2019年4月14日「十字架への道」

2019414日 花巻教会 主日礼拝説教 

聖書箇所:ルカによる福音書223953 

十字架への道

 

 

ルカによる福音書223953節《イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。/いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。/そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。/「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」/〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。/イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕/イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。/イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」/

 

イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。/イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。/イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。/そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。/そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。/それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。/わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

 

 

 

熊本・大分地震から3

 

今日は414日。2016414日、16日に発生した熊本・大分地震から3年を迎えました。3年を迎えるにあたり、本日は全国で祈りがささげられていることと思います。被災地では現在も約16500人の方々が仮住まいの生活をしていらっしゃいます。

 

熊本・大分地震は教会の会堂にも被害をもたらしました。九州教区では15の教会・伝道所(在日大韓基督教会を含む)に被害がありました。この度発行された日本基督教団熊本・大分地震被災教会会堂等再建支援委員会のニュースレター2019.4.1 Vol.04で、被災した教会の現状をイラストマップにして掲載してくださっています。受付のところに掲示しておりますので、どうぞご覧ください。

 

熊本では今年に入ってからも震度6を超える大きな地震が2回発生しています。ニュースレターでは《気の休まらない日々があの日から続いています》という一文が記されていました。いまも強い不安を抱えながら生活をしている方々、困難の中にいる方々を覚え、これからもご一緒に祈りをあわせてゆきたいと思います。

 

 

 

「重んじられること」と「軽んじられること」

 

 ヘブライ語の名詞で「カーボード」という言葉があります。日本語では「栄光」「名誉」と訳すことの出来る言葉です。聖書を読んでいると、神さまに対して用いられる言葉として、「栄光」という言葉がよく出てきますね。

 

この「カーボード」という名詞には「栄光」「名誉」の他に、「重さ」という意味もあります。「栄光」と「重さ」ということがつながっている、というのは、何となくイメージができるものですよね。「栄光を与える」ということは、すなわち、「重んじる」という意味とつながっているのです。

 

では、ヘブライ語で「軽さ」を意味する言葉は何と言うでしょうか。形容詞で「カル」と言います。「軽い」と「カル」。偶然にも(!?)日本語と似ていますね。この「カル」という語の動詞には「侮辱をする」という意味があります。さらには、「呪う」という意味もあるそうです。ヘブライ語において、「軽んじる」ということはすなわち「侮辱する」ことであり、さらには「呪う」ことであったことが分かります。

 

これらのニュアンスというのは、現代の日本に生きる私たちにも、実感をもって理解できるものではないでしょうか。相手の存在を「重んじる」ことがすなわち、相手を「尊ぶ」ということであり、相手に「栄誉を与える」ことにつながる。反対に、相手の存在を「軽んじる」ことが、相手を「侮辱する」ということであり、さらには相手を「呪う」ことにもつながっている。

 

 私たちは、人から「重んじられている」と感じることができたとき、とても嬉しく思うものです。誇りに思うものです。一方で、人から「軽んじられている」と感じるとき、つらい気持ちになります。

 

「軽んじられている」という表現は、少し強い言葉で言いかえれば、「なめられている」ということもできるでしょう。私たちは他者から軽んじられるとき、侮辱されたように感じ、自尊心を深く傷つけられます。この痛みは、あらゆる人にとって、共通の感覚であることと思います。国籍、人種、性別、年齢などを超えて、私たち人間に共通の感覚です。

 

 

 

他者から「軽んじられる」ことの痛み

 

 私たちは日々の生活において、「重んじられている」と感じることができる瞬間というのは、残念ながら多くはないかもしれません。むしろ、「軽んじられている」と感じる瞬間の方が多いかもしれません。特に、組織や集団の中にいるときに、そう感じてしまうことが多いことでしょう。多くの人が関わる場にいると、自分は別に「いてもいなくてもいい」存在なのではないかと思うことがあります。自分という存在がまるで空気のように「軽い」もの、「はかない」もののように感じることもあります。私たちはそれぞれ、この社会で生きてゆく中で、そのような辛い経験を数限りなくしてきたのではないかと思います。

 

私たちは幼い頃から、あまりに長期間に渡ってその痛みを感じ続けているので、その状態がむしろ「当たり前」となっているのかもしれません。そうして、痛みを痛みとしてはっきりと感じることがなくなっている場合もあるかもしれません。私たちが生きる日本の社会は現在、そのような状況にあるのではないでしょうか。多くの人が、自分や他者が「軽んじられる」「なめられる」「見下される」ことの痛みに対して、だんだんと無感覚になってしまっている、という状況です。

 

 それは自分を守るためあえて無感覚になっていると言えるのであり、防衛本能によるものと言えると思いますが、その鎧を少しずつ取り去ってゆくと、私たちは傷つき続けている自分自身に出会います。「軽んじられる」ことの痛みをひしひしと感じている自分です。

 

 私たちは幼い子どもであったとき、最もこの痛みに敏感であったでしょう。幼い子どもは、自分が「軽んじられている」か「重んじられているか」を、いわば全身で感じ取ります。自分が「大切にされていない」と感じる時、その痛みは子どもの心に突き刺さります。

 

この大きな痛みとは、言い変えれば、「尊厳がないがしろにされる」ことの痛みであるということができるでしょう。幼い子どもはもちろん、「尊厳」という言葉はいまだ知りません。けれども「尊厳」という言葉を知らなくても、それがないがしろにされることの痛みや悲しみを全身で知っていることと思います。

 

 

 

「痛みを痛みとして感じる」ことを取り戻す

 

私たちのいま生きる社会は、「尊厳がないがしろにされ続けている社会」であるということができるのではないでしょうか。さまざまな場において、尊厳がないがしろにされ続けている。私たちの身近なところでもそれは絶えず起こり続けているでしょうし、また社会の様々な場面においてもそうです。

 

私たちはいま一度、「自他の尊厳がないがしろにされている」ことの痛みに鋭敏になってゆくことが求められているのだと思います。「痛みを痛みとして感じる」ことを取り戻してゆくこと、です。

 

私たちの尊厳がないがしろにされている領域は、他にもさまざまにあります。きっと身近なところにもあるでしょう。また、私たち自身がいまだ無自覚に他者の尊厳をないがしろにしてしまっている領域もあるでしょう。私たちは互いに「軽んじ、軽んじられる」ことの「呪い」の縄目を解き放ち、それを「祝福」へと変えてゆかねばなりません。一人ひとりが人格をもった存在として「重んじられる」あり方へと変えてゆかねばなりません。私たち自身が「尊厳についての感覚」を取り戻してゆくことは、喫緊の課題です。

 

 

 

十字架への道において、尊厳をないがしろにされた主イエス

 

 私たちは現在、教会の暦で「受難節」の中を歩んでいます。イエス・キリストのご受難、十字架の死を心に留めながら歩む時期です。

 

受難物語を読んでいますと、イエス・キリストが十字架への道において、周囲の人々から「尊厳をないがしろにされる経験」をされたことが分かります。受難物語は、主イエスが他者から軽んじられ、侮辱されることの痛みを極みまで経験されたことを証ししています。

 

先ほどお読みしました聖書箇所は、ユダの裏切りをきっかけの一つとして、主イエスが逮捕される場面でした。その最後のところで、主イエスは自分を捕らえに来た人々に次のようにおっしゃっていました。《今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている(ルカによる福音書2253節)

 

この闇とは、他者を軽んじ、その尊厳を奪う、否定的な力です。その否定的な力がいま、猛威を振るっている。十字架の道行きにおいて、主イエスはその悪しき力の中にさらされてゆきました。そうして肉体的に、精神的に、激しい暴力をお受けになりました。

 

たとえば、本日の聖書箇所の後には、主イエスが見張りをしていた者たちから侮辱され、暴行を受ける場面が続きます。《さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。/そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。/そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった(ルカによる福音書226365節)

 

 見張りの者たちの行為は、まさに他者を「軽んじる」ことの極みのような行為です。主イエスは十字架の道行きにおいて、肉体的に、精神的に虐待を受け、尊厳を徹底的にないがしろにされる経験をされました。

 

 この主のお苦しみを想い起こすことによって、私たちは「痛みを痛みとして感じる」感覚を再び取り戻してゆくのだと受け止めています。苦しみを受ける主イエスのお姿は、尊厳をないがしろにされる私たちの現実を映し出しています。私たちの痛みを、主イエスはご自身のものとして経験し尽くしてくださったのです。また同時に、主イエスを虐待したローマ兵士たちの姿は、他者の尊厳をないがしろにしてしまう私たち自身の現実も映し出していると言えるでしょう。

 

私たちはこれら受難物語における主のお姿を通して、「尊厳についての感覚」を取り戻すようにと招かれています。そして、社会からこのような苦しみを少しでも無くしてゆくためにそれぞれが自分にできることを実行してゆくよう招かれています。

 

 

 

消えることのない光 ~神はあなたを極みまで「重んじ」

 

 受難物語を呼んでいますと、もう一つ、私たちが知らされることがあります。主イエスは肉体的、精神的な苦しみを極みまで経験されましたが、それでもなお、主イエスのお姿のうちに、失われない尊厳の光がともっている、ということです。失われないその光、それは、神さまからの尊厳の光に他なりません。苦しみのただ中での尊厳ある主のお姿は、どんな力も、暴力も、神さまからの尊厳の光を奪うことはできないのだということを示しています。

 

そして主イエスを通して輝き出でたこの消えることのない光は、いま、私たち一人ひとりを照らし出しています。私たち一人ひとりの内に、消えることのない神さまからの光を灯して下さっています。

 

この光に目を注ぐとき、私たちは、主イエスの語りかけを聴きます。「どれほどあなたが他者から軽んじられようと、虐げられる状況にいようと、神があなたに与えられている尊厳は決して失われることはないのだ」と。あなたがどれほど世界から軽んじられようと、神はあなたを極みまで「重んじ」、価高く貴いものとして見つめ、愛し続けてくださっている(イザヤ書434節)のだ、と。茨の冠をかぶせられ十字架におかかりになる主イエスはいま、私たち一人ひとりを見つめ、そう語りかけて下さっています。

 

 どうか、この地上に人間の尊厳が、天に神の栄光がもたらされてゆきますように。そのために私たち一人ひとりが働いてゆくことができますようにと願います。