2016年9月4日「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

201694日 花巻教会 主日礼拝

聖書箇所:マタイによる福音書53842

 

「誰かが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

 

 

  台風10

 

台風10号によって、岩手と北海道に大きな被害がもたらされました。県内では特に岩泉町、宮古市、久慈市などに甚大な被害がもたらされています。この度の災害によってご家族を亡くされた方々の上に主よりのお支えがありますように、いまだ孤立状態の方々に一刻も早く必要な支援が行きわたりますようにと祈ります。これから、私たちにできることを祈り求めてゆきたいと思います。

 

 

 

「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」

 

 本日の聖書箇所の《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》という言葉は、最もよく知られたイエス・キリストの言葉の一つです。「復讐をしてはならない」ことを教えるこの言葉は、たとえば「非暴力・不服従」を説いたガンジーにも大きな影響を与えたと言われています。

 

一方で、この言葉は言わんとすることが分かりづらい言葉でもあります。一体イエス・キリストはこの言葉を通して、どのようなことをおっしゃろうとしているのか、必ずしも自明ではありません。左の頬を向けてさらにもう一発叩かれたらどうするのだ、とつい思ってしまいますよね。

 

まずは、この言葉がどういう文脈で語られているのかをご一緒に見てみたいと思います。

 

 

 

「目には目を、歯には歯を」!

 

あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。/しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》マタイによる福音書53839節)

 

まず、『目には目を、歯には歯を』という言葉が引用されています。古代のハンムラビ法典に記されていることで有名な言葉ですが、同様の言葉が旧約聖書の律法にも記されています。《目には目、歯には歯、手には手、足には足、/やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない》(出エジプト記212425節)

 

よく指摘されるように、これら掟には「過剰な報復(復讐)を禁じる」という意図もあったと考えられています。何倍もの仕返しをすることを禁じ、「報復を最低限のものにとどめる」という意図が込められていたのですね。片方の目が攻撃を受けたとしたら、同じように、相手の片方の目を攻撃すべきである。両方の目に報復してはならない、ということです。「目には目を、歯には歯を」という法は、古代世界においては、高い水準を目指したものであったということになります。

 

この考え方が当たり前であったところで、イエス・キリストは「報復そのものを否定」なさいました。当時、この教えを聞いた人々はびっくり仰天したことと思います。報復を最低限のものにとどめるのではいまだ不十分である、報復そのものをしないということが、神さまの意図に真に添うものであることを主イエスは述べられています。

 

ちなみに、細かなことですが、この箇所では初めに打たれるのが《右の頬》となっていますね。多くの人は利き手は右手であるので、右手で右の頬を打つなら、手の甲で打つことになるという指摘があります。手の平で打たれるより手の甲で打たれる方が、より屈辱的な感じがいたしますね。ユダヤ教の人々にとっては手の甲で打たれるというのは、非常に屈辱的なことであったようです。もちろん、「だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」ということはここではたとえとして言われているわけですが、もし実際にこのような屈辱的なことをされたら、痛みと共に、強烈な怒りが心の内に湧きあがることと思います。怒りに我を忘れて相手を叩き返してしまう、ということが起こってもおかしくはありません。そのような状況の中で、さらに自分の左の頬を差し出す、というのは私たちにとって確かに困難なことであると思わされます。

 

 

 

「報復したい」という欲求

 

「報復したい」「仕返ししたい」という欲求は誰の心の内にも生じるものです。たとえば身近な例で言いますと、ひどい言葉を投げかけてきた相手に、同じようにひどい言葉を投げかけてしまった、ということはどなたでも経験があるのではないでしょうか。「売り言葉に買い言葉」という言葉がありますが、相手の言葉についカッとなって言い返してしまうということがあります。そうして後から、自分の口から出た言葉について後悔します。

 

 そのように互いにひどい言葉を投げつけ合ったことによって、私たちの関係性が壊れてしまうということもあります。場合によっては、それで関係性が途絶えてしまうことがあります。怒りと報復とはそのように私たちの関係性を破壊してしまうものです。

 

 そのように苦い経験をしつつも、しかし私たちはなかなか自分の怒りを制御することができません。ひどい言葉を言われると、同じようにひどい言葉で言い返してしまいます。気が付くと、「目には目を、歯には歯を」という態度を取ってしまっているのですね。さらにはその制限を超えて、何倍もの仕返しをしようという態度を取ってしまっているかもしれません。

 

 

 

二つの怒り

 

怒りには大きく、二つの種類の怒りがあるように思います。一つは、いま述べてきたような、他者との関係性を壊してしまう怒りです。もう一つの怒りは、不正義に対する怒りであり、人間の尊厳がないがしろにされることへの怒りです。この怒りはまっとうな怒りであり、私たちが大切に持ち続けるべきものでありましょう。

 

本日問題にされているのは、前者の怒り、他者との関係性を壊してしまう怒りです。この怒りは他者を傷つけ、自分自身も傷つけます。私たちの関係性を損ないます。私たちはいかにしたら、この怒りを克服してゆくことができるでしょうか。

 

 

 

イエス・キリストのお姿 ~暴力に対して暴力を返さない

 

 このことは私たちにとって非常に重要なテーマであり、すぐに解決できるものではないでしょう。時間をかけて取り組むべきテーマであると思います。諸宗教でも、怒りをいかに克服するか、ということが重要な主題として説かれていますね。たとえば仏教においても、怒りをいかに克服してゆくかということが重要なテーマの一つとなっています。

 

本日は、イエス・キリストご自身のお姿に目を向けてみたいと思います。主イエスはご生涯の最期の十字架の道行きにおいて人々から暴力を受けました。手の甲で頬を打たれるよりはるかに屈辱的な仕打ちを受けられました。しかし主イエスは、この仕打ちに対し、怒りをもって復讐を願うことをなさいませんでした。

 

《人々は、「死刑にすべきだ」と答えた。/そして、イエスの顔に唾を吐きかけ、こぶしで殴り、ある者は平手で打ちながら、/「メシア、お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と言った》(マタイによる福音書266668節)。《…総督の兵士たちは、イエスを総督官邸に連れて行き、部隊の全員をイエスの周りに集めた。/そして、イエスの着ている物をはぎ取り、赤い外套を着せ、/茨の冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱した。/また、唾を吐きかけ、葦の棒を取り上げて頭をたたき続けた。/このようにイエスを侮辱したあげく、外套を脱がせて元の服を着せ、十字架につけるために引いて行った》(同272731節)

 

 これら暴力を身に受けながら、主イエスは暴力でもって報復されることをなさいませんでした。神に報復を願うこともなさいませんでした。どれほど暴力を振るわれても、人間としての尊厳を傷つけられても、相手に同じ報復をすることに対しては、はっきりと「否」を突きつけ続けられました。暴力に対して暴力を返さない。憎しみに対して憎しみを返さない。主イエスは十字架の死に至るまで、この最も困難なことを実践されました。

 

 主イエスのこのお姿というのは、単なる「無抵抗」ということとは異なります。《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》という言葉は、不正義を見過ごせということを伝えるものではありません。そうではなく、「暴力的な言動に対して、同じように暴力的な言動をもって報復すること」を禁じているのが本日の言葉です。

 

ガンジーの主張した「非暴力・不服従」も同様です。「非暴力、不服従」というのは「無抵抗」とは異なります。不正に対して何もせず「無抵抗」でいるのではなく、はっきりと抵抗をするが、ただし、暴力をもっては決してそれはしないということです。そしてそのことを成し遂げるためには、一つの決意が求められるのではないでしょうか。報復の連鎖、憎しみの連鎖を断ち切ろうという決意です。

 

 

 

報復の連鎖を断ち切る決意を ~まず、この私から

 

《だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい》という言葉を通して主イエスが私たちに伝えようとされている根本のもの、それは「報復の連鎖を断ち切る決意」であると思います。

 

先ほど申しましたように「報復したい」という想いは誰の心の内にも生じるものです。旧約聖書の詩編を読みますと、復讐を願うその想い自体は必ずしも否定されてはいない、ということも分かります。生きてゆく中で、私たちの心の内には「仕返しをしたい」という思いは必ず生じます。私たちはそのことを率直に受け止めつつ、しかし私たちはその欲求が命じるままに行動するのか。それとも、その欲求に自らが支配されるのを拒むのか。私たちは決断を迫られています。

私たちはこれからも「目には目を、歯には歯を」という価値観の中で生き続けてゆくのか。それとも、その価値観を乗り越えてゆくのか。

 

私たちの生きる社会は、至るところで報復の連鎖、暴力の連鎖、憎しみの連鎖が見出されます。身近なところで、また遠いところで。その連鎖はとどまるところを知りません。古代世界から終わることのない、「目には目を、歯には歯を」の連鎖です。頻発するテロと、そのテロに対する空爆での報復。この構造は、まさに私たちの生きる世界が「報復の連鎖」のただ中にあるということを示しています。そのような中にあって、私たちはまず自分自身が変わる決意をする、ということが大切であるのでしょう。自らをもって、「報復の連鎖を終わらせる」という決意です。

 

誰かに右の頬を打たれたとき、同じように相手の右の頬を打ち返すことを思いとどまるなら、そこで、報復の連鎖は終わります。たとえ自分の周囲においては、報復の連鎖は終わることなく続いているのだとしても、少なくとも、自分が立たされているこの場においては、報復の連鎖は終わります。そのとき、私たちは、平和を実現するための確かな一歩を進めていることになります。

 

主イエスはおっしゃいました。《平和を実現する人々は、幸いである。/その人たちは神の子と呼ばれる》(マタイによる福音書59節)。主イエスはいま、私たちと共にいて、このことを呼びかけ続けてくださっています。

 

報復の連鎖を終わらせ、平和を実現するための一歩を、まずこの私から始めてゆきたいと願います。