というイスラム過激化組織です。このアルカイダが他の組織と合流して生まれたのが現在のISということになります。

 

9・11のテロを受けて、当時の大統領であった共和党のブッシュ氏は、アメリカを「悪の滅ぼす十字軍」のリーダーと宣言しました。同年にはアフガニスタン戦争が起こり、20033月からイラク戦争が起こりました。

イラクへの侵攻開始に際し、ブッシュはスピーチの最期に「神のご加護があらんことを」と祈りました。キリスト教の「神」の名のもとに、戦争を開始したのです。アメリカと有志連合軍は「テロの撲滅」というスローガンの下、テロという暴力に対して、より強大な暴力で対抗するという政策を取ってゆきました。アメリカでは熱狂的な愛国心、ナショナリズムが高まり、多くの国民がブッシュ政権を支持しました。

 

イラク戦争による死者数は、正確な数字ははっきりしていませんが、ある統計では10数万人、また別の統計では5060万人以上になるとも言われています。そしてその中の7割以上が民間人です。アメリカを中心とする有志連合軍による銃撃や爆破、空爆といった攻撃によって、またアメリカの占領政策によってもたらされた内部抗争の激化によって、イラク国内の多くの人々の尊い命が奪われてゆきました。イスラム過激化組織によるテロ行為は許すことはできないものですが、その報復として何十倍、何百倍もの暴力を繰り返し続けた有志連合軍の行為も、決して許すことのできないものです。また、アメリカ軍が使った劣化ウラン弾などの有害兵器の環境汚染により、イラクではいまも多くの子どもたちの命と健康が傷つけられ続けています。

 

また、イラクとの戦争を開始する理由とした大量破壊兵器は実際には存在しなかったし、「アルカイダ」とのつながりもなかったことは皆さんもご存じの通りです。イラク戦争はまったく正当性が見出すことができない誤った戦争だったということになりますが、当時の小泉政権はイラク戦争に際し、アメリカの武力攻撃に対し、全面的な支持を表明しました。そしてイラク特措法を制定し、自衛隊を現地に派遣しました。日本におけるイラク戦争の検証をすべきだという声が以前から上がっていますが、いまだ国による本格的な検証は行われておりません。

 

衝撃的なアメリカ同時多発テロ事件が起こってから15年が経ちましたが、私たちの世界の情勢はさらに悪化し、複雑化しているように思えます。現在、中東、ヨーロッパ、アフリカなどでテロ事件が繰り返し起こっています。このようにテロが頻発するようになったのは、この9・11の事件が大きく関係しています。ISのような過激派組織が生み出されたことの背景の一つに、イラク戦争によって家族や友人が殺されたことの怨念があるでしょう。

 

一部の国々ではテロの恐怖に怯えながら暮らすのが日常となりつつあります。最近では20151113日(日本時間では14日)のフランスのパリで起こった同時多発テロ事件が記憶に新しいものです。日本も今後テロの対象となってゆく可能性があるでしょう。

 

 そしてそれらテロの報復として、空爆が行われ続けています。空爆によってさらに関係のない一般の市民が傷つけられ、そのかけがえのない命が奪われてゆきます。空爆によって一時的に過激派組織が抑え込まれたとしても、その暴力に対してさらに新たな「怨念」が生じてしまうことでしょう。この怨念が、また新たなテロ行為を生み続ける温床となってゆきます。報復の連鎖を断たない限り、テロもまた無くなることはない、というのはあまりに明らかなことです。

 

 

 

ブッシュ元大統領の「二元論的な」信仰理解 ~「敵」か、「味方」か

 

今日は911日ということで、9・11のことを少しご一緒に思い起こしましたが、私たちキリスト教会にとっても、イラク戦争の検証も大切な課題であると思います。なぜなら、ブッシュ元大統領は熱心なクリスチャンであったからです。ブッシュ氏の有力なブレーンもクリスチャンでしたし、ブッシュ氏を支持する有力な母体となっていたのも一部のキリスト教会でした。イラク戦争におけるキリスト教の責任ということも私たちは考える必要があるのではないでしょうか。

 

「キリスト教」と一口に言っても、非常に多様性があります。いわゆる「右」から「左」まで、さまざまな考えをもった人がおり、それぞれ大切にしたいことの強調点も異なります。

 

ブッシュ氏らは、どのような信仰理解を持っていたのでしょうか。聖書のどのようなところに強調点を置いていたのでしょうか。その言動から垣間見えてくる特徴の一つは、少し難しい言葉で言いますと、「二元論的な」信仰理解です。

 

それは、人は神によって「義人」と「罪人」の二つに分けられている、という信仰理解です。神の目に、ある人々は「善人」であり、ある人々は「悪人」である。神の目に、ある人々は「救われる者」であり、ある人々を「滅ぶべき者」である。そのように、信仰に基づいて、世界をはっきりと二つに分けて捉える理解の仕方ですね。この信仰理解において大前提となっているのは、自分自身は「善人」であり「救われる者」の側に立っている、という点です。

 

この信仰理解においては、「敵」と「味方」もはっきりと分けられます。自分と同じ神を信じている人々は、「味方」、その他の人々は「敵」ということになります。このような考え方というのは、非常に危うさをはらんでいるものですね。排他的になってしまう危険性、独善的になってしまう危険性を常にもっています。

 

9・11以降、ブッシュ元大統領はこのような信仰理解に基づいて、自分たちアメリカは「善」、敵対するイラクは「悪」であると見做してゆきました。「悪」を一掃するために、自分たちアメリカは神によって選ばれている「神の国」なのだという認識ですね。まるで冗談のように思えますが、ブッシュ氏は半ば本気でそう思い込んでいた可能性があるようです(参照:栗林輝夫氏『ブッシュの「神」と「神の国」アメリカ』、日本キリスト教団出版局、2003年)

 

お気づきのように、このような「二元論的な」考え方というのは、ISなどのイスラム過激派組織とそっくりです。対立している両者は、実は、考え方の構造自体は共通しています。自らを絶対視し、自分たちに味方しない存在はすべて「敵」と見做すという点では同じですね。そしていま、こうした世界観に共鳴する若者が世界的に増えてきています。自らISなどの過激派組織に身を投じようとする若者が後を絶ちません。

 

 このような信仰理解というのは、ある意味で、「幼い」信仰理解であるということができます。幼い子どものような考え方です。私たちはさまざまな経験を積んでゆくなかで、少しずつ自らを相対化すること、自分の非を認めること、自分とは異質なものを受け入れること、多様性を尊重すべきことなどを学んでゆきます。そのような成熟した在り方とはかけはなれた信仰理解が、9・11以降、アメリカで大きな力を得てゆきました。

 

 最近のトランプ旋風を見ていても、同様のことを感じます。トランプ氏の発言は確かに「過激」でありますが、それは「幼さ」と言い換えることができるものでしょう。忍耐力のない子どものような彼の発言が、――最近は支持も減少しつつあるようですが――アメリカで多くの人々に支持されているという状況があります。

 

 

 

「敵を愛しなさい」

 

聖書を読んでいますと、確かに「二元論的な」ニュアンスで書かれている箇所がたくさんあります。しかし私たちはそのような箇所を文字通りに受け止めて、それで良しとすることのみにとどまっていてはならないでしょう。他ならぬ、イエス・キリストご自身がどのように世界を見つめ、どのように考えてらっしゃったかを知ろうとすることこそ大切です。

 

結論から言いますと、主イエスは「二元論的な」信仰理解を乗り越えて、より成熟した在り方を目指してゆくことを私たちに教えておられるのだと考えます。

 

本日の聖書箇所には、有名な「敵を愛しなさい」という言葉が出てきます。「隣人を愛し、敵を憎め」というのがそれまでの常識であったところで、「敵を愛せ」という言葉を発されたのですね。マタイによる福音書54344節《「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。…」》。

 

「隣人を愛し、敵を憎め」というのが、先ほどの話でいうと、ブッシュ元大統領の信仰理解ということになります。主イエスは、しかし、それではもはや不十分だ、とおっしゃっています。そうではなく、「敵を愛しなさい」と。

 

 

 

神さまの目から見た「人間の平等」

 

 ここでの「愛する」とは、「好き」という心の中の「感情」ではなく、相手の存在を「尊重する」という具体的な「態度」のことを指しています。たとえ心の中では相手のことを良くは思っていなかったとしても、相手を一人の人間として尊重する、少なくとも、自ら「報復はしない」という態度が、ここでの「愛する」ということです。自分にひどいことをした相手を好きになる、というのは難しいことでしょう。ここではそのような無理難題を私たちにおっしゃっているのではなくて、たとえ相手を憎んでいても、その相手も一人の人間として尊重せよ、少なくとも、相手に報復をすることはするな(3839節)、ということが言われています。

 

 主イエスは「敵をも大切にすべき」ことの根拠として挙げておられるのが、天の神さまが、私たちをどう見ておられるのか、ということです。

 

 45節に、私たちにとって非常に大切な言葉があります。45節《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである》。

 

言葉としては「悪人」「善人」、「正しい者」「正しくない者」という「二元論的な」表現が出てきていますが、ここで主イエスがおっしゃろうとしておられるのは、二元論的な視点とはまったく異なるものです。すなわち、神さまの目から見れば、「悪人」も「善人」もない、「義人」も「罪人」もないのだ、ということを主イエスはこの言葉を通しておっしゃっています。

 

神さまはすべての人に「同じように」太陽を昇らせ、「同じように」雨を降らせてくださる方です。本日の聖書箇所は、神さまの目から見た「人間の平等」を伝えています。私たちの目から見ると私たち人間の間には格差や優劣があるように思えることがあります。しかし、その格差や優劣は他ならぬ私たち自身の意識が造り出しているものなのであり、神さまの目から見るとそうではないのでしょう。私たちはこの神さまのまなざしに学び続け、そこに私たち自身のまなざしを合わせてゆくことが求められています。

 

 

 

より成熟した信仰の在り方を求めて

 

「罪人」と言うのであれば、誰もが罪人であるでしょう。ある選ばれた人たちだけが「正しい人」で、他の人々は「罪人」であるということはありません。誰もが、過ちを犯す一人の人間にすぎません。自分自身をよくよく顧みてみれば、そのことを私たちは理解してゆきます。自分を絶対化することなく、神さまの前に自分を相対化させてゆくこと、ここに、より成熟した信仰の在り方があります。私たちは、「敵」か「味方」かで物事を見つめる世界観を乗り越えてゆくことが求められています。

 

本日の聖書箇所は《だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい》という言葉で締めくくられます(48節)。神父の本田哲郎氏はこの48節を印象的な表現で訳しています。《あなたたちの天の父がおとなであるように、あなたたちもおとなになりなさい》。天の父なる神さまが「大人」であるように、私たちもより「成熟した信仰の在り方」を目指し続けてゆかねばならない、ということでしょう。

 

 

 

神さまの目から見た「人間の尊厳」

 

神さまはすべての人に「同じように」太陽を昇らせ、「同じように」雨を降らせてくださる。では、神さまの目から見て、一人ひとりが「同じような、替わりがきく」存在かというと、決してそうではありません。イエス・キリストの福音は、神さまの目から見て、一人ひとりが「かけがえなく」貴い存在である、ということを私たちに伝えています。神さまの目から見て、誰一人「同じような」存在はいない、皆が「替わりがきかない」存在である、ということです。だからこそ私たちは暴力によって他者の命をおびやかしてはならないのです。あらゆる報復はゆるされないし、あらゆる戦争も決してゆるされません。

 

イエス・キリストの福音は、神さまの目から見た「人間の尊厳」をも、私たちに伝えてくださっています。私たちの目から見ると、自分という存在が替わりがきく存在に思えても、いてもいなくてもいい存在に思えても、神さまの目からすると、決してそうではない。あなたという存在は、神さまの目から見て、かけがえのない=替わりがきかない大切な存在なのである、と。

 

この神さまのまなざしに学び続け、そこに私たち自身のまなざしを合わせてゆきたいと願います。天の神さまが私たち一人ひとりをかけがえなく貴い存在として見つめてくださっているように、私たちもまた互いをかけがえなく貴い存在として大切にしてゆくことができますように。