2016年7月24日「律法を完成するために」

 

2016724日 花巻教会 主日礼拝

 聖書箇所:マタイによる福音書51720

 

「律法を完成するために」

 

 

 

旧約聖書の律法を学ぶ

 

 花巻教会では現在、水曜日の聖書の学びの時間に旧約聖書の『申命記』を読んでいます。毎週1章ずつ読み進めており、来週は33章です。『申命記』は全部で34章ですので、もうすぐ終わりということになります。

『申命記』を読みますと、さまざまな律法が記されていることが分かります。『申命記』はさまざまな律法が集められた書です。律法は他にも、『出エジプト記』『レビ記』『民数記』にも記されています。

 

「律法」とは、神さまの教え、掟のことです。モーセを通して、イスラエルの民に与えられた神さまの掟が律法です。よく知られた十戒を始め、たくさんの掟があります。ユダヤ教では伝統的に旧約聖書には613の律法が記されている、としているそうです。

 

これらたくさんの律法を、ユダヤ教徒の人々はいまも大切に守り続けています。対して、キリスト教は必ずしもそうではありませんね。キリスト教会はもはや、すべての掟を必ずしも文字通り守ってはいません。普段の生活の中でも、旧約聖書の律法をなかなか読む機会は少ないかもしれません。祈祷会では、普段は読むことの少ない律法をじっくりと読み続けてきましたが、私自身、たくさんのことを教えられました。現代の私たちの視点からすると不可思議に思える掟にも、当時としては大切な意味があり、必然的な理由があったことを知らされました。

 

 

 

ただ二つのことに基づいて ~神を愛し、隣人を愛する

 

 旧約聖書に記されている、さまざまな律法。これほどたくさんの掟があって大変ではないかと思われるかもしれません。律法は記されている内容も多岐に渡ります。イエス・キリストは、しかし、これらたくさんの掟は、ただ二つのことに基づいて記されているんだよ、ということを教えてくださいました。その二つのこととは、「神さまを愛すること」と「隣人を愛すること」です。

 

マタイによる福音書223740節《イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』/これが最も重要な第一の掟である。/第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』/律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」》

 

 主イエスは数ある律法の中から、二つの掟を取り上げられました。一つは、申命記6章5節に記されている「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」です。そしてこの掟と同等に大切なものとして、レビ記1918節の「隣人を自分のように愛しなさい」という掟を取り上げられました。

 

神を愛することについての教えと、隣人を愛することについての教え。たくさんある律法も、この二つのことに基づいて記されていると主イエスはおっしゃいました。この主イエスの指針を受けて律法を読み直してみますと、把握しがたいように思われていた律法も、とても分かりやすいものとなってきます。

 

 

 

「祭儀的な律法」と「人道的な律法」

 

神さまを愛することについての律法には、具体的にたとえばどのようなものがあるでしょうか。たとえばそれは、祭儀(礼拝)の仕方についての律法、神さまへの献げ物についての律法、安息日についての律法、清いものと汚れたものについての律法、などです。これら律法は、少し難しい言葉で「祭儀的な律法」ということもできます。祭儀とは、言い変えれば礼拝、ということですが、神さまを礼拝することにつながる宗教的な教え全般が、この「祭儀的な律法」に該当します。

 

と同時に、律法には隣人を愛することについての教えも記されています。これら律法を、「人道的な律法」と呼ぶことがあります。人としての「生き方」を教える、倫理的、道徳的な律法のことです。これら律法には直接的には神さまのことは出てきません。隣人を愛するとは、具体的にどのようなことを指すのかを教えているのが、これら「人道的な律法」です。律法は、宗教的な教えだけではなく、このような人道的な教えもあるのですね。

 

 

 

人道的な律法 ~弱い立場にある人々への配慮

 

人道的律法の中には「貧しい人」「寄留者」「孤児」「寡婦」と呼ばれる人々が登場します。古代イスラエル社会においては、「奴隷」とされた人々の他に、弱い立場に立たされていたのがこれらの人々でした。旧約聖書には、弱い立場にある人々、虐げられている人々の代表としてこれらの人々が繰返し登場しています(ゼカリヤ書710節、ヨブ記311323節参照)。「人道的律法」では特に、これら弱い立場にある人々の存在を大切にしています。人道的な律法とは、社会的に弱い立場に立たされている人々をいかに守るかを教える律法でもあります。

 

実際にいくつか、人道的な律法を読んでみましょう。申命記の241015節《あなたが隣人に何らかの貸し付けをするときは、担保を取るために、その家に入ってはならない。/外にいて、あなたが貸す相手の人があなたのところに担保を持って出て来るのを待ちなさい。/もしその人が貧しい場合には、その担保を取ったまま床に就いてはならない。/日没には必ず担保を返しなさい。そうすれば、その人は自分の上着を掛けて寝ることができ、あなたを祝福するであろう。あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう。/同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。/賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい》。

 

お読みしました律法では、特に《貧しい者》とされた人々が対象とされています。何らかの事情によって、自分で生計を立てることができなくなった人々です。ここでは貧しい人々から搾取をしてはならないということが言われています。たとえば、担保に関して。当時は貸し付けをするときは担保を取ることは当然とされていたそうですが、担保として貧しい人から受け取った上着は日没には返すべきであることが述べられています13節)。唯一の衣服である上着がないと、その人は夜くるまって寝るものがなくなってしまうからです。貧しい人のことを配慮することができたとき、《あなたはあなたの神、主の御前に報いを受けるであろう》ということも語られています。

 

これら人道的な律法では、非常に具体的な事例を挙げながら、貧しい人々を守るべきことが訴えられています。近現代の歴史において徐々に整えられていった「社会福祉制度」の芽生えをここに見出せることができるのではないかと思います。人道的な律法とは、言い変えれば、社会福祉的な律法ということができるでしょう。

 

もう一つ、人道的な律法を読んでみましょう。申命記241718節《寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。/あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを命じるのである》。

 

《寄留者》とは、「自分の氏族や部族以外の土地で生活する人々」のことを指します。寄留者は自分の土地を持たず、自分の権利を主張できない立場にありました(M.ノート)

また同様に、《寡婦》と《孤児》も、古代イスラエル社会において弱い立場にある人々でした。古代イスラエル社会において女性と子どもは夫または父親の保護を受ける立場にありました。現代の視点からすると問題のある表現ですが、当時女性と子どもは家父長の「所有物」(家父長に属する存在)であるとされていたのです。保護者を失った寡婦と孤児は、特に弱い立場に置かれることとなりました。この律法では、その保護者を失った寡婦と孤児の「権利をゆがめてはならない」と警告が発されています。

 

 

 

同じ視点に立って

 

人道的な律法では、弱い立場にある人々の権利を守るべきことの根拠として、イスラエルの民自身がかつてエジプトで奴隷であったことが挙げられています(申命記2418節)

イスラエルの民はかつてエジプトで自分たちが弱い立場に立ち、その苦しみを知っているからこそ、いまそのような立場にある人々の気持が分かり、守ることができる、というのです。優越的な立場から配慮するのではなく、同じ視点に立って、まるで「自分自身のように」弱い立場にある人々を配慮するというこの視点がここにはあります。《あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである》(レビ記193334節)

これら人道的な律法は、近現代の人権思想のルーツの一つとなっているということもできると思います。

 

 

 

律法を完成するために

 

私たちは現在、礼拝の中でマタイによる福音書の「山上の説教」を読んでいます。山上の説教において、主イエスは旧約聖書の律法を取り上げつつ、まったく新しい解釈を提示されています。読みようによっては、主イエスは旧約聖書の律法を否定して、新しい教えを提示しているようにも思えますが、マタイによる福音書は、主イエスは旧約聖書の律法を全否定しているわけではないということをあらかじめ伝えています。主イエスは律法を「廃止するため」ではなく、「完成するため」に来られたのだ、と伝えています。

 

改めて、本日のマタイによる福音書の御言葉をお読みいたします。マタイによる福音書51720節《「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。/はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。/だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。/言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

 

 

 

《小さな掟》に目を注ぐ

 

 本日の御言葉の中で、注目したい表現があります。18節《すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない》。《一点一画》の「一点」訳されている部分は、ヘブライ語のアルファベットの一つである「ヨード( y 」という文字がイメージされているようです。「ヨード」は小さな点のような形をしており、小さすぎて見落としてしまいそうな文字です。

 

 主イエスはここで「ヨード」というまことに小さな文字を取り上げられていますが、このことを通して、律法の中で、見落とされがちな《小さな掟》19節)にこそ目を注ぐことの大切さを伝えられているように思います。当時、イスラエルの社会において見落とされがちな掟であったのが、先ほどご紹介しました「人道的な律法」です。とりわけ、社会的に弱い立場にある人々を守るための律法がないがしろにされてしまっていました。

 

当時のイスラエル社会においては、弱い立場にある人々を大切にすることを教える律法は、神さまを礼拝するための律法の陰に隠れて見えにくくされていました。たとえば、宗教的な指導者たちは神殿で熱心に礼拝をささげているが、神殿の外の貧しい人びとの存在には無関心、という現状がありました。弱い立場にある人々への配慮を教える律法は、もはや取るに足らない、小さな掟であると見なされてしまっていたのかもしれません。

 

 そのように人間が大切にされない社会にあって、主イエスは、「ヨード」という文字のように、小さく、目立たなくされている掟に光を当ててゆかれました。主イエスは隣人を大切にすることを教えるこれら掟を拾い上げ、光を当て、そして完成へと導かれました。人道的な律法の本質を身を持って体現され、そして完成へと導いてくださったのです。

 

 主イエスはおっしゃいました。19節《これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる》。

 

 

 

主イエス御自身が小さな「ヨード」となられ

 

主イエスは何か上から、高みからそうされたのではなく、御自身が小さく弱い立場に立たされた者となって、その「低み」から、それを成し遂げてくださいました。御自分がまるで「ヨード」という文字のように小さくなられ、弱くされ小さくされた人々の声を聴き取り、その声を自分自身の声としてくださいました。大きな声の中でかき消されそうな、「ヨード」という文字のような、小さな声を聴き取って下さいました。一人ひとりの「病い」「痛み」「過ち」を、自分自身のこととして担ってくださいました(イザヤ書53章)。そうして、隣人を「自分のように」愛するという律法を成し遂げ下さいました。隣人を愛することを通して、第一の掟、神さまを愛するということを成し遂げてくださいました。私たちが互いを大切にすることに、神さまの願いがあるからです。

 

 私たちもまた、小さな「ヨード」という文字にこそ目を注ぐ歩みをしてゆきたいと願います。